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7月・8月のミサについて

2020年6月27日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

7月・8月のミサについて

♰主の平和
6月14日から、主日のミサを再開いたしました。
その後、運営委員会で分散方法によって実施されたミサを振り返って検討した結果、やはり午前中に3回のミサを行うことには種々の困難があるということになり、その結果、7月と8月の分散ミサを以下のように実施することに決定いたしました。

7月 5 12 19 26
9 A垂水地区 B舞子地区 A垂水地区 B舞子地区
11 C塩屋
+明舞北
D垂水北
+明舞南
C塩屋
+明舞北
D垂水北
+明舞南
8月 2 9 16 23 30
9 C塩屋
+明舞北
D垂水北
+明舞南
C塩屋
+明舞北
D垂水北
+明舞南
C塩屋
+明舞北
11 A垂水地区 B舞子地区 A垂水地区 B舞子地区 A垂水地区

(※ A:垂水 B:舞子 C:塩屋・明舞北 D:垂水北・明舞南)

815()聖母の被昇天
           9:塩屋+明舞北+ D:垂水北+明舞南
           11A:垂水地区+ B舞子

これまでのように、3密対策を徹底することは変わりません

  • 密集を避けるために

上記の表に従って、自分の属する地区のミサに参加するようにしてください。

*特別な事情があって、他の地区の方の車に同乗して来られる場合は運転者の方の地区のミサに参加しても構いません。

*ミサの入れ替わりの時が混雑しないために、ミサに来る時間を次のようにいたします。下記の所定の時間より前には来られないようにお願いします。

      • 9時のミサに来られる方は8時40分以降に来てください。
      • 11時のミサに来られる方は10時40分以降に来てください。

*来られた方は教会敷地内での会話を避け、聖堂内で、ミサに与るために黙想し、主と向かい合う心の準備をしてください。「聖書と典礼」を用いて、当日の朗読箇所を読み、黙想することもお勧めします。

*ミサが終了しましたら、不要不急の会話、作業は避け、すみやかに帰宅するようにしてください。

*座席は一列ずつ空けて、座ってもらいます。着席可能な場所に「聖書と典礼」を置いてありますので、そこに着席ください。家族(特に小さなお子さん連れ)また、介助を必要とされる障がい者の方は並んで座ってもらって構いません。ただ、できるだけ密接は避けてください。

*聖体拝領の際、間隔を開けて、マスクを着用したままで、中央に一列で並んでください。司祭の前に出て、司祭の「キリストの御からだ」に「アーメン」と答えて、一歩、横にずれてマスクの下から、聖体拝領をしてください。

なお、高齢者や障がい者、体調の悪い方は座席でお待ちください。聖体拝領の列が終わった後、前から順に司祭が向かいます。希望される方は手を挙げてください。聖体拝領は座ったままでも構いません。座席での聖体拝領を望まれる方は一階席、できるだけ前の方に座るようにしてください。

  • 密接(間近での会話や発声によって飛散する飛沫による感染)を避けるため

・ミサの中での会衆の応唱を先唱者が内陣で、一人でマイクを持って唱えます。

先唱者は、従来の祭壇奉仕者(8人)に交代で行ってもらいます。

*全員で唱えるのは「アーメン」「信仰宣言」「主の祈り」だけです。その際にも小声で唱えるようにしてください。

*「平和のあいさつ」の時は黙って、互いに頭を下げ合います。

・「あわれみの賛歌」などのミサ聖歌および入祭の歌などの聖歌を歌いません。
先唱者と司祭で唱えます。

*入祭、拝領、閉祭の時にはオルガンの独奏があります。

密閉を避けます。

ミサ中、聖堂の正面、南面中央の扉を開いておきます。

 

その他、各自でできること

・必ず、マスクを着用してミサに参加してください。聖体拝領の時だけマスクを外す(ずらす)ようにしてください。

・ミサに来る前に各自、検温をし、平熱でない場合、自宅でお祈りください。また体調が悪い場合も同様です。その場合、主日のミサ参加の義務は司教によって免除されています。

