2025年4月19日 聖土曜日のミサ 説教の要約

《 聖土曜日:お通夜 》

Black Saturday 2025

 

日本に戻って来て、私が気づいたのは、あなた方がお通夜式を行わなくなったことです。多分、通夜式を行わない理由はパンデミックの影響があるかもしれません。しかし、その時代は既に終わったでしょう。今は ポストパンデミックの時代です。 恐れなしであらゆるところに集まることが出来ます。

お通夜の時に、何をしていますか?言うまでもなく、私たちが夜、教会に、死者を祈り、記念するために、集まります。 一言で、死者の人生を要約します。私たちにとって、それは死者の遺産です。私たちへの貢献です。このようにして、その人の人生を深く理解するようになります。実は、納骨式の時にも同じことをします。

兄弟姉妹の皆さん、イエスの復活を待ち望んでいるように、そのように聖土曜日を過ごすべきではないでしょうか?聖土曜日に、教会は静かです。教会活動はありません。私たちはイエスのお墓に立ち、イエスの力強い言葉と神秘的な行動を心に集め、そして、より深く理解するのに、イエスの記憶をすべて結びつけるよう心掛けています。

聖土曜日には、信仰はイエスが死者と共におられたことを教えてくれます。

聖土曜日の夜、復活の聖なる徹夜祭が行われます。教会堂内部は消灯します。暗闇の中でミサが始まります。きっと、これは、イエスの母であるマリアと弟子たち、特にまだ暗いうちにイエスの遺体に香料を塗るために早く墓に行った女性たちの気持ちだったではないでしょうか。

兄弟姉妹の皆さん、良い知らせは私たちの外であろうと内側であろうと、世界で最も暗い場所でさえ、神を見つけることができるということです。神の存在を感じなくても、神はここにいます。もしも、神を探し求めるとしたら、絶対に、今日の福音の婦人たちのように、神のきらきら光っている姿を見つけるでしょう。「輝く衣を着た二人の人は婦人たちに言いました。なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」この出来事のおかげで、婦人たちは変わって、急いで弟子たちに墓での見たことを述べ伝えました。

聖土曜日のはっきりしたメッセージは地球の最も暗い場所にさえ神の存在を見つけることができるということです。例と言えば、 戦場、 悲惨なところ、 寂しい家、病院などがあります。これは希望です。復活の私たちへの贈り物は希望です。神は最も弱い瞬間に私たちを決して見捨てません。復活イエスは暗闇の中から私たちを取り出してくださいます。

最後には善が勝ちます。 悪は倒れます。愛がすべてに打ち勝ちます。正しい人は永遠に生きます。偽りのない人は自由さを見つけます。信頼する者は愛されます。 奉仕する者は奉仕されます。 赦す人は赦されます。忠実な人は天の国に入りますという希望を復活は私たちに求めています。

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ご復活に聴く、荘田 作 先生のCD・『心のうた』

ご復活 おめでとうございます❣️

アマド神父さん、荘田氏の了解を得ましたので、 かつての 垂水教会 聖歌隊指導者でいらした、荘田 作 先生のCD・『心のうた』から、ご復活の季節にふさわしい数曲を教会HPにあげさせて頂きます。 どうぞお聴きください。

https://youtu.be/owqGtJ7eGsU?si=e8uLIlo2dz6hB_DU

 

水野源三の詩による独唱・朗読のための歌曲集
「こんな美しい朝に」〈 Ⅰ 〉より
朗読:浦山弘三

⚫︎今日一日が始まる
⚫︎こんな美しい朝に
⚫︎主よ、み手のその傷は
⚫︎わが心に
⚫︎天つ御国へ
⚫︎主から受けし
(18:01分)

2025年4月13日 受難の主日(C年)のミサ 説教の要約

《 静寂の音 》

Palm Sunday 2025

静寂の音というサイモンとガーファンクルの歌を私たちは皆知っています。世界的で、とても有名な歌です。 そして、昨シーズンの鍵山雄馬のショートプログラムの曲です。 曲はこんな感じです。 「こんにちは、暗闇さん、私の古い友達。また君と話をしに来たよ。幻想がそうっと忍び寄っているからだよ。僕が寝ている間に種を残して行ったんだ。そして、僕の頭の中に植えられた幻想は静寂の音の中にまだ残っている。」この曲をよく知っているでしょう。「静寂に聞け。それは話す」という アメリカのとても古いことわざがあります。静寂の音が聞こえますか?

