2020年5月31日 聖霊降臨の主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年5月31日 聖霊降臨の主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】
使徒たちの宣教(使徒言行録2: 1-11)

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

【第二朗読】
使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント12:3b-7, 12-13)

 〔皆さん、〕聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

【福音書】
ヨハネによる福音(ヨハネ20:19-23)

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

【福音のメッセージ】

「一同が一つになって集まっていると」

担当司祭:林 和則

 本日は聖霊降臨の主日です。教会にとって、とても大切な日です。それは教会の誕生の日でもあるからです。聖霊がキリストを信じる人びとの中に降ることによって、教会という共同体が今日、誕生しました。
 
 典礼暦A年における本日の福音は「ヨハネによる聖霊降臨」と呼ばれているヨハネの福音書の箇所が選ばれています。復活したイエスが弟子たちに「聖霊を受けなさい(22節)」と言われながら、弟子たち一人ひとりに息を吹きかけて行かれます。これによって、弟子たち一人ひとりの中に聖霊が降ります。同時にそれは弟子たちが受けたキリストの洗礼でした。洗礼者ヨハネは次のように預言していました。
 「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる (マルコ1:8)」

 キリストの死と復活によって聖霊が降ったことによって、はじめてキリストの洗礼が可能になったのです。それによって弟子たちはキリストを生きる者、神の子の命を生きる者として新たにされました。ある意味、この弟子たちを礎として教会が始まったのですから、「ヨハネによる聖霊降臨」も教会の誕生を告げ知らせていると言えます。ただやはり、共同体というよりも個人としての聖霊降臨、すなわち「洗礼」に重点が置かれています。私たち一人ひとりも洗礼の日に個人としての「聖霊降臨」が実現していたのです。
 共同体としての聖霊降臨を物語っているのが、第一朗読の「使徒たちの宣教」の「ルカ(使徒言行録の作者ともされています)による聖霊降臨」です。
 本日の福音は4月19日の復活節第二主日の福音の前半箇所としても選ばれていて、当日の「福音のメッセージ」において触れています。(ホームページのアーカイブカテゴリー「垂水教会一般」でご覧いただけます)
本日は第一朗読の「使徒たちの宣教」から、聖霊の働きと教会について、皆さんと分かち合いたいと思います。

 まず大切なことは「一同が一つになって集まっていると(1節)」と前置きされていることです。聖霊が降るためには、一同が、共同体が「一つになって」いる必要があるということをルカは強調したかったのだと思います。逆に言えば、共同体のメンバーがそれぞれ自己中心的になって、他者を思い合うことのないような共同体では聖霊は降れない。降りたくても降れないのです。聖書の中で聖霊は次の2節にあるように、よく「風」というシンボルで表現されます。風がいくら吹いていても、一人ひとりが心を閉ざし、他者に開かれていない共同体、また外に向かって開かれていない共同体は「閉ざされた共同体」であって、窓や扉が開かれていないために、風が入って来ることのない「家」のようなものです。

 私たちの教会も、もし内にも外にも「開かれた教会」になっていなければ、降臨した聖霊という「風」は閉じ込められて、自由に吹きわたることはできません。風の流れがよどむように、聖霊の働きが活性化しないのです。
降臨の日の使徒たち、信徒たち(聖母マリアもその中にいました)は本当にひとつになっていました。それを喜ぶかのように「風」は激しく吹きわたり、使徒たち、信徒たちを包み込みました。「家中に響いた」というのは、聖霊が教会の誕生を祝って、天使たちとともに舞い踊っていたからであるかも知れません。
 「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった(3節)」
 「炎」というのも聖霊のシンボルとして、よく使われます。けれども「舌」というシンボルはめずらしい表現です。「舌」の赤い色と形状が「炎」に似ているから、ということではないと思います。次の4節で「 ““霊”が語らせるままに」とあります。聖霊は私たちに語るための「ことば」を与えてくださるということを表現しているのだと思います。彼らが語った「ことば」は「神の偉大な業(11節)」とあるように、信仰のあかしのことば、宣教のことばでした。しかも彼らは何か義務感から、また自分の意志によって語ったのではありません。聖霊に満たされた時、彼らは聖霊の力に突き動かされて、語らずにはいられなくなったのです。まるで、風に吹かれた木が大きく揺れ動くように。聖霊という風は私たちを宣教へと運んで行くのです。逆に言えば、宣教への意欲のない教会は「聖霊に満たされていない」と言えるかも知れません。