・アルコールティッシュ、消毒用ジェルなどを持参できる方は持参し、入堂時、聖体拝領の前などに手の消毒をお願いします。

持参できない方は入堂前に必ず、お手洗いで石鹸で手を洗うようにしてください。その際、お手洗いが密にならないように、信徒会館隣接のお手洗いなど、分散して行ってください。

 

*平日のミサ(火曜~土曜)は、前回の通達でもお知らせいたしました通り、
7時30分からの開始で行います。

 

前回の通達でもお伝えしましたように、教会の諸活動は中止し、信徒会館の施錠も継続いたします。聖堂は平日も午後5時まで開放しておりますので、聖体訪問は可能です。

今、「建物」としての「教会」としては「ミサを捧げる」ことと「聖体を訪問する」ことのふたつの目的に集中していると言えます。そしてこのふたつの目的こそが教会の命の泉であり、すべての活動はそこから意味と力を得ていると言えます。逆に言うと、そこから意味と力を得ていない活動は人間的な考えに捕らわれたものとなり、やがて涸れるか,淀んでいくことになります。

私たちの活動は神の思いを実現するために、キリストを伝えるために、自分を道具として行っていくものです。そのためには、ミサを通して絶えず、みことばと聖体の秘跡に立ち帰り、そこから意味と力を得ることが必要です。

そのことをこの時期に改めて、見つめて頂きたいと思います。

祈りのうちに。

6月14日(日)からのミサについて

2020年6月12日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

6月14日(日)からのミサについて

♰主の平和
前回、お知らせしましたように6月14日(日)から、ミサを再開たします。
ただ、今も新型コロナウイルスは死滅しておらず、行政やメディアからの発信などで感染に対する注意が呼びかけられています。そのため、教会でも3密対策を徹底したうえでミサを再開いたします。

① 密集を避けるために

主日のミサを分散して行います。以下のように、二地区ごとで三回にわたって行います。それぞれ参加者を二地区ずつに分けますので、自分の属する地区のミサに参加するようにしてください。

  • 特別な事情があって、他の地区の方の車に同乗して来られる場合は運転者の方の地区のミサに参加しても構いません。
6月 7月 8月
8時半 舞子地区・垂水北地区 明舞北地区・明舞南地区 塩屋地区・垂水地区
10時 塩屋地区・垂水地区 舞子地区・垂水北地区 明舞北地区・明舞南地区
11時半 明舞北地区・明舞南地区 塩屋地区・垂水地区 舞子地区・垂水北地区
  • ミサの入れ替わりの時が混雑しないために、ミサに来る時間を次のようにいたします。下記の所定の時間より前には来られないようにお願いします。

① 8時半のミサに来られる方は8時10分以降に来てください。
② 10時のミサに来られる方は9時40分以降に来てください。
③ 11時半のミサに来られる方は11時10分以降に来てください。

  • 来られた方は教会敷地内での会話を避け、聖堂内で、ミサに与るために黙想し、主と向かい合う心の準備をしてください。「聖書と典礼」を用いて、当日の朗読箇所を読み、黙想することもお勧めします。
  • ミサが終了しましたら、不要不急の会話、作業は避け、すみやかに帰宅するようにしてください。
  • 座席は一列ずつ空けて、座ってもらいます。着席可能な場所に「聖書と典礼」を置いてありますので、そこに着席ください。
    家族(特に小さなお子さん連れ)また、介助を必要とされる障がい者の方は並んで座ってもらって構いません。ただ、できるだけ密接は避けてください。
  • 聖体拝領の際、間隔を開けて、マスクを着用したままで、中央に一列で並んでください。
    司祭の前に出て、司祭の「キリストの御からだ」に「アーメン」と答えて、一歩、横にずれてマスクの下から、聖体拝領をしてください。
    なお、高齢者や障がい者、体調の悪い方は座席でお待ちください。聖体拝領の列が終わった後、前から順に司祭が向かいます。希望される方は手を挙げてください。聖体拝領は座ったままでも構いません。座席での聖体拝領を望まれる方は一階席、できるだけ前の方に座るようにしてください。