私たちの多くは、沈黙の時に何をするのかがわからないので、心が落ち着きません。そして、私たちの今のライフスタイルにも関係があると思います。いつも忙しくて急いで動いています。 頭がいろいろなことで悩んでいます。私たちはまるで、マルタというマリアとラザロの兄弟姉妹のようです。かくして、 沈黙の中で私たちの心が落ち着きません。

枝の主日に、イエスが仔ろばに乗って、エルサレムに入城して、そして、人々は枝を切って道に敷いたことを私たちは思い出します。群衆は叫びました。 “ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高き所にホサナ!” (マタイ 21:6-11) その時の雰囲気はお祭りのようでした。 人々は希望に満ちていました。

しかし、私の目が3つの聖書朗読の静寂に留まりました。 沢山の暴力、苦しみ、悪、死があったのに、なぜ沈黙があるのだろうか。 イザヤの予言はこのように書きました「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」と

イザヤのその預言は、イエスにとって真実となりました。そして、聖パウロはそれについて話しました。それは何という愚かさでしょう。 神は私たちのようになって、 そして、ご自分の息子が名誉なく死ぬことを許されました。また、ピラトの前にいらっしゃったときに、イエスは屈辱を受け、嘲笑され、厳しく挑戦されました。 十字架の上で、人々はイエスを嘲笑しました。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして、十字架から下りて来い。 他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から下りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」と

イエスはどのように人々の嘲笑に反応しましたか? 反論はありません。 カウンターチャレンジはありません。 会話はありません。 沈黙が 彼の応答でした。 ピラトとヘロデの前では、 彼は 沈黙していました。 イエスは沈黙のうちにこの世を去って行きました。 悪、不正、死に直面して、私たちは神に何を期待しますか? これらの中で神はどこにおられるのでしょうか。

イエスの静寂は本当に理解しにくいことです。彼は告発者に答えることができたが、黙っていました。 彼の沈黙は、彼が弟子たちへの言葉、つまりご自分が多くの苦しみを受け、死に、そして、三日目に復活することになることを私たちに思い出させます。

兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエスの静寂を完全に理解することが出来ないのです。 しかし、沈黙は神が私たちの心に語りかける場所であることを忘れないようにしましょう。 そして、もし私たちが使徒職を真剣に受け止めるなら、沈黙の大切さを理解し、それを実践しなければなりません。

最後に、何かが間違って、それが続けてはならないとわかったときに、沈黙を破り、話すのは全然大丈夫です。 不正と悪に直面して、応答としての沈黙が効果的ではないとき、私たちは話す必要があります。

 

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4月のミサの予定

〈4月ミサ予定 主日10:00〜〉
April Mass Schedule Lord’s day (Japanese)