 しかも、彼らは「ほかの国々の言葉」で語ります。当時のユダヤ人はローマ帝国のあらゆる場所に居住していました。特にヨーロッパではローマ、エジプトではアレキサンドリア、近東ではシリアのアンティオキアなどの大都市に大きな居住地を持ち、金融や通商を主な生業としていて、一定の勢力を有していました。そしてユダヤ人はどこに住もうともほとんどの者は土地の宗教や文化に同化せず、ユダヤ教を守って、過越祭や降臨の日の五旬祭などのユダヤ教の大きな祭りにはエルサレムに巡礼に来ていました。そのような様々な国から来たユダヤ人たちが、それぞれが住んでいる国の言葉を聞いて、驚いたのです。

 以前から教会の伝統では聖霊降臨の奇跡として、「言葉がひとつになった」とされてきました。旧約聖書の創世記のバベルの塔の物語(11:1-9)において散らされた人類の言葉がひとつになったのだと。けれども、ここで誤解してはいけません。言葉が「ひとつ」に「統一」されたわけではないのです。「めいめいが生まれた故郷の言葉(8節)」を人びとは聞いたのです。つまり、神の言葉がさまざまな国の言葉によって語られたということです。
 「言葉」はその国の文化を体現するものです。神はけっしてそれぞれの国の文化を「単一化」しようとはされないのです。言葉=文化はそれぞれ違っていていいのです。神は「単一性」ではなく「多様性」を喜ばれます。ある国やある民族が自分たちの文化を絶対化して、それを他者に強制することを許されません。それが「バベルの塔」の物語のメッセージだったのです。
 ですから、この教会の最初の「宣教」は、神の言葉をそれぞれの国の言葉で、「文化」で語りなさいということを教会に教えているのです。現在の言葉で言えば「インカルチュレーション(文化的受肉)」です。

 そしてこれは個人個人においても言えます。それぞれが違った考え方、個性を持っていてもかまわない、キリストにおける一致は単一性への統一ではなく、多様性の一致なのです。キリストを生きるために、人それぞれが自分らしくキリストを生きていけばいい、誰も自分の信仰のあり方を他者に強制してはなりません。なぜなら、「自分」とは神さまが私たちに与えてくださった世界でたったひとつの「たまもの」だからです。
 聖霊はそのような多様性に満ちた教会に私たちを導いてくださるのです。教会の誕生の日に、それを示してくださったのです。

 今日の聖霊降臨、教会の誕生の日に改めて、今の日本の教会、そして垂水教会が聖霊の導きに従った共同体になっているのか、思いめぐらしてみましょう。

6月14日(日)からミサを再開します

2020年5月27日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

6月14日(日)からミサを再開します

♰主の平和
 21日に出されました前田大司教様の第8次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達において、同時に出された「新型コロナウイルス感染症にある教会での集まりについてのガイドライン(以下、ガイドライン)」に準拠した準備ができた小教区から5月31日(日)以降にミサを再開してもかまわない、という指示が出されました。
 この通達に基づいて、ガイドラインに準拠したミサの再開はいつから可能であるかについて、5月24日(日)に運営委員会を開催して話し合いました。そこで決定した内容を皆様にご報告いたします。

1) 主日のミサは6月14日(日)から再開します。
過密を避けるため、以下のように分散して、2地区ずつで実施します。

6月 7月 8月
8時半 舞子地区・垂水北地区 明舞北地区・明舞南地区 塩屋地区・垂水地区
10時 塩屋地区・垂水地区 舞子地区・垂水北地区 明舞北地区・明舞南地区
11時半 明舞北地区・明舞南地区 塩屋地区・垂水地区 舞子地区・垂水北地区

 この分散方式によって、各ミサの参加者を約70名と想定しています。1階席に50名、2階席に20名です。座席は一列ずつ空けて、ひとつの座席に2~3名で間を空けて座ってもらいます。家族の場合、並んで座ってもらって構いません。
 ミサが終わるたびに、地区の方がたで座席の消毒を行ってもらいます。ミサ後は不要不急の会話は避け、すぐに帰宅するようにしてください。
*ガイドライン5.⑰:ミサの後、出入り口が密にならないように間隔を開けて退堂します。信徒会館などに集まって話をしたり、飲食をともにしたりすることは避けてください。