② 密接(間近での会話や発声によって飛散する飛沫による感染)を避けるため

  • ミサの中での会衆の応唱を先唱者が内陣で、一人でマイクを持って唱えます。
  • 先唱者は、従来の祭壇奉仕者(8人)に交代で行ってもらいます。
  • 全員で唱えるのは「アーメン」「信仰宣言」「主の祈り」だけです。その際にも小声で唱えるようにしてください。
  • 「平和のあいさつ」の時は黙って、互いに頭を下げ合います。
  • 「あわれみの賛歌」などのミサ聖歌および入祭の歌などの聖歌を歌いません。
    先唱者と司祭で唱えます。
  • 入祭、拝領、閉祭の時にはオルガンの独奏があります。

③密閉を避けます。

ミサ中、聖堂の正面、南面中央の扉を開いておきます。

その他、各自でできること

  • 必ず、マスクを着用してミサに参加してください。聖体拝領の時だけマスクを外す(ずらす)ようにしてください。
  • ミサに来る前に各自、検温をし、平熱でない場合、自宅でお祈りください。また体調が悪い場合も同様です。その場合、主日のミサ参加の義務は司教によって免除されています。
  • アルコールティッシュ、消毒用ジェルなどを持参できる方は持参し、入堂時、聖体拝領の前などに手の消毒をお願いします。
    持参できない方は入堂前に必ず、お手洗いで石鹸で手を洗うようにしてください。その際、お手洗いが密にならないように、信徒会館隣接のお手洗いなど、分散して行ってください。

 以上のような対策に関しまして、ミサの式次第の流れに沿って応答箇所などを詳細に書き出した「新型ウイルス感染下にある教会でのミサ参加のガイド」を作成しました。単にウイルス対策だけでなしに、ミサの構造についての説明にもなっていて、この時期に改めてミサをより理解するための助けにもしていただきたいと思っております。
 6月14日以降、聖堂受付に置いておりますので、ご自由にお持ち帰りください。
 6月16日(火)より平日のミサ(火曜~土曜)も再開しますが、事情により7時30分からの開始に変更いたします。

 感染時における緊急の対策のため、当初は慣れないために混乱や行き違いが生じると思います。けれども、それを責めるのではなく、自分に何ができるのかを第一に考えて、協力し合って、行動して頂きたいと思います。
 ミサも声も出せず、歌も歌えずで、神への感謝を十分に表明できないために、もどかしい思いをされるかも知れません。
 けれどもある意味、ミサの祈願のことば、朗読箇所の聖書のみことば、というように「ことば」に集中できると思います。その中で今まで聞き流していたかも知れなかった「ことば」に新鮮な発見があるかも知れません。
 ミサのすばらしさ、その果てしもない恵みを改めて感じるチャンスであると思えます。

 どのような状況の中にあっても絶えず、父なる神への信頼を失わず、前を向いて歩いて行きましょう。 祈りのうちに。

2020年6月7日 三位一体の主日 A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年6月7日 三位一体の主日 A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】

出エジプト記(出エジプト34: 4b-6, 8-9)
 〔その日、〕モーセは朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降(くだ)り、モーセと共にそこに立ち、主の御名(みな)を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち〔た者。〕」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業(しぎょう)として受け入れてください。」

【第二朗読】
使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント13: 11-13)

 兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

【福音書】
ヨハネによる福音(ヨハネ3:16-18)

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子(おんこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

