2025年6月22日 キリストの聖体(C年)のミサ 説教の要約

初 聖 体《 キリストの聖体 》

愛する子供たち、

おめでとうございます!あなたたちは皆、白い服が似合います。綺麗で、ハンサムです。  笑顔で喜んでいると思います。そして、あなたたちの両親、兄弟姉妹、親戚、そして教区共同体も同じように喜んでいます。

初聖体の子供たちにとっても、その家族にとっても、小教区の皆さんにとっても、今日は特別で、とても思い出に残る日です。ほら、いく人かの親戚がわざわざここに来て、あなたたちを誇りに思っています。 この日を特別で思い出深いものにするために、家族は写真を撮るために、カメラを持ってきました。この特別な日を写真に収めたいと考えています。 小教区のリーダたちは、あなたたちのためにカード、贈り物、花を用意しました。仲間の子供たちが力いっぱい典礼・ミサを準備しました。 確かに、あなたたちはこの日を楽しみにしているでしょう。なぜ今日、私たちは皆喜んでいるのか、そして、この日を特別で思い出深いものにするために、私たちは何を祝うかということが、私の質問です。

「私の人生で最も重要で記憶に残る日は、初聖体の日でした。」と偉大なナポレオン・ボナパルト、フランス皇帝であり偉大な戦士は言いました。先週の日曜日、講話の時に、 私の初聖体の時に撮った写真を見せました。私がどこに行っても、それを持っていくとことを覚えていると思います。その写真は、私が生まれて初めてイエスを受け入れた日を思い出させます。 だからこそ、この日は感謝と喜びの日であるべきです。

なぜ今日が、あなたたちの人生で最も喜びの日なのですか? 今日、キリストの聖体の祭日を荘厳に祝います。この祭日に、イエスの受難、死、復活を記念します。 言い換えれば、私たちが永遠の命を得るために、イエスが全ての人のために何をなさってくださったか、つまり、私たちに命を与えたことだと私たちは聖体を記念します。 この感謝の祭儀の中で、一般のパンの形で、あなたたちは初めて、キリストの聖体をいただきます。 あなたたちが食べるのは主です。 私はあなたに私の真の体、真の血を与えるとイエスは言われています。

それでは、愛する子供たちよ、ミサにあずかるたびに、イエスの聖体をいただくことができるように、清くて綺麗な心を保ちなさい。

両親、親戚、小教区の皆さん、この初聖体のために、これらの子供たちを準備してくださったことに感謝します。 今、子供たちの心の中にはイエスがいます。 特に日曜日には、いつも子供たちを教会に連れて来るようにお願いしています。 彼らと共に祈ってください。彼らに、イエスの真の弟子になるとはどういうことかを示してください。 あなたがたが本当に、子供たちに自分の信仰を自分のものにすることを望むなら、彼らが恐れることなく信仰を実践できるクリスチャンの環境を彼らに与えてください。 子供たちは、他の家族も信仰を実践しているのを見ると、自分の信仰を自分のものにする可能性が高くなります。 子供たちは、信仰が自分の家以外の場所でも生きていることを理解する必要があります。

私はこの説教をこの言葉で終わりたいと思います。 聖体は食事であり、主の準備された宴会です。 食卓は希少性ではなく、豊かさの食卓です。 排他性ではなく、おもてなしです。 冷たくなく、温かさに満ちています。 この聖体が私たちの愛と交わりへの願いを満たしますように。 そして、この聖体が、イエスがなさったこと、つまり、他人のために、ご自分を捧げることと全く同じことをすることによって、彼を記念するように求められていることを私たちに思い出させてくれますように。

 

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2025年6月15日 三位一体の主日(C年)のミサ 説教の要約

《 父である神 》
三位一体の主日C

先週の日曜日に、聖霊について説教しました。来週、キリストの聖体を荘厳に記念します。今日は三位一体の祭日です。そして、父の日でもあります。この機会を用いて、父についてお話します。私たちの神は私たちの御父です。

数年前、ある父と息子が一緒にお風呂に入る漫画を見ましたが、きっと、彼らは温泉に入っていたのでしょう。 その漫画は、父親が息子の背中をこすり、息子が大笑いしているところでした。 これは日本では普通ですが、私の国ではそうではありません。この漫画は私にとって面白くて良いものでした。父と息子の関係を伝えています。

