伊万里トラピスチヌ修道院の商品 お渡しは8月2日(日)です。
夏季限定の「クッキー」「ガレット・クッキー詰合せ」「トラピストゼリー」
「ゼリー・ガレット詰合せ」の予約注文を受け付けております。
申し込み期間:6月28日(日)~7月19日(日)
商品お渡し:7月26日(日)8月2日(日)代金引き換えです。
申し込み用紙は、ロビー受付に置いてありますので、ご記入後、事務所までご提出ください。
FAXによる申し込みも受け付けています。
078-203-1355
※申込用紙ダウンロード



夏季限定の「クッキー」「ガレット・クッキー詰合せ」「トラピストゼリー」
「ゼリー・ガレット詰合せ」の予約注文を受け付けております。
申し込み期間:6月28日(日)~7月19日(日)
商品お渡し:7月26日(日)8月2日(日)代金引き換えです。
申し込み用紙は、ロビー受付に置いてありますので、ご記入後、事務所までご提出ください。
♰主の平和
6月14日から、主日のミサを再開いたしました。
その後、運営委員会で分散方法によって実施されたミサを振り返って検討した結果、やはり午前中に3回のミサを行うことには種々の困難があるということになり、その結果、7月と8月の分散ミサを以下のように実施することに決定いたしました。
7月 | 5日 | 12日 | 19日 | 26日 | |
9時 | A垂水地区 | B舞子地区 | A垂水地区 | B舞子地区 | |
11時 | C塩屋 +明舞北 |
D垂水北 +明舞南 |
C塩屋 +明舞北 |
D垂水北 +明舞南 |
|
8月 | 2日 | 9日 | 16日 | 23日 | 30日 |
9時 | C塩屋 +明舞北 |
D垂水北 +明舞南 |
C塩屋 +明舞北 |
D垂水北 +明舞南 |
C塩屋 +明舞北 |
11時 | A垂水地区 | B舞子地区 | A垂水地区 | B舞子地区 | A垂水地区 |
(※ A:垂水 B:舞子 C:塩屋・明舞北 D:垂水北・明舞南)
*8月15日(土)聖母の被昇天
9時:C:塩屋+明舞北+ D:垂水北+明舞南
11時:A:垂水地区+ B舞子
これまでのように、3密対策を徹底することは変わりません
上記の表に従って、自分の属する地区のミサに参加するようにしてください。
*特別な事情があって、他の地区の方の車に同乗して来られる場合は運転者の方の地区のミサに参加しても構いません。
*ミサの入れ替わりの時が混雑しないために、ミサに来る時間を次のようにいたします。下記の所定の時間より前には来られないようにお願いします。
*来られた方は教会敷地内での会話を避け、聖堂内で、ミサに与るために黙想し、主と向かい合う心の準備をしてください。「聖書と典礼」を用いて、当日の朗読箇所を読み、黙想することもお勧めします。
*ミサが終了しましたら、不要不急の会話、作業は避け、すみやかに帰宅するようにしてください。
*座席は一列ずつ空けて、座ってもらいます。着席可能な場所に「聖書と典礼」を置いてありますので、そこに着席ください。家族(特に小さなお子さん連れ)また、介助を必要とされる障がい者の方は並んで座ってもらって構いません。ただ、できるだけ密接は避けてください。
*聖体拝領の際、間隔を開けて、マスクを着用したままで、中央に一列で並んでください。司祭の前に出て、司祭の「キリストの御からだ」に「アーメン」と答えて、一歩、横にずれてマスクの下から、聖体拝領をしてください。
なお、高齢者や障がい者、体調の悪い方は座席でお待ちください。聖体拝領の列が終わった後、前から順に司祭が向かいます。希望される方は手を挙げてください。聖体拝領は座ったままでも構いません。座席での聖体拝領を望まれる方は一階席、できるだけ前の方に座るようにしてください。
・ミサの中での会衆の応唱を先唱者が内陣で、一人でマイクを持って唱えます。
先唱者は、従来の祭壇奉仕者(8人)に交代で行ってもらいます。
*全員で唱えるのは「アーメン」「信仰宣言」「主の祈り」だけです。その際にも小声で唱えるようにしてください。
*「平和のあいさつ」の時は黙って、互いに頭を下げ合います。
・「あわれみの賛歌」などのミサ聖歌および入祭の歌などの聖歌を歌いません。
先唱者と司祭で唱えます。
*入祭、拝領、閉祭の時にはオルガンの独奏があります。
③密閉を避けます。
ミサ中、聖堂の正面、南面中央の扉を開いておきます。
その他、各自でできること
・必ず、マスクを着用してミサに参加してください。聖体拝領の時だけマスクを外す(ずらす)ようにしてください。