【福音のメッセージ】

「三位一体の神」

担当司祭:林 和則

 本日は「三位一体の神の主日」ですので、福音の内容そのものではなく、「三位一体」について、皆さんと分かち合いたいと思います。

 まず、皆さんにひとつの質問をします。キリスト教徒ではないご近所の方から、「お宅は毎週キリスト教の教会に行っているようね。世の中にはいろんな神さまがいて、みんな名前があるよね。日本だったら天照大神(あまてらすおおみかみ)、イスラム教だったらアラーの神とか。それで、お宅のキリスト教の神さまの名前は、なあに?」と質問を受けたら、どう答えますか。改めて聞かれたら、案外すぐに答えが出てこないものではないでしょうか。中には開き直って「神様は神様で、名前はない」と断言してしまう方もいらっしゃいますが、いえいえ、ちゃんと名前があります。実は皆さんは、その名前を既に知っています。というよりも、いつも唱えています。
 今日のミサの始まりにも「父と子と聖霊のみなによって、アーメン」と唱えました。「みな」というのはどういう漢字を書くのでしょうか?子どもたちに聞いてみると「父と子と聖霊の皆(みんな)によって、アーメンだ!」という答えが多いです。全くのはずれというわけでもないのですが、残念ながら違います。
「みな」は「御名」と書きます。「御」は接頭語で言葉に丁寧さを加えるもので、意味はありません。「名」はもちろん「名前」という意味です。つまり「父と子と聖霊のお名前によって、アーメン」ということです。
 私たちはこれによって、さまざまな祈りやミサの前に、まずどの神様に向かって祈るのかを宣言しているのです。「私たちは父と子と聖霊の神であるあなたに向かって祈ります」ということです。アーメンという言葉はヘブライ語で、そうです、そのとおりです、私はそう信じますというような意味で、その宣言を強め、祈りをゆるぎないものとします。ミサの中で司祭の祈りにたいして何度もアーメンとこたえるのも、皆さんが司祭と共に心を合わせて祈ることによって、司祭と信徒が共にミサを捧げていることを実現するためです。
 ともかく、もし皆さんがキリスト教の神さまの名前を誰かから聞かれた時には、「父と子と聖霊の神です」と答えてください。

 でも、聞いてきた方が宗教にくわしい人だったら、次にこう聞いてくるかもしれません。
「え~、それって、おかしくない?父と子と聖霊の神さまってことは、神さまが三人もいるの?キリスト教って一神教なんでしょう?どうして三人もいるの?」というように。
 これにたいして、本日の「三位一体」を取り上げて、こう答えてください。
「確かに、私たちの神さまは、父である神、子である神、聖霊である神の三つの神さまです。けれども三つの神さまだけど、ひとつの神さまで、これを三位一体の神といいます」
 
 ところがさらに「どうして三つの神さまがひとつなの?三位一体の神さまって、なに?」と聞かれたら、さすがに頭を抱えこんでしまうことになってしまうでしょう。
 司祭にとっても、この説明はむずかしいのです。中世の偉大な神学者であり聖人でもあるトマス・アクィナスという司祭は「神学大全」という、神学をすべて網羅するようなすごい神学の辞書を作りました。「三位一体」の項目において、これまでに書かれたさまざまな解釈を列挙した後、最後に「三位一体の神秘は人間には理解することのできない神秘である」と書き終えています。
 けれども「大神学者であるトマス・アクィナスがこう書いているのですから、私なんかお手上げですよ」なんて司祭の私が言ってしまうと、皆さんからおこられてしまいますね。
 まず言えることは、「ひとつである」ということを「合体している」とか「溶け合っている」というように考えるのは間違いです。合体したり溶け合ったりというのは体があってこそ、また物質であればこそ生じる現象です。神様には体がないのです。魂、霊魂、心だけというような存在です。ですからこのような考え方は正しくないと言えます。