それは私にライオンキングという映画とミュージカルを思い出させました。 皆さんの中で、すでに映画やミュージカルを観た方がいるかもしれません。 映画には心温まるシーンがあり、シンバにとって父親ムファサがどのようなものかを知ることができます。 ムファサは息子と話したり、一緒に遊んだりして時間を過ごしました。ある日、 ムファサはシンバを散歩に連れて行き、息子に世界を見せました。 歩きながら、ムファサは辛抱強く、生命の輪について説明しました。生命の輪とは、人生では、人は産み、人は去っていきます。 子どもは成長し、目上の人から責任を引き受け、最後に死ぬということです。 それが人生の真実です。言い換えれば、責任ある父親は子どもと一緒に歩き、言葉と行いで責任、コミットメント、権威・力、関係という言葉の意味を説明し、バトンタッチします。大事なのはと共に歩むということです。

旧約聖書では、いくつかの書は神を摂理者として、子どもを導き、指導し、子どもたちが成長し成熟するために必要なものを彼らに与える神について語っています。御父として、神は 導き手であり、保護者です。

出エジプト記には、モーセの召命が書かれています。あなたの名前は何ですかというモーセの質問に応じて、「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 と神は言われました。

私はあなたと共に歩んで、 あなたと一緒に旅をしてきた神です。 あなたから立ち去りません。 あなたに忠実です。 私の民ですから、それで、あなたのことをよく知っています。あなたがたの先祖と約束をしました。 その名前の意味は、とても個性的な神だということです。要するに、神はご自分の子どもたちの近くにいます。

もちろん、私たちが神を父として理解することも、イエスから学んでいます。 アッバ、つまり父という意味で、呼びかけたように、イエスは弟子たちに、神を父と呼ぶように教えました。 イエスは何回も父である神の豊かな祝福と寛大さをたたえ、感謝しました。信頼と自信を持って弟子たちに御父に自分たちの願いをするように勧めました。

兄弟姉妹の皆さん、神は私たちの父であると今日の祭日は私たちに話しています。人間の父との経験のために、私たちの中には神を父と呼ぶのが難しい人もいるかもしれません。 若者が父親とは何かについてちょっと歪んだ考えを持って育つことを私は知っています。 また、現代社会生活のせいで、多くの父親が家族と離れて、職場で多くの時間を過ごしています。 さらに、家族の関係に対する戦いがいつもあります。 父親の権威は減少しているように見えますが、仲間の権威は増加しています。それは本当に残念です。

兄弟姉妹の皆さん、人間の父との経験が何であれ、神の子どもとしての私たちの尊厳は決してかわりません。神は私たちを愛されて、その愛の代わりはありません。そして、私たちは皆、キリストによって神の子どもであるので、それは私たち全員が兄弟姉妹であることを意味します。 キリストによって、私たちは皆、アッバ、父よ、と言うことができます。

ミサの中で、私たちの人間の父のために、祈りましょう。彼らは私たちの与え主であり、保護者です。 ですから、彼らに感謝し、愛しましょう。

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2025年6月8日 聖霊降臨の主日(C年)のミサ 説教の要約

《 一致の霊 》

聖霊降臨の主日 C

 

今日、聖霊降臨祭を荘厳に祝います。それがどのように起こったかを聖ルカは説明しています。「弟子たちは皆、マリアと一緒に部屋の中にいました。激しい風が吹いて来ました。そして、炎のような舌が分かれ分かれにあらわれ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と。

聖霊降臨の主日は、私たちの生活に聖霊の重要性を思い出させてくれます。 私たちの生活や教区共同体における聖霊の役割は何でしょうか? イエスは聖霊について長く話され、そして、それが私たちの聖霊についての知職の源です。

御父の元に戻られる前に、祈りによって、イエスは心の願いを伝えました。「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。」要するに、イエスが約束された聖霊が私たちの一致の源です。

混乱し、分断された社会に生き、一致に至るのは何と難しいことでしょう。これを探し求め、なかなか満足しません。共同体を築いていますが、家族、教会、学校、職場について不平をよく言っています。 それはなぜでしょうか?

壊滅的な津波の後、日本国民への手紙の中で、前天皇は次のように述べています, 「人々が手をあわせて、思いやりを持って、互いに親切にし合い、この困難な時を乗り越えてくれることを心から願っています」と、人々の絆を望みました。どのようにして一致を得るのか?