2)平日のミサは6月16日(火)から再開します。従来通り、朝7時から、火曜日から土曜日まで行います。

3)小教区によっては5月31日からミサを再開されるところもあるでしょうが、行くのは避けてください。
どの小教区も人数設定をしていますので、想定外の人数に来られると、密集対策ができなくなってしまうからです。
*ガイドライン2.:本来信者は、ミサにあずかるためにどの教会へ行くかの自由をもっていますが、小教区の責任でミサに来る人数を調整したり、ミサの数を増やす、または減らしたりという今の状況においては、通常行っている以外の教会に行くことは避けるように信者に伝えてください。ミサに行くことを自粛せざるを得ない苦しみを、祈りとしてささげてください。

4)教会主催(委員会主催)の活動や講座、また自主的活動につきましては3密対策の実施が困難であるので、引き続き、すべてを中止といたします。
 9月に評議会を開催します。そこにおいて3か月間の取り組みを検証し、またその時の社会の状況に応じて、活動の再開が可能かどうかを判断します。

5)予定されていた行事、6月の西神父様の講演会、8月の合同キャンプ、10月の合同堅信式、バザーなど全てを中止いたします。地区の集いもありません。

6)6月14日のミサの再開以降、聖堂を日中、夕方5時まで開放いたします。聖体訪問に当たっては、マスクや消毒のための注意を忘れないようにしてください。信徒会館は引き続き、施錠いたします。

7)ミサの式次第をどのように行い、どのように感染対策を行うかについては、5月31日(日)に拡大典礼委員会を開催し、ガイドラインに準拠して、方法を考え、その後、皆さんに一斉送信でお知らせいたします。

 緊急事態宣言は解除されましたが、新型コロナウイルスが私たちの世界から死滅したわけではありません。今も強い感染力を持って存在しています。現在の感染者数の減少は、私たちみんなが春先から自粛の努力を続けてきた結果です。それを怠れば、すぐにまた感染者は増えることでしょう。
 私たちは特に、教会から一人も感染者を出さないということを目標に掲げて、努力を続けてまいりましょう。年内か来年か、まだわかりませんが、必ずこの状態は収束します。

 私たちキリスト教徒はいつになるのか全くわからない、キリストの再臨を待ち続けている民です。動じることなく、信仰をもって、希望を失うことなく、この日々を神の愛の中で生きて行きましょう。 祈りのうちに

2020年5月24日 主の昇天A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年5月24日 主の昇天A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】
使徒たちの宣教(使徒言行録1: 1-11)

 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

【第二朗読】
使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ1:17-23)

 〔皆さん、〕どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来(きた)るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

【福音書】
マタイによる福音(マタイ28:16-20)

 〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

【福音のメッセージ】

「いつもあなたがたと共にいる」

担当司祭:林 和則

 本日は「主の昇天」のお祝い日です。
 「昇天」の「天」は空間的な「空」ではありません。聖書においてはそれは神の座、神のおられるところであり、新約においては「父と子と聖霊の神の座」になります。その「座」は空の彼方にあるわけではないのです。聖書において、また典礼の祈りにおいて「高い」というのも、空間的な「高さ」ではありません。栄光の賛歌の「天のいと高きところに」の「高き」は「神聖」また「崇高」の「極み」を表現しています。聖堂内の内陣を「最後の晩さんの高間」という場合の「高間」も同じで、内陣を会衆席よりも高く置くのも、階級的な差別ではなく、最後の晩さんの記念の至高の「神聖」さを目に見えるかたちで表し、私たちの敬意を示すためです。神の座を「天」と呼ぶのも、その座が他と比較することもできないほど、至高の聖性に達していることを表現しているのです。

 では神の座はどこにあるのでしょう。キリスト教の母胎であるユダヤ教の革新的な点は、神の存在を人間の歴史、世界の中に見い出したことです。それまで古代の宗教では、神は人間とは別の世界に住むと考えられてきました。ギリシア神話の「オリュンポスの山」また日本神話の「高天が原」というように。そのため、神々は人間の世界で繰り広げられる生の営み、一人ひとりの人生、共同体としての歴史とは基本的に関わることはありませんでした。気まぐれに人間に興味を持つことはあっても、関心はありませんでした。
 それがユダヤ教において初めて、神は人間の歴史と共に歩む神であるという信仰が表明されました。そして人間にたいして関心どころではなく、熱情をもって、自らの存在と切り離すことのできないものとして、たえず関わり、人間という小さな存在を慈しんでくださる神と信じることによって、「困ったときの神頼み」といった存在ではない、人間にとって自分の全存在、全生涯に関わり、生き方を決定する存在としての「神」になったのです。
 ですから「神の座」はどこか宇宙の果てとか、天上界といった別世界にあるのではありません。人間の生の舞台である歴史のただ中にあるのです。神は人類の創造の初めからずっと、私たち人間と共にいてくださったのです。ただ、残念ながら「神」は見えない(肉体の五感では感じられない)存在なのです。
 けれども神は私たち人間に何とかしてご自分の存在を示そうとされた、旧約の歴史はまさにそのような神の人びとへの語りかけの歴史であると言えます。