・ミサに来る前に各自、検温をし、平熱でない場合、自宅でお祈りください。また体調が悪い場合も同様です。その場合、主日のミサ参加の義務は司教によって免除されています。
・アルコールティッシュ、消毒用ジェルなどを持参できる方は持参し、入堂時、聖体拝領の前などに手の消毒をお願いします。
持参できない方は入堂前に必ず、お手洗いで石鹸で手を洗うようにしてください。その際、お手洗いが密にならないように、信徒会館隣接のお手洗いなど、分散して行ってください。
前回の通達でもお伝えしましたように、教会の諸活動は中止し、信徒会館の施錠も継続いたします。聖堂は平日も午後5時まで開放しておりますので、聖体訪問は可能です。
今、「建物」としての「教会」としては「ミサを捧げる」ことと「聖体を訪問する」ことのふたつの目的に集中していると言えます。そしてこのふたつの目的こそが教会の命の泉であり、すべての活動はそこから意味と力を得ていると言えます。逆に言うと、そこから意味と力を得ていない活動は人間的な考えに捕らわれたものとなり、やがて涸れるか,淀んでいくことになります。
私たちの活動は神の思いを実現するために、キリストを伝えるために、自分を道具として行っていくものです。そのためには、ミサを通して絶えず、みことばと聖体の秘跡に立ち帰り、そこから意味と力を得ることが必要です。
そのことをこの時期に改めて、見つめて頂きたいと思います。
祈りのうちに。
♰主の平和
前回、お知らせしましたように6月14日(日)から、ミサを再開たします。
ただ、今も新型コロナウイルスは死滅しておらず、行政やメディアからの発信などで感染に対する注意が呼びかけられています。そのため、教会でも3密対策を徹底したうえでミサを再開いたします。
① 密集を避けるために
主日のミサを分散して行います。以下のように、二地区ごとで三回にわたって行います。それぞれ参加者を二地区ずつに分けますので、自分の属する地区のミサに参加するようにしてください。
6月 | 7月 | 8月 | |
---|---|---|---|
8時半 | 舞子地区・垂水北地区 | 明舞北地区・明舞南地区 | 塩屋地区・垂水地区 |
10時 | 塩屋地区・垂水地区 | 舞子地区・垂水北地区 | 明舞北地区・明舞南地区 |
11時半 | 明舞北地区・明舞南地区 | 塩屋地区・垂水地区 | 舞子地区・垂水北地区 |
① 8時半のミサに来られる方は8時10分以降に来てください。
② 10時のミサに来られる方は9時40分以降に来てください。
③ 11時半のミサに来られる方は11時10分以降に来てください。
② 密接(間近での会話や発声によって飛散する飛沫による感染)を避けるため
③密閉を避けます。
ミサ中、聖堂の正面、南面中央の扉を開いておきます。
その他、各自でできること
以上のような対策に関しまして、ミサの式次第の流れに沿って応答箇所などを詳細に書き出した「新型ウイルス感染下にある教会でのミサ参加のガイド」を作成しました。単にウイルス対策だけでなしに、ミサの構造についての説明にもなっていて、この時期に改めてミサをより理解するための助けにもしていただきたいと思っております。
6月14日以降、聖堂受付に置いておりますので、ご自由にお持ち帰りください。
6月16日(火)より平日のミサ(火曜~土曜)も再開しますが、事情により7時30分からの開始に変更いたします。
感染時における緊急の対策のため、当初は慣れないために混乱や行き違いが生じると思います。けれども、それを責めるのではなく、自分に何ができるのかを第一に考えて、協力し合って、行動して頂きたいと思います。
ミサも声も出せず、歌も歌えずで、神への感謝を十分に表明できないために、もどかしい思いをされるかも知れません。
けれどもある意味、ミサの祈願のことば、朗読箇所の聖書のみことば、というように「ことば」に集中できると思います。その中で今まで聞き流していたかも知れなかった「ことば」に新鮮な発見があるかも知れません。
ミサのすばらしさ、その果てしもない恵みを改めて感じるチャンスであると思えます。
どのような状況の中にあっても絶えず、父なる神への信頼を失わず、前を向いて歩いて行きましょう。 祈りのうちに。
出エジプト記(出エジプト34: 4b-6, 8-9)
〔その日、〕モーセは朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。主は雲のうちにあって降(くだ)り、モーセと共にそこに立ち、主の御名(みな)を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち〔た者。〕」モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業(しぎょう)として受け入れてください。」
兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子(おんこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
本日は「三位一体の神の主日」ですので、福音の内容そのものではなく、「三位一体」について、皆さんと分かち合いたいと思います。
まず、皆さんにひとつの質問をします。キリスト教徒ではないご近所の方から、「お宅は毎週キリスト教の教会に行っているようね。世の中にはいろんな神さまがいて、みんな名前があるよね。日本だったら天照大神(あまてらすおおみかみ)、イスラム教だったらアラーの神とか。それで、お宅のキリスト教の神さまの名前は、なあに?」と質問を受けたら、どう答えますか。改めて聞かれたら、案外すぐに答えが出てこないものではないでしょうか。中には開き直って「神様は神様で、名前はない」と断言してしまう方もいらっしゃいますが、いえいえ、ちゃんと名前があります。実は皆さんは、その名前を既に知っています。というよりも、いつも唱えています。
今日のミサの始まりにも「父と子と聖霊のみなによって、アーメン」と唱えました。「みな」というのはどういう漢字を書くのでしょうか?子どもたちに聞いてみると「父と子と聖霊の皆(みんな)によって、アーメンだ!」という答えが多いです。全くのはずれというわけでもないのですが、残念ながら違います。
「みな」は「御名」と書きます。「御」は接頭語で言葉に丁寧さを加えるもので、意味はありません。「名」はもちろん「名前」という意味です。つまり「父と子と聖霊のお名前によって、アーメン」ということです。
私たちはこれによって、さまざまな祈りやミサの前に、まずどの神様に向かって祈るのかを宣言しているのです。「私たちは父と子と聖霊の神であるあなたに向かって祈ります」ということです。アーメンという言葉はヘブライ語で、そうです、そのとおりです、私はそう信じますというような意味で、その宣言を強め、祈りをゆるぎないものとします。ミサの中で司祭の祈りにたいして何度もアーメンとこたえるのも、皆さんが司祭と共に心を合わせて祈ることによって、司祭と信徒が共にミサを捧げていることを実現するためです。
ともかく、もし皆さんがキリスト教の神さまの名前を誰かから聞かれた時には、「父と子と聖霊の神です」と答えてください。
でも、聞いてきた方が宗教にくわしい人だったら、次にこう聞いてくるかもしれません。
「え~、それって、おかしくない?父と子と聖霊の神さまってことは、神さまが三人もいるの?キリスト教って一神教なんでしょう?どうして三人もいるの?」というように。
これにたいして、本日の「三位一体」を取り上げて、こう答えてください。
「確かに、私たちの神さまは、父である神、子である神、聖霊である神の三つの神さまです。けれども三つの神さまだけど、ひとつの神さまで、これを三位一体の神といいます」
ところがさらに「どうして三つの神さまがひとつなの?三位一体の神さまって、なに?」と聞かれたら、さすがに頭を抱えこんでしまうことになってしまうでしょう。
司祭にとっても、この説明はむずかしいのです。中世の偉大な神学者であり聖人でもあるトマス・アクィナスという司祭は「神学大全」という、神学をすべて網羅するようなすごい神学の辞書を作りました。「三位一体」の項目において、これまでに書かれたさまざまな解釈を列挙した後、最後に「三位一体の神秘は人間には理解することのできない神秘である」と書き終えています。
けれども「大神学者であるトマス・アクィナスがこう書いているのですから、私なんかお手上げですよ」なんて司祭の私が言ってしまうと、皆さんからおこられてしまいますね。
まず言えることは、「ひとつである」ということを「合体している」とか「溶け合っている」というように考えるのは間違いです。合体したり溶け合ったりというのは体があってこそ、また物質であればこそ生じる現象です。神様には体がないのです。魂、霊魂、心だけというような存在です。ですからこのような考え方は正しくないと言えます。
これから皆さんにひとつの解釈を紹介します。ただこれはあくまでもひとつの解釈であって、正解ではないということを念頭に置いて、お聞きください。