4月6日(日) 四旬節第5主日
5th Sunday of Lent

4月13日(日) 受難の主日 枝の主日
Palm Sunday

4月17日(木) 聖木曜日 19:00〜
主の晩餐の夕べのミサ 洗足式
The Lord’s Supper

4月18日(金) 聖金曜日 15:00〜 主の受難
The Passion of Our Lord

…ミサ後に十字架の道行
…Stations of the Cross after Mass

4月19日(土) 聖土曜日 19:00〜
復活の聖なる徹夜祭
Easter Vigil

4月20日(日) 復活の主日 洗礼式
Easter Sunday

4月27日(日) 復活節第2主日 神のいつくしみの主日(Fr. 中川)
2nd Sunday of Easter Sunday of Divine Mercy

2025年4月6日 四旬節第5主日(C年)のミサ 説教の要約

《 新しいことを私は 》

5th Sunday Year C

兄弟姉妹の皆さん、本当に、春が来ました。感じていますか?今日はお花見日和ですね。

春は新たな始まりの季節です。 新卒生は就職し、歓迎されます。新入生は、選んだ学習環境で入学式に出席しました。 明日から新学期が始まります。「あんぱん」という新しいNHK朝ドラは先週の月曜に始まりました。面白そうです。野球の試合も始まったばかりです。 私たちの周りの世界はほとんど、花が咲き、鳥がさえずり、蜂のブンブンという羽音で生き返り始めます。 何か新しいものがあることを私たちの周りは話しているようです。

ここには、新しいものよりも古いものを好む人はいますか? 多分、私たちの年配の兄弟姉妹は、古い歌や古いやり方が好きかもしれません。 パンデミックの前の生活に戻りたいと思っている人はまだいると思います。 困難の時、人々はすぐに古き良き時代を振り返ります。過去のことを思い出す事は何も悪いことではありません。実は、効果的です。しかし、長くしない方がいいです。さもないと、現実逃避になります。現実に直面したくないのです。新しい現実を受け入れ、その良さを認識することが挑戦なのかもしれません。

兄弟姉妹の皆さん、新しいことの点から今日の聖書朗読を理解しましょう。「見よ、新しいことを私は行う」イザヤの予言はこのように書き、その言葉を説明します。「私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥も私をあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、私の選んだ民に水を飲ませるからだ。」神はご自分の選ばれた民のために何か新しいことをなさり、現在もそれをなさっています。私たちはそれを信じなければなりません。

聖パウロにとっては、キリストを知ることは古い道を捨てて、新しい人生を始めることです。 それは回心し、キリストを信じるということです。回心の道とは、新しい価値観で、新しいライフスタイルで、新しい行動で、新しい人生ということです。キリストを得ることは新しい命を得ることです。永遠の命につながっています。

福音書はヨハネ福音著者から取られています。 姦通の現場で捕らえられた女の話です。人々はイエスの方にその女を連れて行きました。彼らはイエスに言いました。 「先生、この女は姦通をしているときに、捕まりました。」彼らはその女性を非難しただけでなく、イエスを試そうとしたのです。 彼らの心の中には悪の傾きがありました。それに対して、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とイエスは言われました。集まっていた人々はだんだんといなくなり、最後はだれもいなくなりました。しばらくして、イエスはその女に言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してならない。」と。女に慈しみをお示しになりました。

ここでイエスは私たちに新しい行動、新しい態度、罪人への新しいアプローチを示されています。それは慈しみ、広い心です。慈しみは許す覚悟で、 罪人が回心できることを確認する力です。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさいという新しい掟をイエスは最後の晩餐の時、弟子たちに伝えました。

この四旬節の時に、私たちは古い道、罪深い道を捨てて、キリストの示された新しさを受け入れましょう。もしも、私たちが本物の信徒なら、人生で間違いをした人々に対する思いやりは私たちが示すべき態度です。彼らを許します。私たちは、彼らが新たなスタートをする能力を信じています。 私たちは誰も非難せず、むしろ弱い人々に助けの手を差し伸べます。

この聖年にあたり、困難な時に神が私たちの力と慰めとなり、私たちのために何か新しいことをしてくださり、 道を開いてくださると願っています。

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初聖体式と勉強会のご案内

6月22(日) 10時〜 キリストの聖体の祭日ミサの中で、初聖体式を予定しています。
秘跡を受けるための勉強会を始めます。
新小学3年生以上の受洗者で、ご希望の方は、4月20日までに、子ども会 または 垂水教会事務所にお申し出ください。

〈 Invitation of First Communion and a study session 〉
It is planning to hold a First Communion ceremony on Sunday, June 22nd from 10 am.
As a requirement a study session about the sacrament is given to candidates.
Open to all baptized Catholics who haven’t received the Holy Sacrament yet, third grader and above from April.
For more inquiries please visit the Tarumi church office by April 20th.

