2023年9月24日年間第25主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

本日の第一朗読「イザヤの預言55章6―9節」の中で神はイザヤを通して次のようにイスラエルの民に、そして私たちに語りかけられます。

「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている(9節)」

この神のことばを具体的に示しているのが、本日の福音「マタイによる福音20章1―16節」でイエスが語られたたとえ話です。

 

ぶどう園の主人が夜明けの広場で最初に雇った労働者たちとは1日につき1デナリオンの賃金の約束をします。9時ごろに行った時には具体的な金額を示さないで「ふさわしい賃金(4節)」と言って雇います。12時ごろと3時ごろに雇った労働者たちにも「同じようにした(5節)」とありますので「ふさわしい賃金」と言ったのでしょう。

最後に5時ごろに雇った労働者たちには賃金に関しては何も言わずに「ぶどう園に行きなさい」とだけ言って雇います。

そして夕方6時に労働は終了しました。当時のユダヤ社会では朝6時が1日の労働の始まりとされていましたから、最初の労働者たちは休憩をはさみながらでしょうが12時間もの間、働いたことになります。それに対して最後に雇われた者たちは1時間しか働いていないことになります。

ところが主人はこの最後の者たちにも最初から働いていた者たちと同じ1デナリオンを与えたのです。それで最初の者たちは主人に不平を言いますが、主人は「不当なことはしていない(13節)」と答えます。確かに考えてみると主人は最初の者たちとは「1デナリオン」の賃金で契約をしていて、契約通りの金額をきちんと支払っているのです。

ただ、最初の者たちが「不当」と感じるのは、遅れてやってきた者たち、特に最後の者たちと自分たちの賃金を「比較」することによって生じているといえます。けれども、主人は遅れてやってきた者たちには金額を明示してはいませんでした。ですから自分の判断で「ふさわしい金額」を支払ったのであって、厳密に言えばこれも「不当」とは言えないと思えます。ただ「時給制」という賃金の一般的原則からいって、最初の者たちが不公平感を持つのも理解できないことではありませんし、もっともだと思われる方も多いでしょう。

ここにどのような神のメッセージを読み取ればよいのでしょうか。ひとつの解釈としては、人間的に見て(地位や財産などの基準で)成功している人生、うまくいかない人生といったように、私たちは人と「比較」してそれぞれの人生を考えてしまいますが、すべての人生は神から個別に与えられた人生(召命)であって、そこに優劣の差はないということです。ですから「比較」することに意味はなく、与えられた命をいかに一生懸命に生きるかが大切なのです。神はそれぞれの人に「ふさわしい」人生、召命を与えておられるのです。それを「比較」することによって不平不満が生じてしまうのです。

 

そして、このたとえ話の中心的なメッセージのキーワードは主人が不平を言う人に呼びかけた「友よ(13節)」にあると思えます。

これと同じ用例がルカによる福音11章5―8節にあります。そこでは神もしくはイエスがたとえられていると思える人が真夜中にも関わらず、友達の家に行って次のように頼みごとをします。

「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです(5-6節)。」

すると友達はこう答えます。

「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません(7節)」

この友達の返答は世間的常識からいって、先の最初から12時間も働いた者たちと同じようにもっともな反応です。

ただ、そこにイザヤ書にあった神の思いと人間の思いとの違いがあるのです。

そして神は人間の思いをもっともなこととして受け入れたうえで、なおかつご自分の神の思いを共有することを私たちに求めての呼びかけが「友よ」であると思えます。

それは次のように表現できるでしょう。

「友よ、おまえの思いはわかる。でも、どうか、私と思いを同じくしてほしい」

それはルカの前述個所では、空腹のあまり、真夜中に食を求めてきた友を捨て置かず、私と共にこの人を助けてあげてほしいという思いです。それはマタイによる福音25章35節、最後の審判のたとえの中での「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ」を連想させます。

 

それでは今日のたとえ話の主人は最初から働いていた者たちにどのような思いを共有してほしいと願ったのでしょうか。

それを理解、というよりも実感するためには、このたとえ話を現在の私たちの状況に置き換えてみればよいと思います。このたとえ話で取り上げられている労働は明らかに「日雇い」です。それは現在の日本においても行われているのです。私たちにとってそれが行われている身近な場所は大阪市西成区の通称「あいりん地区」もしくは「釜ヶ崎」と呼ばれている場所でしょう。

そこではたとえ話のように毎朝5時半に労働者が「広場(かつては労働センター)」に集まってきます。宿に泊まれず路上で不十分な睡眠しか取れなかった人びとも集まってきます。みんな「労働者」であって「働きたい」からです。そこにあちこちの工事現場からワゴン者が乗りつけて来て、集まっている労働者たちと交渉して契約が成立した人たちを現場へと連れて行き、夕方になればまたワゴン車に乗せて釜ヶ崎へと連れて帰るのです。