それは「父と子と聖霊の神がお互いに愛し合っているからである」という解釈です。しかもその愛が完全な愛だからです。完全な愛とは、自分を完全に相手に与えつくす愛です。そのため父と子と聖霊のそれぞれの神の座に「私」がなくなります。そのため、私個人、我というのが無くなることによって、「ひとつ」になるのです。つまり、あまりにも強い、完全な愛によって、父と子と聖霊がひとつに結ばれていると考える解釈です。
ですから、神さまの名前は、まず「父と子と聖霊の神」、次に「三位一体の神」で、最終的には「愛し合う神」、すなわち「愛の神」であるということになります。
たいせつなことは、この三位一体の神が、私たちの救いと切り離せないものであるということです。三位一体の神、その子である神の座に、イエスの昇天後は人間イエスがいらっしゃることになりました。それによって、私たちも人間イエスを通って三位一体の神の愛の中に入って行くことが可能になりました。その三位一体の神の愛の中に永遠に住まう、生きることこそが私たちの救い、天国なのです。三位一体の神は単に神がどのような存在であるのかという神学上の定義だけでなく、私たちの救いと直接に、深く結びついています。
そして私たちはこの地上に生きている時から、すでに聖霊によって三位一体の神と結ばれています。洗礼の時に私たちの中に降って来てくださった聖霊が三位一体の神と私たちを結びつけてくださったのです。これが聖霊降臨の恵みです。だからこそ、先週の聖霊降臨の主日の次の主日に三位一体を祝うのです。私たちは聖霊に導かれて生きることで、三位一体の神と共に生きて行くことができます。三位一体の神と共に生きて行くということは、その愛に少しでも近づくことができるように努力していくことです。三位一体の神の愛は私たちの愛の模範、目標なのです。個人としてだけでなく、教会共同体としてもそうです。教会共同体は三位一体の神の愛を目標として、愛し合う共同体となるよう努力していきます。
司祭はミサの奉献文の中で、全世界の教会のために祈ります。それは教会が三位一体の神の愛に少しでも近づくことを神に願い求めるためです。たとえば第二奉献文では「世界に広がるあなたの教会を思い起こし・・・全教会を愛の完成に導いてください」と祈ります。
ただここで、私たちが忘れてはいけないことは、私たち教会は三位一体の神の愛のように、完全な愛にはなれないということです。それは私たち一人ひとりが不完全であり、そのため私たち人間が作る共同体も不完全であって、けっして完全なものではないのです。天にある三位一体の神の愛は完全ですが、地上にある私たちの教会の愛は完全ではないのです。この限界をわきまえていないと教会に幻滅してしまう恐れがあります。教会はみんなが愛し合う、美しい世界と思い込んでいると教会内の人間関係のトラブルを見たり、巻き込まれてしまった時に幻滅して、教会から離れてしまうことになりかねません。どの教会にも必ず、何らかの人間関係のトラブルがあります。けれどもそれは当たり前です。不完全な人間が作っている共同体ですから。たいせつなことはそれでも、ゆるし合い、受け入れ合おうとする努力です。傷つけあうことは避けられない、でもそれでも愛し合おうと努力する、いいえ、もがいているといった方がいいでしょう。でもそれこそが地上にある教会の姿、三位一体の神の愛に向かってもがきつつ、苦しみつつも歩んでいる姿こそが教会です。
教会を「旅する神の民」と呼ぶのは、三位一体の神の愛に向かって、世の終わりまで旅をし続けるからです。もし教会が完全だなどと見せようとすれば、内部にある問題を隠そうとし、また外部からの批判を一切受けつけないというような教会になってしまうでしょう。それはただ自分をよく見せることに必死になって、前に進むことができない、自分を変えることができない教会です。それを反省して教会が自らの弱さを認め、自らを外部に向かって開いて行ったのが第二バチカン公会議であったといえます。私たち一人ひとりもそうです。私たちは世にあって、たえず自分を振り返り、刷新していく。司祭も完全ではありません。司祭も間違う事があります。その弱さを認め、絶えずミサの初めに神と教会の皆さんにゆるしを求めつつ、少しでも神の愛、キリストの愛に近づくことができるように、私も努力していきたいと思います。
三位一体の主日の日に、改めて私たちの教会が一歩でも、神の三位一体の愛に向かって近づいていけるよう、一緒に努力できるように祈りましょう。人を責めるのではなく、まず私が、私から愛する努力をはじめることができるように祈り求めましょう。
*「福音のメッセージ」は今週で終了します。
来週14日の主日には、教会のミサでお会いしましょう。
皆さんと顔と顔を合わせて、福音のメッセージを語れることを楽しみにしています。