2025年3月2日 第8主日(C年)のミサ 説教の要約

《 あなたの心には何があるのか 》

8th Year C

商店街で一日中、風船を売っている男の人がいました。 この男は、赤、黄、青、緑の風船を商店街の端から端まで売っていました。 売り物があまり売れないときに、彼は色とりどりの風船を空に放ちました。それが空を飛んでいるのを見たとき、 子どもたちは、みんな買いたいと思いました。 この風船の男の人は子どもたちに大人気で、子どもたちは風船を買うのにすべてのお金を使って、それから、手から風船の紐を離し、遠く、遠く、空高く飛んでいく風船を見ていました。見えなくなると、自分の家に帰りました。

ある日、一人の子どもが風船の男の人の服を引っ張って、尋ねました。「黒い風船も他の風船のように空高く飛ぶことができるの?」 「勿論。けれども、風船が飛ぶのは風船の色じゃないよ。重要なのは中身です」と風船の人は応えました。

私たちの生活にも同じことが言えるかもしれません。 重要なのは、中身に何があるかです。 中には何がありますか? 忍耐力。謙遜さ。思いやり。怒り。恨み。嫉妬。 あなたの内側にあるものは何でも、いつか外に出てきます。 あなたの中身によって、あなたは風船のように、空高く飛ぶことが出来ますか?

今日の福音の中で、”盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか。二人とも穴に落ち込みはしないか?” とイエスはたとえを話されました。ここでは、彼は肉体的な盲目についてではなく、むしろ霊的な盲目について語っていました。見当違いの先生が他人を迷わせるという真実を彼は強調していました。 ですから、人々は識別しなければなりません。知恵に満ち溢れる先生はまるで、良い木のようだと彼ははっきり教えられていました。良い木から良い実が出てきます。そして、栄養を与えます。“善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出るものを語るのである。” ですから、善良な心を持つ人から悪を期待することはできません。 彼らは自分の心から出てくるものだけを引き出します。私たちの心と口は普通、連動しています。 言い換えれば、私たちの言葉、行い、決定から、私たちの心の状態が見えます。

偉大なマハトマ・ガンジーは言いました, 「あなたが世界で見たいと願う変化に、あなた自身がなりなさい」 簡単に言えば、変化は私たち自身から始めるべきです。 他人を変えたいなら、何よりもまず自分自身を変えなければなりません。 私たちの多くは、簡単に他人を正したり批判したりしますが、自分自身の欠点、つまり自分の弱さも意識しているでしょうか? 私たちは他人の間違った行いを批判しましたが、後で、自分の過ちに気づいたので、自分の行動を後悔しました。 何が起こったのかを完全に理解せずに私たちは、他人を判断しました。二度と 同じ間違いがおこわれないために、謙遜を持って、まず、私たちは耳を傾けましよう。

兄弟姉妹の皆さん、正しい生活を送っているのを人々が知っているとき、私たちは自分を正すことにおいてより信頼できるものになることができます。 私たちは、誠実な言葉と善良な行いによって、人々の信頼と尊敬を手に入れます。 私たちの生き方は、私たちの出会った人々に良い影響を及ぼします。 彼らは私たちの言う言葉を聞き、私たちの行いを見ています。正しい人生を生きてみましょう。

御父よ、 私たちを忠実に生きるように導いてください。そして、私たちの言葉と行動が、他の人々の糧となりますように。

 

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3月のミサの予定

〈3月のミサの予定 10時〜〉

3月2日(日) 年間第8主日

3月5日(水) 灰の水曜日

3月9日(日) 四旬節第1主日(Fr.山内)