けれども、仕事にありつける人は多くはないのです。多くの労働者が仕事にありつけず、その日一日を無為に過ごすしかないのです。

それはたとえ話では五時ごろになっても「何もしないで一日中ここに立っている(6節)」人びとです。けれどもそれは単に「立っている」のではありません。今夜、自分は死んでしまうかも知れないという恐怖に怯えるという、極度の苦しみの中で「立っている」のです。

新聞にもテレビでも滅多に取り上げられませんが、釜ヶ崎では今も毎年、路上で死んでいく人びとがいます。何日も仕事がなくお金を得ることができないために十分に食べることもできない栄養失調の体調でありながらも野宿をせざるを得ない状況、特に冬の夜においては路上で眠ったまま亡くなる方が何人もいらっしゃるのです。

主人が5時ごろに出ていくのは実は「雇う」ためではありません。そのような極限の苦しみの中にいる人びとを見つけて「救う」ためだったのです。

確かに早朝から働き続けた人びとは体力を消耗したでしょう。けれども精神的には仕事にありつけたこと、賃金をもらった後の食事や宿泊を思いながら、充実した労働の「喜び」を味わっていたのではないでしょうか。

ですから主人はこの人に「私と思いを共にして、5時まで立っていた人びとの『苦しみ』に目を向けてほしい。この人びとにいつくしみの手を差しのべてほしい」という思いをこめて「友よ」と呼びかけたのだと思います。それが「人の思い」を高く超えている「神の思い」です。またそれに基づいたなされ方である「道(同一の賃金を与える)」も人間の一般的な常識を超えたものなのです。

 

「主の祈り」の中の「御心が天に行われる通り、地にも行われますように」という「御心」が「神の思い」です。これは神がイエスを通して、次のように私たちに呼びかけておられるのだと思います。

「高い天(神の座)で行われているわたしの思いとあなたの思いを同じくして、あなたの生きている地(世界)においても、友よ、どうか、あなたがわたしの思いを行ってほしい

 

敬老のお祝いと作品展

今日は子供ミサであり、敬老のお祝い日でした。

子どもたちから先日作ったカードと、歌をプレゼント。

 

ミサのあとには信徒会館で有志の方々による作品の展示やチェロやギターの演奏がありました。

 

 

 

 

 

 

どの作品もプロにも負けない素晴らしいものでした。素敵な作品をありがとうございました。

2023年9月17日年間第24主日(A年)のミサ 説教の要約

*この日のミサは「子どもと共に捧げるミサ」を行いましたので、説教も子ども向けにいたしました。

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

マタイによる福音18章21―35節

今日の福音、まずペトロがイエスさまのところに飛び込んできます。何だか少し腹を立てているようで、息せき切ってこう言いました。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか(21節)」

「兄弟」ということは自分の仲間、もしかしたら同じ弟子の誰かから、いやがらせのようなことをされたのかも知れません。

「七回」と言っています。イエスさまの国ユダヤでは数字にも、漢字のように意味がありました。「七」は「完全」という意味です。ですからペトロは「『七回』まで赦したら、もうそれで『完全』で十分でしょう。あとはもう、怒ってもいいですよね」と言っているのです。相手はペトロに何度も悪いことをしていたのかも知れませんね。

するとイエスさまは「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい(22節)」と言われます。「七」でさえ完全なのに、さらにそれを「七十倍」ということは、もういつまでも永遠に赦しなさいということです。

これにたいしてペトロはきっと不満そうな顔をしたのでしょう。そこでイエスさまは次のようなたとえ話を話し出されます。

ある王さまが家来たちに貸したお金を調べたところ、1万タラントンの借金をしている家来がいました。そこで王さまが呼びつけると家来が返せなかったので、家も自分も妻も子も、持ち物全部を売って返すようにと命じます。イエス様の時代には奴隷制度が認められていて、人間も売り買いされていたんです。

すると家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします(26節)」と何度も何度もお願いしました。すると王さまは「憐れに思って(27節:この言葉はギリシア語の原文では『スプランクニゾマイ』です)」赦してあげます。さらに借金を全部帳消し、0円にしてあげたのです。

それで皆さん、「1万タラントン」って、今の日本のお金にしたら、いくらぐらいになると思いますか?百万円?1億円?いいえ、実は・・・、な、何と「4800億円」ぐらいなんです。一人の人がこれだけの借金をするなんて、あり得ません。

さらにこの王さまはそれだけのお金を「憐れに思った」だけで0円にしてしまうんです!これも普通、あり得ません。

これだけもの借金を赦してもらった家来がおそらくルンルンで町に出ると、自分に100デナリオンの借金をしている「仲間(友だちです)」に出会います。家来は仲間を「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と(28節)」と言いました。仲間は「どうか待ってくれ。返すから(29節)」と何度も何度も頼みました。この仲間の言葉と態度は、家来が王さまに謝った時の言葉と態度と全く同じです。

けれども家来は「その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた(30節)」のです。

さて、それでは100デナリオンはいくらぐらいだと思いますか?「80万円」ぐらいなんです。これは借金としては大人どうしだったら普通にあり得る金額だといってよいでしょう。それなのに、王さまからあり得ない借金を赦してもらった家来は、仲間のあり得る借金を赦せなかったのです。

イエスさまはこのたとえ話でペトロに、そして今日、このたとえ話を聞いた私たちに何を伝えたいのでしょうか?