聖書朗読を見てみましょう。聖霊降臨の時、神は奇跡をなさいました。お互いを理解できるようにすることで、色々な場所から人々を集められました。ここでは、 分裂ではなく交わりを持つという神のみ旨がはっきりとわかります。 聖霊降臨という出来事は、聖霊がさまざまな人々やコミュニティを通して、働くことを決して止めないことを私たちに思い出させます。 聖霊は、使徒たちのように、一般の人々を用いて、私たちに神の愛のメッセージを伝えることができます。 聖霊は、単純なジェスチャー、つまり、親切な言葉、献身的な奉仕、心のこもったタッチによって、私たちの中でも働くことができます。 私たちの行いによって、人々は神の愛のメッセージを聴くことが出来ます。私たち がしなければならないことは、ただ、聖霊に心を開くことなのです。

コリントの信徒への手紙によると、異なっていても、私たちは同じ洗礼を受けます。それによって、聖霊 を受けました。聖霊は私たちに与えられた多くの賜物を分かち合い、弱い人々を強め、困っている人々を助けるように呼びかけています。 賜物を分かち合い通して、一致が築かれるということです。

使徒たちにあらわれ、復活されたイエスは言われました。「あなたがたに平和があるように。」 平和はイエスの贈り物です。そして、 彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」。 そう言ってから、彼らを派遣されました。それは赦しと平和について説く宣教師になることです。

兄弟姉妹の皆さん、赦しなしでは、一致はあり得ないことを理解しましょう。平和は 一致の実りです。和解した人々は、一致の中で生きています。彼らは平和という雰囲気を感じています。聖霊に満たされた人々は赦しを実践し、一致します。彼らには平和があります。

兄弟姉妹の皆さん、聖霊降臨はただ、歴史の劇的な出来事だけでなく、戦争と憎しみによって混乱された世界に一致をもたらすことができるように、私たちが遣わされ、賜物に満たされるということでもあります。

聖霊に心を開き、賜物を受け取るためだけでなく、互いに心を開いて、私たちが一致を経験できるようにしましょう。

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2025年6月1日 主の昇天(C年)のミサ 説教の要約

《宣教としての主の昇天》

昇天の祭日2025

 

日曜日のミサに与るたびに、信徒信条を唱え、「三日目に、死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座につき。」という信仰を伝えます。

イエスは天の国に戻り、今は父である神と共にいます。 これが、主、イエスの昇天という今日の私たちが祝う真理です。

主の昇天に関しては、第一朗読は、単に「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と述べています。 エペソ人への手紙によると、イエスが神の「天の右の座」にいるということです。 ルカ福音著者はこのように書きました。イエスが「天に上げられた」と。聖書朗読には同じテーマがあります。イエスが上げられるということです。

イエスは、昇天前に使徒たちに別れの挨拶をするとき、次の言葉を話しました。 「私が去って行くのは、あなた方のためになる。」 「あなたがたは悲しむが、悲しみは喜びに変わる。」 「私にすがりつくのはよしなさい。ガリラヤに行きなさい。そこで会おう。」と。

「私が去って行くのは、あなた方のためになる。」というイエスの言葉をどのように理解するのか? イエスの去って行くことがどうして喜ばれるのでしょうか? 大切な人が亡くなったからといって、あなたは喜びますか? イエスが御父のもとに戻ったという観点から、昇天の意味を理解しようと試みてみましょう。

私たちが毎日それを経験しているのに、これは説明するのが難しいことです。経験を分かち合わせてください: 三人の息子を持つ友達がいます。子供たちが大学を卒業した後、2人は海外で働くことを決めました。 結婚後、長男は自分の家族を築き育むために家を出ました。 今、彼らは世話をする子供がいなくなったので、その家はまるで、空っぽの巣のようだと感じました。 辛い別れを体験しました。これは本当に簡単なことではありません。

 

「時間とともに、すべてのものを癒す」と多くの人はよく言います。 時間が経つにつれて、友達の孤独と痛みはなくなりました。 彼らは、子供たちが本当に成長し、自分で決断しなければならないという真実を受け入れました。 つまり、結婚や家を出ることなど。それは現実です。子供がいないので、友人たちは新しい道を切り開きました。 今、献身的に自分たちの小教区の奉仕をしています。 小さな畑を耕し、さまざまな種類の野菜を植えます。子供たちの 不在は彼らに新たな目的と使命を与えました。 それによって、成熟したのです。本当に、悲しみは喜びに変わりました。