 これから皆さんにひとつの解釈を紹介します。ただこれはあくまでもひとつの解釈であって、正解ではないということを念頭に置いて、お聞きください。

 それは「父と子と聖霊の神がお互いに愛し合っているからである」という解釈です。しかもその愛が完全な愛だからです。完全な愛とは、自分を完全に相手に与えつくす愛です。そのため父と子と聖霊のそれぞれの神の座に「私」がなくなります。そのため、私個人、我というのが無くなることによって、「ひとつ」になるのです。つまり、あまりにも強い、完全な愛によって、父と子と聖霊がひとつに結ばれていると考える解釈です。
 ですから、神さまの名前は、まず「父と子と聖霊の神」、次に「三位一体の神」で、最終的には「愛し合う神」、すなわち「愛の神」であるということになります。

 たいせつなことは、この三位一体の神が、私たちの救いと切り離せないものであるということです。三位一体の神、その子である神の座に、イエスの昇天後は人間イエスがいらっしゃることになりました。それによって、私たちも人間イエスを通って三位一体の神の愛の中に入って行くことが可能になりました。その三位一体の神の愛の中に永遠に住まう、生きることこそが私たちの救い、天国なのです。三位一体の神は単に神がどのような存在であるのかという神学上の定義だけでなく、私たちの救いと直接に、深く結びついています。
 そして私たちはこの地上に生きている時から、すでに聖霊によって三位一体の神と結ばれています。洗礼の時に私たちの中に降って来てくださった聖霊が三位一体の神と私たちを結びつけてくださったのです。これが聖霊降臨の恵みです。だからこそ、先週の聖霊降臨の主日の次の主日に三位一体を祝うのです。私たちは聖霊に導かれて生きることで、三位一体の神と共に生きて行くことができます。三位一体の神と共に生きて行くということは、その愛に少しでも近づくことができるように努力していくことです。三位一体の神の愛は私たちの愛の模範、目標なのです。個人としてだけでなく、教会共同体としてもそうです。教会共同体は三位一体の神の愛を目標として、愛し合う共同体となるよう努力していきます。

 司祭はミサの奉献文の中で、全世界の教会のために祈ります。それは教会が三位一体の神の愛に少しでも近づくことを神に願い求めるためです。たとえば第二奉献文では「世界に広がるあなたの教会を思い起こし・・・全教会を愛の完成に導いてください」と祈ります。

 ただここで、私たちが忘れてはいけないことは、私たち教会は三位一体の神の愛のように、完全な愛にはなれないということです。それは私たち一人ひとりが不完全であり、そのため私たち人間が作る共同体も不完全であって、けっして完全なものではないのです。天にある三位一体の神の愛は完全ですが、地上にある私たちの教会の愛は完全ではないのです。この限界をわきまえていないと教会に幻滅してしまう恐れがあります。教会はみんなが愛し合う、美しい世界と思い込んでいると教会内の人間関係のトラブルを見たり、巻き込まれてしまった時に幻滅して、教会から離れてしまうことになりかねません。どの教会にも必ず、何らかの人間関係のトラブルがあります。けれどもそれは当たり前です。不完全な人間が作っている共同体ですから。たいせつなことはそれでも、ゆるし合い、受け入れ合おうとする努力です。傷つけあうことは避けられない、でもそれでも愛し合おうと努力する、いいえ、もがいているといった方がいいでしょう。でもそれこそが地上にある教会の姿、三位一体の神の愛に向かってもがきつつ、苦しみつつも歩んでいる姿こそが教会です。
 教会を「旅する神の民」と呼ぶのは、三位一体の神の愛に向かって、世の終わりまで旅をし続けるからです。もし教会が完全だなどと見せようとすれば、内部にある問題を隠そうとし、また外部からの批判を一切受けつけないというような教会になってしまうでしょう。それはただ自分をよく見せることに必死になって、前に進むことができない、自分を変えることができない教会です。それを反省して教会が自らの弱さを認め、自らを外部に向かって開いて行ったのが第二バチカン公会議であったといえます。私たち一人ひとりもそうです。私たちは世にあって、たえず自分を振り返り、刷新していく。司祭も完全ではありません。司祭も間違う事があります。その弱さを認め、絶えずミサの初めに神と教会の皆さんにゆるしを求めつつ、少しでも神の愛、キリストの愛に近づくことができるように、私も努力していきたいと思います。