 そして新約において、ついに神はご自身を究極的に人びとに示すために、「父と子と聖霊の神」から「子である神」を地上に遣わし、イエスという人間に「受肉」させることによって「見える姿」となられたのです。
 今日の「昇天」はその「受肉の神秘」に対応しています。受肉の神秘によって、父と子と聖霊の交わりが裂けて、人類の歴史の中に人となって来られた神の子が、またその神の交わりの中に帰って行かれたのが「昇天」です。
 それによって父と子と聖霊の神の座に決定的な変化が起こりました。
 キリストの昇天までは、神の子の座には子としての神そのものがおられましたが、昇天の後、そこには「人間イエス」となられた神の子がおられることになったのです。神そのものであった父と子と聖霊の神の座の中に「人間」が入ったということです。これによって、人間にすぎない私たちが「人間イエス」を通って、父と子と聖霊の神の愛の交わりの中に入って行くことが可能になったのです。
 神の子が人間となってくださり、死と復活を経て、また元の座に戻られたことは、私たちを神の愛の交わりの中に迎えるためであったと言うことができるのです。しかもそれは私たちがその恵みに値するような何かをしたからではありません。ただただ、神からの一方的な無償の愛による恵みなのです。
 「主の昇天」は、私たちを迎えるために、神の座である「天」に入り口が、「門」が開いたことのお祝いであると言えます。

 その「主の昇天」を出来事として視覚的に描いたのが、第一朗読の「使徒たちの宣教」です。
 「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった(9節)」
 「雲」というのは「出エジプト記」において神がモーセにシナイ山でご自分を顕現される時に必ず使われていて、これも「高み」と同じように神の神聖を表現するシンボリックなことばです。ですから「雲に覆われて」と言う表現は、イエスが神の座に戻り、また見えない「神」の姿になって行かれたことを視覚的に物語化しているといえます。

 本日の福音朗読に用いられている「マタイの福音」には「昇天」の出来事は書かれていません。けれどもその意味は書かれています。
 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(20節)」
 イエスはどこか、神だけの住む別の世界、天上界のような所に昇ったのではありません。人類の創造からずっとわたしたちのそばに共におられた「神の座」に昇られたのです。見えなくなっただけで、今もイエスは見えない神として、私たちのすぐそばで、いつも共にいてくださいます。
 そして17節に「疑う者もいた」とあるのは、私たちにとってはむしろ「慰め」です。イエスが「いつも共にいる」と語られた時、「疑う者」もいて、イエスはそんな彼らにたいしても「共にいる」と言ってくださったということです。立派な信仰者だけに向かって言われたのではないのです。
 私たちもしばしば「疑い」を抱き、イエスを離れ、この世的な快楽、自己中心的な生き方に走ってしまいます。けれども、そんな弱い私たちをイエスは見放すことなく、「いつも共にいる」と仰ってくださるのです。

5月末日までミサの中止と教会施設閉鎖を継続します(5月22日通達)

2020年5月22日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

5月末日までミサの中止と教会施設閉鎖を継続します

♰主の平和
 昨日21日木曜日の夜、前田大司教様から第8次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られてまいりました。

 以下に通達の全文を掲載いたします。

 ご存知の通り、出されていた緊急事態宣言は、14日に和歌山県、本日大阪府と兵庫県で解除されました。このような状況に鑑みて、以下のようにお知らせいたします。

  1. 5月31日(日)聖霊降臨のミサ(含む前晩のミサ)から公開ミサを再開とします。ただし、各小教区や施設によってそれが無理な場合は責任者が再開するかどうかを判断してください。
  2. 緊急事態宣言は解除されましたが、新型コロナウイルス感染症に対する注意は引き続き大切です。「新型コロナウイルス感染症にある教会での集まりについてのガイドライン」を以下に発表いたしますので、それぞれの事情に合わせながら、今後の教会活動のひとつの目安としてください。
  3. すでに発表した5月・6月の会議と行事の中止に関しては、変更はありません。
  4. 状況が変わった場合は、改めてお知らせいたします。