 

王さまは誰のたとえでしょう?そう、神さまです。

家来は誰のたとえでしょう?人間、そう、私たちみんなです。

私たちは誰も、この家来のことを責めることはできません。私たちは同じ事をやっているからです。

家来のあり得ない借金と仲間のあり得る借金は、私たちが神さまから本当にあり得ないほど赦してもらっているのに、友だちや周りの人びとのあり得るようなちょっとした悪口やいやがらせでカンカンに怒ってしまい「絶対に赦さない!」と簡単に言ってしまうようなことを表しているのです。

私たちは人に気づかれてしまう「目に見える罪」よりもはるかに多く、人には気づかれない「目に見えない罪」を犯しているのです。でもそれら全部を神さまは赦してくださっているのです。

だから私たちも同じように、自分に悪いことをした人を赦してあげるべきなのです。でも、みんなもわかっているように、それは簡単ではありません。

 

「主の祈り」の中で「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」と唱えます。でも、これを唱えにくいという人が多いのです。それは自分にはまだゆるせない人がいる場合、「人をゆるします」を唱えることは神さまに嘘をついてしまうことになるから、ということです。

でも「ゆるしました」ではありません。「ゆるします」というのはいわば神さまに「決意表明」「約束」をすることなのです。

「今はあの人をゆるせません。でも、いつか、きっとゆるせるように努力します」ということです。「主の祈り」を唱える時、イエスさまがそばにいてくださり、私たちがそれを実行できるように共に祈り、助けてくださるのです。

たいせつなのは「ゆるしたい」という心を持ち続けることだと思います。

 

2023年9月10日年間第23主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

本日の福音(マタイによる福音18章15―20節)の前半(15―17節)はイエスご自身の言葉ではなく、この福音書が編集される過程において初代教会が書き加えた箇所であると考えられています。そう考えられる理由は「教会」という言葉が使用されているからです。

「教会(ギリシア語ではエクレシア)」は四福音書には三回しか出てきません。二回は今日のこの箇所です。もう一回もやはりマタイによる福音で、先月27日の主日の福音でイエスがペトロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる(16:18)」と言われた箇所です。

本来、教会はキリストの死と復活、そして昇天の後に成立したものです。キリストが目に見えない神の姿に戻られたことによって、目に見える「キリストの体」として、この世界にキリストのことばとわざを伝え続けていくために「教会」は建てられたのです。

そのため福音書ではなく、使徒言行録の中において初めて教会は誕生します。それが「聖霊降臨(ルカ2:1―13)」です。ですから本来的に福音書において「教会」という言葉は出てくるものではなく、生前のイエスがこの言葉を発せられたということも考えられません。

内容を見ても、これは教会内においてメンバーが他のメンバーに罪を犯した場合にどのように対処すればいいかを法令化したものと考えられ、いわば初代教会における「教会法」のようなものの一部と考えられます。

ただその場合にその「法令」が人間的な思いによる「裁き」に陥らないようにという配慮がなされています。

「行って、二人だけのところで忠告しなさい(15節)」

「忠告する」と訳されたギリシア語の原文は「光の下に連れて行き、光にさらす」という意味であるそうです。これをキリスト教の信仰に当てはめるならば「神の光のもとに連れて行き、神の光にさらす」となるでしょう。

私たちが人を「忠告」する時に陥りやすいのは相手のことを思ってではなく、相手を「自分の考えに従わせよう」とすることです。それは「自分の考えは正しい」という思い込みからで、実は自己本位な態度なのです。そうではなく、神の光のもとに相手を導くのです。そのためにはみことばを一緒に読んだり、共に祈るという方法などが考えられるでしょう。ともかく「自分の思い」ではなく「神の思い」の中に相手を導いていくことが教会における「忠告」なのです。

そうすることによって「兄弟を得たことになる(15節)」と言われていますが、それはまず忠告する人が相手の兄弟になってこそのことでしょう。

ただ「二人だけ→ほかに一人か二人→教会」と段階を踏みながら、最終的に「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい(17節)」とある意味「教会」から切り離すことになります。それは「個人」よりも「組織」を優先しているようで、どこか釈然としないものが残ります。