・四旬節黙想会 共同回心式

3月16日(日) 四旬節第2主日(Fr.中川)子どもミサ

3月19日(水) 聖ヨセフ

3月23日(日) 四旬節第3主日(Fr.中川)

・ミサ後、信徒会館にて舞子地区の地区の集いがあります。

3月25日(火) 神のお告げ

3月30日(日) 四旬節第4主日(Fr.高橋)

2025年2月16日 第6主日(C年)のミサ 説教の要約

µ主に信頼する人々は幸い

6th Sunday Year C

 

ある土曜日の夜のことですが。叙階されたばかりの司祭は、大聖堂教会で日曜日の説教をするという突然の頼みを司教から受けました。 「私はこれまで、司教様のように沢山の信徒に説教したことがありません。そして、何も準備していません! どうすればいいの?」神父様が尋ねると 司教は答えて言いました。「大丈夫よ、主を信じなさい。ただ主を信頼しなさい。」

その夜、若い司祭はインスピレーションを求め探すために、司教様の聖書を捲りました。 偶然司教が聖書に挟んでいたコンピュータで書いた説教の原稿を見つけました。 読んだ後、彼はとてもいい説教だと思っていたので、翌朝のミサで、それについて伝えることにしました。 司教の原稿を前にして、若い司祭は信徒を非常に喜ばせ、自分の年齢を超えた知恵に満ちた説教をしました。

ミサが終わって、大聖堂を去ると、多くの信徒たちが立ち止まって優れた説教で若い神父に感謝しました。 それから、司教様も彼の方にいき、話しました。「君は今夜私が話す予定だった説教をした。では、どうすればいいの?」 「心配は要らない、主を信じてください。ただ主を信頼してください。」と若い神父様は言いました。

兄弟姉妹の皆さん、今日の朗読のテーマは「主を信頼せよ」です。 エレミヤ、預言者は、人間の力を信頼しないように警告していました。 預言者は人間を信頼する人々はまるで、荒れ地の裸の木のようで、生き残るのに苦労していると例えていました。 これは、自分自身あるいは他人に頼ると、不安感や不快を感じる可能性があることを示しています。

「貧しい人々、悲しむ人々、飢え渇いている人々は幸いです。」とイエスは福音の中で、言われました。それは彼らが悲惨な状況の内にいるからではなく、むしろ主に信頼を置いているからです。このような瞬間に、神は彼らの力であり、彼らに憐れみを示してくださいます。 福音書では、イエスが群衆を見て、彼らを憐れんだという話が何度も語られています。本当に神は 思いやりに満ちあふれています。それで、神は 彼らの唯一の希望です。

時々、私たちは皆、暗闇と試練を経験します。 そのような時、私たちは神の存在よりも神の不在を感じます。 そして、これは私たちにとってつらい経験で、神の愛を疑います。

兄弟姉妹の皆さん、困ったときは、多分、孤独な心を持つ人々を慰めるために「主を信頼しなさい」「神様に祈りなさい」「希望を持ち続けなさい」と言うかもしれません。私たちはその言葉を言うべきではないと心理学者は言います。 それは危険です。 それはトキシック・ポジティブと呼ばれます。 困ったときは、相手が自分の気持ちを表現できるようにし、それを認めるべきです。

けれども、自分の気持ちを伝えることは多くの人にとって簡単なことではありません。 それは信頼や自信を要求します。様々な理由で、私たちは殆ど、信頼するのが難しいと感じています。信頼は自信を意味します。 私はあなたを信じています、 だから、私は、たとえ告白した後、あなたが私を嫌うかもしれないとしても、あなたに自分の真実について伝えます。要するに、信頼のために私の弱さや傷つけられやすいところをあなたに見せたのです。

神との関係において、私たちは祈りを通して信頼を表現します。 自信を持って、私たちは祈りで神に心を注ぎ、神が私たちの願いを叶えてくださいますように願っています。

主よ、私たちが自分の力ではなく、あなたに信頼するのを助けてください。

 