 三位一体の主日の日に、改めて私たちの教会が一歩でも、神の三位一体の愛に向かって近づいていけるよう、一緒に努力できるように祈りましょう。人を責めるのではなく、まず私が、私から愛する努力をはじめることができるように祈り求めましょう。

*「福音のメッセージ」は今週で終了します。
  来週14日の主日には、教会のミサでお会いしましょう。
  皆さんと顔と顔を合わせて、福音のメッセージを語れることを楽しみにしています。

2020年5月31日 聖霊降臨の主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年5月31日 聖霊降臨の主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】
使徒たちの宣教(使徒言行録2: 1-11)

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

【第二朗読】
使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12:3b-7, 12-13)

 〔皆さん、〕聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

【福音書】
ヨハネによる福音(ヨハネ20:19-23)

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

【福音のメッセージ】

「一同が一つになって集まっていると」

担当司祭:林 和則

 本日は聖霊降臨の主日です。教会にとって、とても大切な日です。それは教会の誕生の日でもあるからです。聖霊がキリストを信じる人びとの中に降ることによって、教会という共同体が今日、誕生しました。
 
 典礼暦A年における本日の福音は「ヨハネによる聖霊降臨」と呼ばれているヨハネの福音書の箇所が選ばれています。復活したイエスが弟子たちに「聖霊を受けなさい(22節)」と言われながら、弟子たち一人ひとりに息を吹きかけて行かれます。これによって、弟子たち一人ひとりの中に聖霊が降ります。同時にそれは弟子たちが受けたキリストの洗礼でした。洗礼者ヨハネは次のように預言していました。
 「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる (マルコ1:8)」

 キリストの死と復活によって聖霊が降ったことによって、はじめてキリストの洗礼が可能になったのです。それによって弟子たちはキリストを生きる者、神の子の命を生きる者として新たにされました。ある意味、この弟子たちを礎として教会が始まったのですから、「ヨハネによる聖霊降臨」も教会の誕生を告げ知らせていると言えます。ただやはり、共同体というよりも個人としての聖霊降臨、すなわち「洗礼」に重点が置かれています。私たち一人ひとりも洗礼の日に個人としての「聖霊降臨」が実現していたのです。
 共同体としての聖霊降臨を物語っているのが、第一朗読の「使徒たちの宣教」の「ルカ(使徒言行録の作者ともされています)による聖霊降臨」です。
 本日の福音は4月19日の復活節第二主日の福音の前半箇所としても選ばれていて、当日の「福音のメッセージ」において触れています。(ホームページのアーカイブカテゴリー「垂水教会一般」でご覧いただけます)
本日は第一朗読の「使徒たちの宣教」から、聖霊の働きと教会について、皆さんと分かち合いたいと思います。

 まず大切なことは「一同が一つになって集まっていると(1節)」と前置きされていることです。聖霊が降るためには、一同が、共同体が「一つになって」いる必要があるということをルカは強調したかったのだと思います。逆に言えば、共同体のメンバーがそれぞれ自己中心的になって、他者を思い合うことのないような共同体では聖霊は降れない。降りたくても降れないのです。聖書の中で聖霊は次の2節にあるように、よく「風」というシンボルで表現されます。風がいくら吹いていても、一人ひとりが心を閉ざし、他者に開かれていない共同体、また外に向かって開かれていない共同体は「閉ざされた共同体」であって、窓や扉が開かれていないために、風が入って来ることのない「家」のようなものです。