ただ、初代教会もそれを「痛み」として感じていたことが今日の福音のすぐ後の箇所、来週の主日のミサの福音である21節から35節を読めばわかります。

21節の書き出しは「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った(21節)」です。「そのとき」という書き出しによって本日の福音と接続され、同じ流れの中に置かれています。

そして「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」とペトロがイエスに問いかけます。この問いかけは今日の福音の書き出しの「兄弟があなたに対して罪を犯したなら(15節)」とまさに対の言葉、同じ問いかけになっています。そして、今日の福音が「教会」としての答えであり、

来週の福音は「イエスご自身」の答えになっているのです。

イエスは次のようにペトロに答えられるのです。

「七の七十倍までも赦しなさい(22節)」

「七」はユダヤ教においては完全数です。それをさらに「七十」倍というのは、完全に終わりなく永遠に赦しなさい、ということです。

だとすると「教会」の最終的には切り捨てなさいという教えは、イエスの教えに矛盾することになります。というよりも、教会の教えに矛盾するようなイエスの言葉を続けてすぐに記載するという編集が理解しがたいものに思えます。

実はこの編集こそが初代教会の「良心」であり、その「痛み」であると思えるのです。教会という「組織」を守りたければ、むしろこのイエスの言葉を「隠蔽」しようとすることでしょう。けれども初代教会は隠蔽どころか、すぐ後に置いているのです。私にはこの編集から初代教会の「痛み」が次のように聞こえます。

「主よ、お赦しください。あなたの本当の教えに、理想に従って生きることのできない私たちを。すべては私たちの弱さのゆえです。どうぞ、憐れんでください」

「教会」といっても、やはり弱い人間の集まりなのです。自己中心的な思いがぶつかり合う場なのです。そのためにある程度の規律が必要になります。時には共同体を守るために厳しい処置を取らざるを得ない場合もあります。

けれども私たちはそれが本来のイエスの思いに相反するものであることを認めて「痛み」を忘れないようにしないといけないと思います。所詮イエスの教えは実現不可能な理想に過ぎないと割り切ってはいけないのです。

私たちは個人の、また共同体の弱さと限界を認めてへりくだり、赦し合いながら、絶えずイエスの本来の教えに少しでも近づけるように努力して、イエスのみ顔を見つめて歩み続けて行くのです。

 

【子ども会】敬老の日にむけて

今日は二学期最初の子ども会です。

来週の敬老のお祝いで送るための歌の練習をしました。

慣れてないのか緊張気味の子どもたちです。

歌をプレゼントできるようになったのは嬉しいですね。

 

そのあとは来週配る予定の敬老のお祝いカード作りです。

みんなで心を込めて90枚のカードを仕上げることができました。喜んでもらえるといいですね。

 

次回の子ども会は10月1日です。

2023年9月3日年間第22主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

本日の福音「マタイによる福音第16章21―27節」の冒頭は「このときから」という言葉で始まっています。

「このときから」と訳されているギリシア語はマタイにおいてはイエスの宣教活動の開始の時にも使われています。

そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた(4章17節)。」

新共同訳では「そのときから」と翻訳されていますが、原文では本日の「このときから」と同じギリシア語が用いられています。「このときから」はイエスの生涯における大きな分岐点を表す言葉として用いられているのです。

一度目はイエスがいよいよ30歳にして宣教活動に踏み出された時であり、今日の福音の二度目では十字架に向かう歩みへと踏み出される時なのです。それは方向転換といってもよい決断でした。イエスは当初、ユダヤ人への宣教、というよりも「再宣教」を企図されていたと思います。それによりユダヤ人を刷新して、まことの「神の民」として再生させるためです。この「神の民」と共にイエスは全世界の「宣教」へと踏み出すことを計画されていたのだと思えます。

けれどもユダヤの民はイエスの宣教を受け入れませんでした。そのためにイエスは十字架の道へと方向転換されたのです。少なくともマタイは、イエスがそのような段階的な宣教(ユダヤ人→異邦人)を企図していたことを明確に示しています(本年6月18日の主日の福音マタイ9:36~10:8と「説教の要約」を参照してください)。

 

十字架への道の第一歩が、本日の福音で語られている弟子たちへの受難予告でした。受難予告を受けた弟子たちは激しく動揺します。ペトロに至っては「イエスをわきへお連れして、いさめ始め(22節)」ます。

するとイエスは「サタン、引き下がれ(23節)」とペトロを一喝されます。

ペトロはびっくり仰天したでしょう。先週の福音にあったように、ペトロはイエスに「あなたはメシア(16節)」と信仰告白したことによって、イエスから弟子たちの共同体における首位権を授けられます。それで有頂天になっていたペトロがほんの数分後に「サタン」とまで言われてしまうのです。ペトロにしてみれば、まさに天国から地獄に突き落とされたような思いだったでしょう。