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2025年2月9日 第5主日(C年)のミサ 説教の要約

【落胆を克服する】

5th Sunday Year C

心が苦しいとき、私たちはどうしますか? 人々はそれぞれ心の苦しみを解決する方法を持っています。通常、私たちは信頼できる人に、心の中の苦しみを話します。 バーに行って酔うまで飲む人もいます。 また、寝てしまって、起きたときに、すべてが自分の望むようになっていると期待している人もいます。 悲しいことに、人生の悩みに耐えられない人がいます。 彼らは簡単に落ち込んでしまい、絶望しています。彼らにとって、残念なことに自ら死を選ぶことだけが解決だと思い込みます。

数年前、友人が言いました。「神父様、ちょっと話してもいいですか?」 「もちろん、いいですよ。」と私はいいました。「すごく落胆しました」 と、彼から聞きました。 「どうしたの?」 と尋ねると、友人は説明してくれました。「たった今、この罪を告白したばかりで、再び怒りと戦っています。 先日の夜、長男と激しい口論をしました。 大きな声で、彼を怒鳴った。それで、日曜日のミサにあずからなかったのはまだ、長男と和解の準備が出来なかったからです。」 「なるほどね。本当に、心が澄んでいないときに、ミサに参加するべきではありません。 ところが、ミサに行かない理由が、ミサに行く適切な理由でもあると思いませんか。 教会に行き、イエスに心の悩みについて全部話してしまったらいいではないですか。確かに、あなたがそうするなら、イエスはあなたのために問題を明確にし、あなたは希望を見つけるでしょう。」 と話しました。

時々、心が問題を抱えているとき、人生に落胆しているとき、私たちは問題の解決を見つけるために、いろいろ試そうとします。そして、なにもかもがうまくいかないとき、まだ暗闇の中にいるとき、私たちは初めて主に目を向け、主の助けを願うのです。 神は私たちが助けを求めて近づく最後の方のようです。それにはどのような理由がありますか?  日本人はよく「最後の頼みは、神頼み」と言います。なぜ、神は私たちのリストの最初になれないのですか?  私にはとても疑問に思えます。

 

大勢の群衆に教え終えた後、イエスはシモンに言われました。「沖に漕ぎ出して網を降して,漁をしなさい。」大工の息子であるイエスは、プロの漁師にその言葉を言いました。 それにこたえ、シモンは言いました、 「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、御言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」 と。

ペトロは一晩中釣りをしていて、何も釣れませんでした。 きっと、彼はこれをイエスに関連付けたのは、自分が疲れていて、おそらく落胆していると暗示するためです。 どんな漁師でも彼の経験に共感することができます。 その上で、釣りの時間はもう終わり、もう太陽が昇り始めていました。 しかし、ペトロが今日、私たちに教えてくれる重要な教訓は、彼がすぐにその落胆に屈しないということです。 そして、彼が落胆に屈しない主な理由は、彼に網を降ろすように命じたのは、イエスだったからです。 イエスとの個人的な経験を持っていました。 そして、イエスとの個人的な出会いが彼を変えました。

私たち自身の生活の中で、皆、先に話した物語のように、時々落胆することがあります。 私たちは、それが何であれ、人間の弱さと戦っています。 しかし、私たちが神に忠実であるかどうかの本当の試練は、特に私たちの計画が思うように満たされないときに、神の御言葉に耳を傾け、寛大に守るかどうかです。 これができれば、私たちの小さなボートはたくさんの魚でいっぱいになります。

今日、沈黙のうちに、失敗と落胆の経験を考えてみましょう。主にそれらについて話しましょう。イエスがあなたに、沖へ漕ぎだすよう招いている意味は何ですか? それは神への信頼を持って、従うということでしょう。

主よ、私に「ここにおります。私を遣わしてください」と言う勇気や力を与えてください。

 

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被昇天の聖母 カトリック 垂水教会