 以上の通達に基づき、5月末日までの週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を継続いたします。
 通達の1.にあります5月31日(日)以降からの公開ミサの再開については、5月24日に開催します運営員会の中で他の諸活動も含めて話し合い、責任者である私が再開の日程を判断し、後日、皆さまにお知らせいたします。
 同じく2.にあります「新型コロナウイルス感染症にある教会での集まりについてのガイドライン」は10項目にも及ぶ内容(数日中に教区のホームページhttp://www.osaka.catholic.jpで公開されます)で、主に「3密」を避けるための対策で、それらを守っての再開のためには準備期間が必要です。
 まだまだ私たちは以前の生活形態に戻ることはできないことに留意しつつ、信仰生活を送りましょう。

祈りのうちに。

2020年5月17日 復活節第6主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年5月17日 復活節第6主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】
使徒たちの宣教(使徒言行録8:5-8, 14-17)

 〔そのころ、〕フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。
 エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名によって洗礼を受けていただけで、聖霊はまだだれの上にも降(くだ)っていなかったからである。ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

【第二朗読】
使徒ペトロの手紙(一ペトロ3:15-18)

 〔愛する皆さん、〕心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方(ほう)が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方(かた)が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

【福音書】
ヨハネによる福音(ヨハネ14:15-21)

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

【福音のメッセージ】

「わたしの掟」

担当司祭:林 和則

 本日の福音はヨハネ福音書だけが書き記す、最後の晩さんにおけるイエスの「告別説教(13:31-17:26)」と呼ばれている長い教えの一部です。
 
 「わたしの掟(15節)」とは、告別説教の初めに「あなたがたに新しい掟を与える(13:34)」と前置きをしたうえでイエスが弟子たちに与えられた掟です。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)」
 ただ、「互いに愛し合いなさい」という「隣人愛」の掟は、もうすでに旧約聖書の律法の中にもありました。
 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい(レビ記19:18)」
 ではイエスの掟はどこが「新しい」のでしょうか。それは「わたしがあなたがたを愛したように」という点です。律法では「自分自身を愛するように」ですがイエスは自分が、つまり「キリストがあなたがたを愛したように」愛し合いなさいと命じられるのです。これは地が天に変わるような、大きな転換でした。「自分自身を愛するように」という愛は、きわめて人間的ないわば「地上的な愛」です。けれども「キリストのように」は、人間の思いをはるかに超えた神の思いに基づく「神の愛」すなわち「天上的な愛」なのです。
 ある意味、その愛は人間の限界を超えています。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」「七回どころか七の七十倍(無限という意味)までも赦しなさい(マタイ18:22)」などのみことば、日本円にして約4800億円(1万タラントン)もの借金をただ「憐れみ」からゼロにして返済を求めない王(マタイ18:23-35)や、自分の財産の半分を放蕩によって無駄に使い尽くした息子を抱きしめて喜ぶ父親などのたとえ話、それらの中には人間の常識や規範を越えた、非常識と言ってもよい、ありえないような「愛」が語られています。
 先週のメッセージにも書きましたように、十字架によって究極的に示された神の愛は人の思いをはるかに超えた、私たちには達することのできない「完全な愛」なのです。
 私たちはミサの奉献文の中で次のように祈ります。
 「わたしたちの教皇フランシスコ、
  わたしたちの司教トマス・アクィナス前田万葉、パウロ酒井俊弘、
 すべての教役者をはじめ、全教会を愛の完成に導いてください」
 ここにおいては、教皇、司教をはじめとして全教会の司祭、修道者、信徒の愛が「不完全」であることが前提となっています。教皇や司教であってもやはり「人間」である限り、愛において「不完全」なのです。それゆえ、お互いに祈り合うのです。けれども先週、皆さんと分かち合いましたように、私たちは教皇、司教もふくめて「完全な愛」に達することはできないのです。
 