実はペトロが宣言した「メシア」はこの世的な、栄光のメシアだったのです。ペトロは当時の多くのユダヤ人と同じく、ユダヤ人の王となってユダヤをローマから解放し、さらには世界の頂点に据えてくれる「メシア」としてイエスを見ていたのです。

さらに「そんなことがあってはなりません(22節)」もイエスの身を思ってだけの心配の言葉ではなかったのです。そこにはむしろ自分の望みが崩れさってしまうことへの焦りがあったのです。

福音書にはしばしば「誰が一番えらいか」で議論し合う弟子たちの姿が描かれています。それは弟子たちがイエスへの信仰だけでなく、権力の座への欲望からイエスにつき従っていたことを示唆しているのです。

もっとも露骨なのはヤコブとヨハネの兄弟の「(イエスが)栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください(マルコ10:37)」という願いです。これはまさに「右大臣、左大臣にしてください」というような、むき出しの「猟官運動」です。

ペトロも同じだったのです。それらを全て見抜かれたうえでイエスはペトロに「神のことを思わず、人間のことを思っている(23節)」と言われます。

「神の思い」ではなく、人間的な「権力」「地位」「名誉」などこの世的なものに心が捉われているということです。

 

けれども、イエスはペトロを全否定したわけではないのです。「サタン」に続く「引き下がれ」という言葉、実は原文のギリシア語を直訳すると「私のうしろに下がれ」という日本語になるのです。ですから「どこかに行ってしまえ」とか「消えてしまえ」ではないのです。

ペトロはイエスをいさめたことによって、十字架へと向かう道を歩もうとするイエスの「前に」立ちふさがってしまったのです。だからイエスは「私の前から私の後ろに下がりなさい」とペトロが立つべき位置を示されているのです。

そして「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(24節)」とペトロをはじめとする弟子たちに呼びかけられるのです。イエスはペトロを排除したのではありません。むしろ「十字架の道を私とともに歩んで行こう」と招いておられるのです。

 

この招きは今日、この言葉を聞いた私たちにも与えられたのです。「人間の思い」ではなく「神の思い」を求め、イエスさまに従っていくようにと私たちは呼びかけられています。そしてイエスさまは次のように言われます。

「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか(26節)」

それはこのようにも言い換えられるでしょう。

「たとえ名誉や地位や財産を手に入れても、神が与えてくだった命を失ったら、何の得があろうか」

心に刻みつけましょう。

 

2023年8月27日年間第21主日(A年)のミサ 説教の要約

*この日のミサは「子どもと共に捧げるミサ」を行いましたので、説教も子ども向けにいたしました。

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

マタイによる福音第16章13―20節

 今日の福音で、イエスさまは「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たちに聞かれます。人びとがイエスさまのことを「洗礼者ヨハネ」だとか「預言者」だとかいろんなことを言っているので、弟子たちがどう考えているのか、確かめようとされたのです。

 ペトロが「あなたはメシア、神の子です」と答えます。正解でした。

「メシア」は「救い主」という意味でギリシア語では「キリスト」と言います。私たちはいつもイエスさまのことを「イエス・キリスト」と呼びますが、それは姓名ではありません。「イエスは救い主」という意味でペトロのように私たちもイエスさまを救い主として信じていますと信仰宣言をしているのです。

 そしてイエスさまは人間の姿をしていますが、本当は神さまの子どもなのです。神から生まれたのですから、やはり神さまなのです。

 イエスさまはペトロの答えを聞いて「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われます。

 ペトロの本名は「シモン」と言います。「ペトロ」はイエスさまが愛情をもってつけたあだ名、ニックネームで「岩」という意味です。

 ペトロは教会の立つ土台の「岩」となるということです。ただ「土台」はペトロだけではありません。ほかの弟子たち、そしてペトロの時代から現代にいたるまでのたくさんの信者の皆さんもみんな、教会を支える「土台」です。私たちも「岩」というよりも小さな「石」ですが、教会を支えている教会のメンバーなのです。

 ペトロが中心になって、みんなで教会を支えているということです。

 イエスさまがペトロを教会の中心にされたことを、むずかしい言葉ですが、次のように言います。

「イエスがペトロに『首位権』を与えられた」

皆さんは「首位」という言葉を聞いたことがありますか?プロ野球を好きな人だったら、よく聞いたことがあると思います。

今、セ・リーグの一位は阪神タイガースです!やったー!

それを「プロ野球のセ・リーグの『首位』は阪神タイガースです」と言います。

「首位」とは「一番」「トップ」ということです。

 さて皆さん、今の教会で「トップ」にいる人は誰だか、知っていますか?

