聖金曜日 主の受難

2020年4月9日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

聖 金 曜 日  主 の 受 難

♰主の平和
 明日の典礼はキリストの受難を記念します。今夜の聖木曜日の典礼の最後に行われる「聖体安置式」によって、キリストは私たちから取り去られ「不在」となります。そのために明日の典礼はミサではなく「ことばの祭儀」で行われます。ミサという食卓はキリストが主人であって、私たちを招いてくださることによってはじめて成立するからです。従って、主人が「不在」であっては食卓、ミサという宴を開くことはできません。
 その「不在」を可視化するために祭壇には何も飾らず、十字架もろうそくも置かれず、祭壇布もかけられずに「裸」のままです。
 なお、日本においては聖金曜日は平日ですので一般的には夜間に行われますが、本来は午後3時から行うようにと定められています。それはマタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書がイエスの死が午後3時ごろであったと記しているからです。
 
 「主の受難」の典礼は「ことばの祭儀」「十字架の崇敬」および「聖体拝領(交わりの儀)」の三部から成っています。「および聖体拝領」と書きましたのはこれまでの説明でお察しされることと思いますが、キリストが「不在」であるがゆえにミサが行われないのですから「パンの聖別」ができないゆえに「聖体」も存在しないはずなのです。実際、カトリック教会(東方教会は別)では7世紀まで聖体拝領は行われず、16世紀にも聖体拝領は司祭だけとされた時期もありました。  
 聖金曜日の典礼における聖体拝領は司牧的配慮で行われる付加的なものであって、中心は「ことばの祭儀」における「受難の朗読」にこそあるのです。

 「受難の朗読」の前に置かれているイザヤの預言は、なぜ神の子であるキリストが人の手によって十字架で殺されねばならなかったのかという、弟子たちを苦しめた大きな問いに対しての弟子たちの答えを求めての歩みを知るうえで、とても大切な箇所です。
 現在の私たちはある意味、「十字架」に慣れてしまってはいないでしょうか。それを見ても、自分たちの信仰の対象、シンボルとして抵抗なく受け入れてしまってはいないでしょうか。けれども、十字架の神秘、そのはかり知れない恵みを感じるためには、当時のローマ世界のまた弟子たちにとっての「十字架」とはどのようなものであったのかを知る必要があり、それを「受難の朗読」を通して追体験するように聖金曜日の典礼は構成されています。
 
 十字架は当時のローマ世界にあって、もっとも残酷で、屈辱的な刑でした。それは受刑者の人格を粉々に打ち砕き、その存在の痕跡さえも消し去ってしまうがごとき刑罰でした。まず十字架に架ける前に、拷問によって肉体を鞭で、精神を罵詈雑言で破壊していきます。そして十字架の木を担がせて(かなりの重量ですから現在では横木だけであったのでは、という説もあります)人びとの中をさらしものにして歩かせます。刑場につくと裸同然の姿にして十字架の上に寝かせて両手に一本ずつ、両足を交差させて一本の釘を打ち込みます。
 そして立てます。磔にされた受刑者は次第に体が下がってきて喉がつまり、最後は窒息して死にます。それはまさに真綿で首を絞めていくように、徐々に息苦しさが増していくという非常な苦痛でした。死んだ後、原則的に死体は埋葬されずに架けられたままで残されます。やがて腐った死体は地に落ちて、鳥や獣によって食い尽くされていき、遺骨さえも残らないのです。そのことはローマ帝国内において数多く十字架刑が行われたのにも関わらず、その遺骨がほとんど残っていないことからもわかります。
 この残酷さは、十字架刑がローマ帝国への反逆罪に課せられるものであり、いわば逆らえばこうなるという「見せしめの刑」であったからです。
 当時の人びとにとって十字架刑は恐怖であり、哀れというよりも目を背けて関わり合いを拒みたくなるような、みじめで恥辱に満ちたものでした。最低、最悪の死に方として恐れられ、嫌悪されていたのです。

 イエスが、神の子がそのような「十字架」に架けられて殺されてしまったのです。弟子たちの衝撃はどれほどのものであったのか、察するに余りあります。
 出口のない闇の中をさまようにして弟子たちは苦しみ悶えながらも「なぜ、どうして」と問いつづけたことでしょう。そんな弟子たちにひと筋の光を与えてくれたのが、第一朗読のイザヤの預言でした。

「彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない。
 それほどに、彼は多くの民を驚かせる(52:14-15)」
「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた(53:8)」
「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
 彼らの罪を自ら負った(53:11)」
「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは
 この人であった(53:12)」

 この箇所は現代では「苦難の僕」と呼ばれています。弟子たちはここに預言されている「わたしの僕」の姿に十字架のキリストの姿を見出しました。それによって暗闇から抜け出し、この世的には敗北の象徴であった十字架を逆にキリストの勝利、栄光として崇めていくのです。それはまさにこの世的な価値観が逆転し、まったく新たな福音的価値観へと開かれていく、新しい世界の始まりだったのです。
 十字架を担って生きることは、この世的な価値観ではなく、福音的価値観に従って生きていくことなのです。
 
 そのためにキリストがどれほどの苦しきを過ぎ越さねばならなかったか、その苦しみを受難の朗読を通して深く心に刻み込まねばなりません。それがキリストの過越によって無償で救われた私たちの責任、キリストの愛に応えることになると思います。キリストの苦しみに共感していくのです。
 それはまた全世界の人びとの苦しみに共感していくことになります。イエスが死ぬ前に大声で叫んだ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(マタイ27:46)」はけっして個人的な絶望の叫びではありません。
 「あの叫びの中で、歴史上のすべての磔刑者たちが叫んでいました。それは不正に対する憤り、抗議の叫びでした。同時に希望の叫びでもありました。初期のキリスト者たちは、このイエスの叫び声を決して忘れませんでした。すべての人の幸せを求めて排斥され、処刑されたこの人の叫びには、いのちの究極的な真理があります。この磔刑者の愛の中には、苦しむすべての人と一つになり、あらゆる時代の、あらゆる不正、虐待、暴行に反して叫ぶ神ご自身がおられます(パゴラ・エロルサ・ホセ・アントニオ神父「イエス あなたはいったい何者ですか」ドン・ボスコ社501頁より)」
 この叫びが受難の朗読全編を貫いています。イエスの苦しみ、この叫びに共感することは、私たちも現代の世界にあって苦しみ叫ぶ人びとと共に叫び、その人々の痛みに共感することです。イエスの受難を黙想することが閉鎖的なセンチメンタルなものに終わるだけでは足りないと思います。

 第二部の「十字架の崇敬」におきましても、どうぞ全世界の苦しむ人びとともにおられるキリストの姿として、十字架を礼拝してください。今年は、典礼のネット中継を通してか、黙想の中において礼拝してください。

祈りのうちに

*明日、主の受難を思うべき日の日中に「復活の徹夜祭」についてのメッセージを出すことは典礼暦的に相応しくないので、明後日の午前中に発信いたします。