 だとしたら、イエスは達成不可能な掟を私たちに命じたのでしょうか。また所詮、不可能であれば、完成を祈ったところで無駄ではないのでしょうか。
 けれども父なる神も、子であるイエスもそれをご存じなのです。ですから神は私たちに「完成」を求めてはいません。それに向かって「歩む」こと、「努力」することを求めておられるのです。ですから、何度失敗してもいい、何度つまずいてもいい、何度道から外れてもいい、泥まみれになりながらも、必死に神の愛に、キリストの愛に向かって歩み続ける、その「歩み」を神は受けとめてくださるのです。だからこそ「旅する神の民」なのです。私たちは個人としても教会としても生きている限り、この世にある限り、「完全」にはなれません。ただ、キリストの愛に向かって、「神の国」に向かって歩みつづけるだけです。
 奉献文にあっても「導いてください」であって「到達させてください」ではありません。私たちが正しい「方向」に向かって歩めるように「導いてください」と祈るのです。
 むしろ不完全であるのに自分を「完全」だとするのは傲慢であり欺瞞です。そのような人は自らの力に頼り、神の憐れみを求めようとせず、神のゆるし、いつくしみを体験することができません。

 その歩みにおいて大切なことは、「命じられた」から、「義務」だからではない、ということです。それでは喜びがありません。裁きを恐れて、罰を恐れて、いつも不安の中で歩むことになってしまいます。
 イエスは「私を愛しているならば、わたしの掟を守る(15節)」と言われます。義務でも裁かれることへの恐れからでもありません。「イエスを愛している」からなのです。そのためにはまず、イエスが私たちを愛していることを感じることが必要です。いえ、「感じる」では足りません。イエスの海のような、大空のような広大無辺の愛に飲み込まれることです。十字架によって示された、己のすべてを与え尽くす愛、私のために自らの命さえも投げ打ってくださった愛、それを全身全霊でもって受け止めることです。そうすれば、その愛にこたえないではいられません。どうにかして、感謝を表したいと居ても立ってもいられなくなるはずです。イエスが最後の晩さんのこの上ない愛の中から発せられた「掟」を喜んで守りたくなるはずです。
 それを知っておられるから、イエスは言われます。
 「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である(21節)」
 イエスの「掟」は指導者と従う者、支配者と支配される者といった上下関係や支配を維持するための道具ではありません。愛する者、愛される者の愛の関係から紡ぎ出された「絆」です。父である神、子である神キリストが、私たちをご自分に結びつけ、ひとつにされようとして、この「掟」を与えてくださったのです。
 「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいる(20節)」

2020年5月10日 復活節第5主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年5月10日 復活節第5主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】使徒たちの宣教(使徒言行録6:1-7)

 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

【第二朗読】使徒ペトロの手紙(一ペトロ2:4-9)

 〔愛する皆さん、〕主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。
 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
 「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
のであり、また
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

【福音書】ヨハネによる福音(ヨハネ14:1-12)

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

【福音のメッセージ】

「あなたがたをわたしのもとに迎える」

担当司祭:林 和則

 本日の福音は葬儀ミサの福音朗読によく用いられている箇所です。カトリック中央協議会から出されている葬儀の儀式書では、この他にもいくつかの福音がふさわしい朗読箇所としてあげられていますが、私自身は必ず今日の福音を用います。信徒の方がたのみならず、葬儀のために参列された一般の方がたのためにも、今日の箇所はキリスト教が「死」をどのように考えているのかを説明しやすいからです。それで今回は聖書本文の解釈よりも、私たちキリスト者は「死」をどのように考えればよいのかを主体にして、皆さんと今日の福音を分かち合いたいと思います。

 キリスト教の信仰の文脈の中で「死」を考える時、ひとつの大切なポイントは「私たちは死ねばすぐに『天国』に行くことができる」という確信です。字数にも限りがありますので、今回はこの点にしぼって分かち合いたいと思います。

 けれどもこのように断言されると、多くの方がたは何か釈然としない、疑うというよりも、モノを食べる時に何かが喉につかえる、そんな感じがするのではないでしょうか。実は私自身がそうでした。私は二十歳の時に受洗し、それまではキリスト教的な文脈のない生活空間の中で育ちました。そのような私にとって「天国」また「極楽」はそう簡単には行けない世界であるような、「知識」というよりも「感覚」を身につけていました。
 その感覚の根っこにあるものは私たち人間の罪深さです。仏教で「業」と呼ばれているものでしょうか。その「罪深さ」をもっとも深く自覚しているのは自分自身です。人には見せられない、自分の中に渦巻くドロドロとした、憎悪や妬みなどの負の情念にどっぷり浸かっている自分がいるからです。そんな自分が死後に、すぐに、そんなに簡単に「天国」に行くことができるのか?これは誰もが抱く思いでしょう。
 