そうです、教皇さまです。今の教皇さまのお名前はフランシスコです。

 教会はイエスさまがペトロに首位権を与えたということによって、ペトロは最初の「教皇」になったと信じています。

 それでは今の教皇フランシスコはペトロから数えて何番目の教皇だと思いますか?約2000年ぐらい経っています。はい、266人目なんです。ペトロから始まって今までずっと、教皇さまが続いているんですね。

 そしてイエスさまはペトロに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われます。ここからペトロは天国の鍵を持って、天国の門の門番をしているのだというお話がずっと昔から言い伝えられています。

 たとえば、神父さんが死んだとします。すると、いつの間にか天国の門の前に立っているのです。門の横にはペトロが鍵を持って立っています。神父さんはペトロに向かって頼みます。

「ペトロさま、どうか門を開けて、私を天国に入らせてください」

するとペトロは大きな本を取り出して読み出します。その本には神父さんが生きている間にやったことや思ったことがすべて、書かれてあるのです。

「ふむふむ、何、うそをついた・・・、人に腹をたてた・・・人の悪口を言った・・・」

 ペトロは私をにらみつけて言います。

「ダメじゃ!おまえのようなものを天国に入れてやることはできぬ。門を開けることはならぬ!」

 その瞬間「あれ~」と神父さんは地獄に落ちて行ってしまうのでしようか!?

 大丈夫です。その時、叫ぶんです。

「イエスさま、助けてくださ~い!」

 するとイエスさまが現れてペトロに向かって、こう言われます。

「ペトロよ、私がつかまった時、私を見捨てて逃げたな。それどころか、人びとに聞かれて三度も私のことを『知らない』と言ったではないか。それでも、私はおまえのことをゆるしてやった。だからおまえも私がしたように、その人をゆるしてあげなさい。天国の門を開けてあげなさい」

 ペトロは「へへぇ~、イエスさま、わかりました~」と言って、すぐに天国の門を開けてくれます。

 こうして、イエスさまに「助けてください」と叫べば、誰でも天国に入ることができるのです。

 皆さん、安心してください。

2023年8月20日年間第20主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」

―――福音朗読「マタイによる福音第15章26節」

 本日の福音のこのイエスの言葉は、イエス・キリストを「憐れみ深い救い主」と信じる私たちに大きな困惑をもたらす、理解しがたい言葉です。

娘がいやされることを願って「わたしを憐れんでください」という母親の必死の叫びを無視し、さらに「主よ、どうかお助けください」とひれ伏す彼女にたいして発せられたこの言葉は「暴言」といってもよいとさえ思えます。

いったい、なぜ、イエスはこのような「暴言」を母性愛からの苦しみにもがいている女性に向かって言い放ったのでしょうか?

 

この出来事はマタイとマルコが書き記していて、ルカとヨハネには記載されていません。そのマルコの並行箇所は7章24節から30節に書き記されていて、話の流れは同じですが。細部には多くの相違点があります。もっとも顕著なものは次の二点です。

「この地に生まれたカナンの女(マタイ22節)」⇔「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった(マルコ26節)」

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように(マタイ28節)」⇔「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった(マルコ29節)」

どちらがより本来の出来事の事実に近いのかというと、マルコであるとほぼ断言できます。なぜならば女性を「ギリシア人」とすることが初代教会にとっては非常に不都合であるからです。マルコの福音が書かれたのは紀元70年頃とされています。それはもうすでにパウロらによるギリシア地域への宣教が行われ、多くのギリシア人がキリスト教に入信していた時期でした(パウロは67年頃に殉教)。

そのようなギリシア人への宣教において、イエスがギリシアの婦人を「小犬」呼ばわりしていたという記述は大きな障害になるでしょう。それはイエスが当時の多くのユダヤ教徒がそうであったように「異邦人」を軽蔑し「イスラエル」だけしか認めない、偏狭な民族主義にこり固まっていたというような印象を与えかねないからです。けれども、このような不都合な表現が残されているということは逆に、この出来事の信ぴょう性を高めるものなのです。イエスご自身の言動であったからこそ「不都合」であっても伝承は改変することができなかったと考えられるからです。

今日のマタイはその「不都合な事実」を薄めるためにマタイの視点からこの出来事の伝承を再編集したものであるといえます。それは簡単に言えば「信仰の模範」を示す「信仰養成」のテキストに置き換えたのです。

 

まず婦人が「カナンの女」とされていますが、イエスの時代においては「カナン人」と呼ばれる民族はすでに存在していませんでした。当時のローマ世界にあってはシナイ半島に住む人びとを「パレスチナ人」と呼ぶことが一般化していました。「カナン人」はもはや旧約聖書の中にのみ登場する民族であったのです。マタイは「カナン人」とすることによって出来事を非現実化し「聖書」の中の物語であるかのように置き換えたのです。

そしてマタイではカナンの女が「ダビデの子よ」と呼びかけますが、マルコにはありません。マタイはこの「信仰告白」によってカナンの女をユダヤ教、キリスト教の信仰の枠内に収めているのです。