 私たちの教会も、もし内にも外にも「開かれた教会」になっていなければ、降臨した聖霊という「風」は閉じ込められて、自由に吹きわたることはできません。風の流れがよどむように、聖霊の働きが活性化しないのです。
降臨の日の使徒たち、信徒たち(聖母マリアもその中にいました)は本当にひとつになっていました。それを喜ぶかのように「風」は激しく吹きわたり、使徒たち、信徒たちを包み込みました。「家中に響いた」というのは、聖霊が教会の誕生を祝って、天使たちとともに舞い踊っていたからであるかも知れません。
 「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった(3節)」
 「炎」というのも聖霊のシンボルとして、よく使われます。けれども「舌」というシンボルはめずらしい表現です。「舌」の赤い色と形状が「炎」に似ているから、ということではないと思います。次の4節で「 ““霊”が語らせるままに」とあります。聖霊は私たちに語るための「ことば」を与えてくださるということを表現しているのだと思います。彼らが語った「ことば」は「神の偉大な業(11節)」とあるように、信仰のあかしのことば、宣教のことばでした。しかも彼らは何か義務感から、また自分の意志によって語ったのではありません。聖霊に満たされた時、彼らは聖霊の力に突き動かされて、語らずにはいられなくなったのです。まるで、風に吹かれた木が大きく揺れ動くように。聖霊という風は私たちを宣教へと運んで行くのです。逆に言えば、宣教への意欲のない教会は「聖霊に満たされていない」と言えるかも知れません。

 しかも、彼らは「ほかの国々の言葉」で語ります。当時のユダヤ人はローマ帝国のあらゆる場所に居住していました。特にヨーロッパではローマ、エジプトではアレキサンドリア、近東ではシリアのアンティオキアなどの大都市に大きな居住地を持ち、金融や通商を主な生業としていて、一定の勢力を有していました。そしてユダヤ人はどこに住もうともほとんどの者は土地の宗教や文化に同化せず、ユダヤ教を守って、過越祭や降臨の日の五旬祭などのユダヤ教の大きな祭りにはエルサレムに巡礼に来ていました。そのような様々な国から来たユダヤ人たちが、それぞれが住んでいる国の言葉を聞いて、驚いたのです。

 以前から教会の伝統では聖霊降臨の奇跡として、「言葉がひとつになった」とされてきました。旧約聖書の創世記のバベルの塔の物語(11:1-9)において散らされた人類の言葉がひとつになったのだと。けれども、ここで誤解してはいけません。言葉が「ひとつ」に「統一」されたわけではないのです。「めいめいが生まれた故郷の言葉(8節)」を人びとは聞いたのです。つまり、神の言葉がさまざまな国の言葉によって語られたということです。
 「言葉」はその国の文化を体現するものです。神はけっしてそれぞれの国の文化を「単一化」しようとはされないのです。言葉=文化はそれぞれ違っていていいのです。神は「単一性」ではなく「多様性」を喜ばれます。ある国やある民族が自分たちの文化を絶対化して、それを他者に強制することを許されません。それが「バベルの塔」の物語のメッセージだったのです。
 ですから、この教会の最初の「宣教」は、神の言葉をそれぞれの国の言葉で、「文化」で語りなさいということを教会に教えているのです。現在の言葉で言えば「インカルチュレーション(文化的受肉)」です。

 そしてこれは個人個人においても言えます。それぞれが違った考え方、個性を持っていてもかまわない、キリストにおける一致は単一性への統一ではなく、多様性の一致なのです。キリストを生きるために、人それぞれが自分らしくキリストを生きていけばいい、誰も自分の信仰のあり方を他者に強制してはなりません。なぜなら、「自分」とは神さまが私たちに与えてくださった世界でたったひとつの「たまもの」だからです。
 聖霊はそのような多様性に満ちた教会に私たちを導いてくださるのです。教会の誕生の日に、それを示してくださったのです。

 今日の聖霊降臨、教会の誕生の日に改めて、今の日本の教会、そして垂水教会が聖霊の導きに従った共同体になっているのか、思いめぐらしてみましょう。