 実はそれは、私たちが「自分の力」で「天国」に行くということを前提としているから生じる「迷い」なのです。私たちは誰も「自分の力」で「天国」に行くことはできません。誰もどんなに努力しても「天国」に入るのにふさわしい「資格」を得ることはできません。
なぜなら私たちは皆、「不完全」であるからです。それは何かの「能力」「実績」という意味での「不完全」ではありません。キリスト教においては「愛すること」における「不完全」です。私たちにとって、父なる神が与えてくださった完全な愛のしるしこそがキリストの十字架です。十字架においてイエスは完全に自分を捧げ尽くされました。完全な愛とは自分をまったく無にして、相手に自分を捧げることであると思います。自分ではない、相手を中心に据えて生きることです。
 けれども私たちは人を愛する場合、どうしても「自分のために」というところがあって、その愛に「欠け」が生じてしまうのです。それは相手に「求める」というかたちであらわれます。それが満たされないがゆえに人間関係のトラブルが生じてしまうとも言えるでしょう。そのためにどんなに仲のよい間柄であっても、時に傷つけ合ってしまうのです。
 そんな私たちは完全な愛に向かって「努力」することはできても「完成」に達することはできないのです。「天国」に入れるような「資格」を自分の力では、けっして得ることができないのです。

 では、私たちが「天国」にすぐに行けるという確信はどこから来るのでしょうか?それがまさに今日の福音のイエスのことば、私たちへの約束に基づいているのです。
 「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える(3節)」
 「場所」これが「天国」です。私たちは自分の力で、自分の足で、「天国」に行くのではありません。私たちが死ねば、すぐにイエスが迎えに来てくださって、私たちの魂を御手に抱いてくださって「天国」へと連れて行ってくださる、これこそが私たちの確信なのです。それは、私たちに「資格」があるからではありません。なぜかはわかりません。神秘と言ってよいのですが、父なる神が、子であるキリスト・イエスが私たちを愛してくださっている、ただそれだけなのです。

 その愛は「かわいそうだから、救ってやろうか」といった「上から目線」のようなものではありません。ただただ、私たちが愛おしい、だから私たちと共にいたい、からなのです。子どもをお持ちの方であれば、もしその子が家を離れて、ひとりぼっちでどこかをさまよっているとしたら、放っておくことができるでしょうか?思わず走って行って、わが子を抱きしめ、家に連れ帰ることでしょう。
(ぜひ、ルカによる福音書の15章11―32節の「放蕩息子のたとえ」をお読みください)
 「こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる(3節)」
 ここには神がわたしたちと共にいたいという切実なまでの「願い」がこめられているのです。
 私たちはつい何かを得るために「資格」のようなものが必要だと考えてしまいます。合理的に「計算」してしまうのです。これだけのお金もしくは能力がなければ、これを得ることができないというように。けれども神の愛はそのような合理性、足し算、引き算の世界ではないのです。神は私たちを愛するにあたって、私たちに何も求めません。それが「無償の愛」です。
 「天が地を高く超えているように 
  私の道は、あなたたちの道を
  わたしの思いは
  あなたたちの思いを、高く超えている(イザヤ55:9)」
 神の愛を、人間的な考え、合理性の枠の中に押し込めようとするのは、神にたいして失礼、まさに「冒とく」と言えるようなものでしょう。

 私たちが毎週ミサに与ったり、祈ったり、善行をしたりするのは、「天国」に「行きたい」からではありません。私たちが母の胎に宿った時から、もうすでに「天国」は「約束」されているのです。その私たちの理解をはるかに超える愛、その恵みに感謝して、それに「こたえる」ために、私たちはミサに与り、祈り、キリストの隣人愛にならおうとするのです。

 私たちの「天国」は神の「いる所(3節)」すなわち「父と子と聖霊の神の座」、「三位一体の神の愛の交わり」です。私たちはその愛の中に、死ねばすぐ、イエスに抱かれて、連れて行ってもらえることができるのです。

 ですから私たちは亡くなる時、こう宣言して、自らの信仰を人びとにあかししましょう。
 「私は天国に行きます。神が私を待っていてくださるからです。私を愛してくださっているからです」

被昇天の聖母 カトリック 垂水教会