キーワードは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない(24節)」です。この言葉は先に10章においてイエスが12使徒を選出し、宣教に派遣する際の「派遣説教」で 使われた表現です。

「異邦人の道に行ってはならない・・・むしろイスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい(5節)」

これはけっしてイエスが異邦人への宣教を考えていなかったというわけではありません。イエスは宣教を段階的に考えていたということをマタイがもっとも明確に打ち出しています。イエスはまずユダヤ人の信仰の刷新のための再宣教を目指していたと考えられます。「失われた羊」というのは神の側からみて、イスラエル=ユダヤ人が正しい信仰を失ったことによって、神の民が失われてしまったということを言い表しているといえます。イエスはユダヤ人を刷新し神の民を「取り戻した」うえでその民と共に異邦人、世界に向かっての宣教を志していたのではないでしょうか。

けれどもユダヤ人は宣教を受け入れませんでした。それによってイエスは宣教から十字架の道へと方向を変え、死と復活という「過越」によって新たな神の民を産み出すことにされたのです。そして新たな「神の民」が復活のイエスと共に全世界に向かって宣教を始めるのです。

だからこそマタイの福音では復活した後になってはじめて、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(28:19)」とイエスは弟子たちに全世界への宣教を命じるのです。

 

ですから本日の福音の段階ではまだ「世界=異邦人」への「宣教=救いのわざ」は始まっていなかったのです。イエスにとってそれはまた、ご自分のみならず父である「神のご計画」であり、それを守ろうとして、異邦人の婦人の願いを受け容れなかったと解釈できます。

けれどもカナンの女はイエスにこう訴えます。

「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです(27節)」

この言葉は次のように解釈できるでしょう。

「まだ異邦人のための段階ではないという、神のご計画は理解しております。しかし、神のご計画はあまりにも偉大で広大なものですから、そこからこぼれ落ちる恵みがあり、それを頂くことができると思います。また、そのおこぼれに預かるような些細なことが神のご計画を妨げることにはならないとも思います。」

この子どものような神の偉大さにたいするおおらかな信頼に感心して、イエスは「あなたの信仰は立派だ(28節)」と言われたのでしょう。

 

もうひとつイエスが「小犬」と呼んだのは、この婦人に「試練」を与えるためであったという解釈もあります。それを婦人が怒ることなく受け入れた「へりくだり」もまたイエスを感心させたということです。

 

ただ皆さん、やはりひとりの人を「小犬」と呼ぶイエスの言動への違和感はぬぐえないと思います。さらに現在の私たちが「小犬」と聞いてイメージする、かわいらしいペットとしての「子犬」のイメージはイエスの時代のユダヤ社会にはなかったのです。当時の「犬」はほとんどが野犬であり、狼のような獰猛な野獣のイメージだったのです。「小」というのも「子」ではなく「つまらない」「下等な」という意味合いだったのでは、と考えられます。

であれば、ますますイエスの意図がわからなくなります。

 

実はこのイエスの言動にたいする解釈はマルコの並行箇所から読み取れるのです。それは当時の社会的背景から探っていく解釈で、私にとってもっとも納得がいくものです。

ただ、これを語るのは、本日の福音の説教の枠を越えてしまいます。

また、このマルコの並行箇所はA年、B年、C年ともに主日の福音では取り上げられていませんので、主日のミサの説教で語ることはできません。

 ですから、10月から始める予定の「新約聖書講座」の中でいつか、取り上げたいと思います。

 

2023年8月13日年間第19主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

静かにささやく声が聞こえた

――――第一朗読「列王記上19章12節」紀元前9世紀半ばの北イスラエル王国で活動した預言者エリヤの物語は列王記上17章から22章に書かれています。「物語」としてもおもしろく、そのクライマックスともいえる箇所は18章16―46節のカルメル山でのバアルの預言者との対決でしょう。450人ものバアルの預言者にエリヤはたった一人で立ち向かい、たがいに自らが信じる神に天からの火を祈り求めるという「祈り合戦」ともいうべき戦いでみごと勝利し、バアルの預言者たちを打ち負かします。

けれどもバアルの預言者たちを故郷のシドンの地から連れてきた王妃イゼベルは激怒して、エリヤの殺害を兵士たちに命じます。そのためエリヤは北イスラエルから南ユダ王国、さらに南の荒れ野へと逃避行を重ね、ついに疲れ果てて「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください(19章4節)」と死を望みます。それにたいして神自らがエリヤに語りかけるのが今日の箇所です。

かつてモーセも神と語り合ったホレブの山の洞窟で身を潜めるエリヤに、激しい風、地震、火と天変地異が起こります。古代の人びとはこのような自然現象に神の力を感じ、神の顕現のしるしとしていましたが、そのいずれにも「主はおられなかった(11節)」のです。

