カトリック垂水教会担当司祭:林 和則
本日の第一朗読「イザヤの預言55章6―9節」の中で神はイザヤを通して次のようにイスラエルの民に、そして私たちに語りかけられます。
「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている(9節)」
この神のことばを具体的に示しているのが、本日の福音「マタイによる福音20章1―16節」でイエスが語られたたとえ話です。
ぶどう園の主人が夜明けの広場で最初に雇った労働者たちとは1日につき1デナリオンの賃金の約束をします。9時ごろに行った時には具体的な金額を示さないで「ふさわしい賃金(4節)」と言って雇います。12時ごろと3時ごろに雇った労働者たちにも「同じようにした(5節)」とありますので「ふさわしい賃金」と言ったのでしょう。
最後に5時ごろに雇った労働者たちには賃金に関しては何も言わずに「ぶどう園に行きなさい」とだけ言って雇います。
そして夕方6時に労働は終了しました。当時のユダヤ社会では朝6時が1日の労働の始まりとされていましたから、最初の労働者たちは休憩をはさみながらでしょうが12時間もの間、働いたことになります。それに対して最後に雇われた者たちは1時間しか働いていないことになります。
ところが主人はこの最後の者たちにも最初から働いていた者たちと同じ1デナリオンを与えたのです。それで最初の者たちは主人に不平を言いますが、主人は「不当なことはしていない(13節)」と答えます。確かに考えてみると主人は最初の者たちとは「1デナリオン」の賃金で契約をしていて、契約通りの金額をきちんと支払っているのです。
ただ、最初の者たちが「不当」と感じるのは、遅れてやってきた者たち、特に最後の者たちと自分たちの賃金を「比較」することによって生じているといえます。けれども、主人は遅れてやってきた者たちには金額を明示してはいませんでした。ですから自分の判断で「ふさわしい金額」を支払ったのであって、厳密に言えばこれも「不当」とは言えないと思えます。ただ「時給制」という賃金の一般的原則からいって、最初の者たちが不公平感を持つのも理解できないことではありませんし、もっともだと思われる方も多いでしょう。
ここにどのような神のメッセージを読み取ればよいのでしょうか。ひとつの解釈としては、人間的に見て(地位や財産などの基準で)成功している人生、うまくいかない人生といったように、私たちは人と「比較」してそれぞれの人生を考えてしまいますが、すべての人生は神から個別に与えられた人生(召命)であって、そこに優劣の差はないということです。ですから「比較」することに意味はなく、与えられた命をいかに一生懸命に生きるかが大切なのです。神はそれぞれの人に「ふさわしい」人生、召命を与えておられるのです。それを「比較」することによって不平不満が生じてしまうのです。
そして、このたとえ話の中心的なメッセージのキーワードは主人が不平を言う人に呼びかけた「友よ(13節)」にあると思えます。
これと同じ用例がルカによる福音11章5―8節にあります。そこでは神もしくはイエスがたとえられていると思える人が真夜中にも関わらず、友達の家に行って次のように頼みごとをします。
「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです(5-6節)。」
すると友達はこう答えます。
「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません(7節)」
この友達の返答は世間的常識からいって、先の最初から12時間も働いた者たちと同じようにもっともな反応です。
ただ、そこにイザヤ書にあった神の思いと人間の思いとの違いがあるのです。
そして神は人間の思いをもっともなこととして受け入れたうえで、なおかつご自分の神の思いを共有することを私たちに求めての呼びかけが「友よ」であると思えます。
それは次のように表現できるでしょう。
「友よ、おまえの思いはわかる。でも、どうか、私と思いを同じくしてほしい」
それはルカの前述個所では、空腹のあまり、真夜中に食を求めてきた友を捨て置かず、私と共にこの人を助けてあげてほしいという思いです。それはマタイによる福音25章35節、最後の審判のたとえの中での「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ」を連想させます。
それでは今日のたとえ話の主人は最初から働いていた者たちにどのような思いを共有してほしいと願ったのでしょうか。
それを理解、というよりも実感するためには、このたとえ話を現在の私たちの状況に置き換えてみればよいと思います。このたとえ話で取り上げられている労働は明らかに「日雇い」です。それは現在の日本においても行われているのです。私たちにとってそれが行われている身近な場所は大阪市西成区の通称「あいりん地区」もしくは「釜ヶ崎」と呼ばれている場所でしょう。
そこではたとえ話のように毎朝5時半に労働者が「広場(かつては労働センター)」に集まってきます。宿に泊まれず路上で不十分な睡眠しか取れなかった人びとも集まってきます。みんな「労働者」であって「働きたい」からです。そこにあちこちの工事現場からワゴン者が乗りつけて来て、集まっている労働者たちと交渉して契約が成立した人たちを現場へと連れて行き、夕方になればまたワゴン車に乗せて釜ヶ崎へと連れて帰るのです。
けれども、仕事にありつける人は多くはないのです。多くの労働者が仕事にありつけず、その日一日を無為に過ごすしかないのです。
それはたとえ話では五時ごろになっても「何もしないで一日中ここに立っている(6節)」人びとです。けれどもそれは単に「立っている」のではありません。今夜、自分は死んでしまうかも知れないという恐怖に怯えるという、極度の苦しみの中で「立っている」のです。
新聞にもテレビでも滅多に取り上げられませんが、釜ヶ崎では今も毎年、路上で死んでいく人びとがいます。何日も仕事がなくお金を得ることができないために十分に食べることもできない栄養失調の体調でありながらも野宿をせざるを得ない状況、特に冬の夜においては路上で眠ったまま亡くなる方が何人もいらっしゃるのです。
主人が5時ごろに出ていくのは実は「雇う」ためではありません。そのような極限の苦しみの中にいる人びとを見つけて「救う」ためだったのです。
確かに早朝から働き続けた人びとは体力を消耗したでしょう。けれども精神的には仕事にありつけたこと、賃金をもらった後の食事や宿泊を思いながら、充実した労働の「喜び」を味わっていたのではないでしょうか。
ですから主人はこの人に「私と思いを共にして、5時まで立っていた人びとの『苦しみ』に目を向けてほしい。この人びとにいつくしみの手を差しのべてほしい」という思いをこめて「友よ」と呼びかけたのだと思います。それが「人の思い」を高く超えている「神の思い」です。またそれに基づいたなされ方である「道(同一の賃金を与える)」も人間の一般的な常識を超えたものなのです。
「主の祈り」の中の「御心が天に行われる通り、地にも行われますように」という「御心」が「神の思い」です。これは神がイエスを通して、次のように私たちに呼びかけておられるのだと思います。
「高い天(神の座)で行われているわたしの思いとあなたの思いを同じくして、あなたの生きている地(世界)においても、友よ、どうか、あなたがわたしの思いを行ってほしい