そして神は「静かにささやく声」でエリヤに語りかけられました。

私たちも神は特別なしるし、超自然的なしるしをもって現れると考えがちですが、実は神は日々の日常生活の中で絶えず「静かにささやく声」で私たちに語りかけておられるのです。けれども私たちは目に見える生活のあわただしさや喧噪、また思いわずらいに覆われて「静かにささやく声」を聞き取れていないのではないでしょうか。

そのため、一日に10分の時間でもいいのです。静かにすわって、黙想する時を持つようにいたしましょう。それによって「静かにささやく声」を聞き取ることができると思います。

 

『主よ、助けてください』と叫んだ

――――福音朗読「マタイによる福音14章30節

福音書において「舟」と「荒れる湖」という組み合わせで語られている出来事が出てくれば「舟」は「教会」を、「荒れる湖」は「世界」を表していると考えてほぼ間違いはないといえます。そして「教会」の福音的価値観はこの「世界」の地上的価値観と対立するものですから、「湖」は絶えず「逆風」が吹き荒れている状態となるのです。

本日の福音ではイエスは「弟子たちを強いて舟に乗せ(22節)」ご自分はひとり残られます。この「強いて」には本来、弟子たちは復活したイエスといつまでも共にいたかったという思いが込められているように思えます。けれどもイエスは弟子たちを地上に残して昇天されました。「天」は「空」ではなく「三位一体の神の座」であり、それは人間の歴史の中に共にいてくださいます。「昇天」はイエスが目に見えない神の姿に戻られたということであって、共にいてくださることに変わりはないのです。ただ見えなくなったキリストに代わって、目に見える「キリストの体」である「教会」がこの世界においてキリストのわざを続けていくのです。イエスは弟子たちに「教会」という「舟」を託され、この「世界」に漕ぎ出すようにと「強いて」命じられたのです。

ただ、「湖=世界」を行く「舟=教会」は絶えず「逆風」のために悩まされます。そしてイエスが目に見えないという状況に不安と孤独を感じます。

けれどもイエスは「山にお登り(23節)」になっているのです。「山」はやはり神のおられる場のシンボルです。ここにも「昇天」のイメージを読み取ることができます。それも「祈るために(23節)」です。目には見えなくとも、イエスはいつも神の座で「教会」のために祈ってくださっているのです。まさに荒波に翻弄されている、現在の私たち日本の教会のためにも祈っていてくださるのです。

「夜が明けるころ(25節)」イエスが湖の上を歩いて「舟」に近づいて来られます。ここには世の終わりにおける「キリストの再臨」がイメージされていると思えます。

 

ペトロはイエスに「私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください(28節)」と願います。この願いは「『水の上を歩いて』奇跡を行わせてください」ではありません。「そちらに行かせてください」つまり「イエスさま、あなたのもとに行かせてください」という願いで、イエスに出会えたという喜びから、一刻も早くイエスのもとに行きたいという、焦がれるような思いなのです。

ペトロはイエスさまが大好きなのです。これと同じような箇所がヨハネによる福音21章1―13節の復活顕現物語にあります。夜通し漁をしても何もとれなかった翌朝、岸にイエスが立っているのを見たペトロは「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ(7節)」のです。ここでもイエスさまのもとへ少しでも早く行きたいあまり飛び込んで、岸まで泳いで行こうとする、必死になっているペトロのほほえましい姿を見ることができます。

けれども強い風に気がついたペトロは怖くなって沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫びます。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』(31節)」と言われます。

この「疑う」は原文のギリシア語の言葉では直訳すると「あることについて二つの思いを持つ」という意味になるそうです。日本語で言えば「二心(ふたごころ)を持つ」ということになるでしょうか。

ペトロは「イエスさまのもとへ行きたい」というその思いだけで、一心にイエスだけを見つめて歩いていれば「沈む」ことはなかったと思います。それが「強い風」に気が取られてしまって、「怖い」という別の思いを持ったがゆえに「二心」となってしまった結果、沈みかけてしまったといえます。

でも、私たちは誰もペトロを笑うことはできないと思います。

 

私たちもただイエスさまだけを見つめて信仰の道を歩んでいきたいと願っています。でもその思いは絶えず、生活の思いわずらい、人間関係の問題での喜怒哀楽などの方に移って行ってしまい、「二心」どころか「三心」「十心」ぐらいにばらばらになって行ってしまいます。沈むどころか、おぼれそうになってしまいます。

でもどうあがいても、それが私たちなのです。だから大切なことはペトロのように沈みかけたらいつでも「主よ、助けてください」「主よ、あわれんでください」とイエスさまに向かって叫ぶことだと思います。それが弱い私たちにできることなのです。

そうすればイエスさまは「すぐに手を伸ばして」私たちを捕まえてくださるのです。そして少し笑みを浮かべつつ「信仰の薄い者よ。でも、大切な者よ」とおっしゃってくださることでしょう。

被昇天の聖母 カトリック 垂水教会