きっとあなたがたも同じ経験をしていると思います。 別れ、去ることは辛いけれども、人生の一部です。 取り残された人々は、その経験の中に贈り物を見つけるでしょう。 イエスの昇天は、使徒たちの人生に変化をもたらしました。 彼らは町にとどまり、約束の実現を待ちました。 町にいる間、使徒たちはイエスの言葉と行いについて考える機会がありました。 それによって、貧しい人々や力ある人々に奉仕したイエスについての彼らの知恵は深まり、彼らはイエスが託した使命を果たすための新たな力と目的を見つけました。「あなたがたは、これらのことの証人となる。」とイエスは言われました 。使徒たちはイエスの名によってエルサレムから宣教するために出かけました。

イエスの昇天を祝うことは、私たちの使命、責任を思い出すことです。その使命は言葉と行いによって愛を説く人となることです。

兄弟姉妹の皆さん、 「教会の今の現状に満足しており、これまでやってきたことをそのまま続けていきたいでしょうか。」 信頼性の高い活動が沢山あります。もう慣れました。 あなたがたにとってはそれで十分ですか?そのままでいいと思っていますか? どのようにして次の世代、特に皆さんの子供たちや若者、そしてキリストを知らない人々に信仰を伝えればよいのでしょうか。

主イエスよ、私たちが希望のうちに生き、あなたの愛のメッセージを他の人と喜びを持って分かち合えるように助けてください。その恵みを与えてください。

 

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6月のミサ予定

《6月ミサ予定》 主日10:00〜
June Mass Schedule Lord’s day am10:00〜 (Japanese)

 

6月1日(日)
主の昇天 Fr. アマド
Ascention of the lord Fr. Amado

6月8日(日)
聖霊降臨の主日 Fr. アマド
Pentecost Sunday Fr. Amado

6月15日(日)
三位一体の主日 Fr. アマド
Solemnity of the Most Hory Trinity Fr. Amado

6月22日(日)
キリストの聖体 Fr. アマド
子どもとともに捧げるミサ
Solemnity of the Most Hory Body and Blood of Christ  Fr.Amado
children’s mass

6月24日(火) 10:00〜
洗礼者聖ヨハネの誕生 Fr.アマド
Feast day of St. John the Baptist Fr.Amado

6月27日(金) 10:00〜
イエスのみ心 Fr.アマド
Sacred Heart of Jesus Fr.アマド

6月29日(日)
聖ペトロ 聖パウロ使徒 Fr.高橋
St.Peter St.Paul Fr.Takahashi

 

2025年5月11日 復活節第4主日(C年)のミサ 説教の要約

《 新教皇 》

4th Easter C

2025.5.11ミサ説教

「偶然はなく、神の御摂理だけだ!」と、よく言われています。 神はこの世のすべてを治めると信仰はこのように言っています。

先週の日曜日、 あなた方に、主のご自身の心に倣った新教皇を私たちに送ってくださるよう主に願い、そして、先週の金曜日に、神が私たちの願いを叶えてくださいました。皆さんが知っているように、教皇レオ14世は私たちの新しい教皇です。 彼が教皇職を始めるにあたり、彼の健康と使命のために祈ります。

新教皇の教会でのリーダーシップは、私たちに神の群れの羊飼いについて考えるように招いています。皆さんが気がついたかどうかはわかりませんが、過去2回の日曜日の聖書朗読は教会で起こっていることによく合っています。神は私たちに、現在の出来事について沈黙のうちに考える機会を与えてくださって、それを聖書と言う神のみ言葉の点から見ます。

パウロとバルナバは大胆さと勇気を持って、異邦人に神の言葉を宣言しました。彼らは私たちに良いニュースを告げ知らせることの重要性を示して、それから、使命は神からいただいた働きだと強く伝えます。「あなた方はそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人に行く。主は私たちにこう命じておられるからです。」と。使徒たちの宣教活動によって、信仰が広がって、異邦人がイエスによる救いということがわかるようになりました。

言い換えれば、私たちが外に出て、福音を告げ知らせることに力を入れないなら、信徒の数は増加しないし、新しいメンバーも来ないし、教会は活気に満ちないでしょう。 間違いなく、これが私たちの垂水教会の夢ではないでしょう。

イエスは良い羊飼いだということを福音は強調しています。「私の羊は私の声を聴き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、誰も彼らを私の手から奪うことはできない。」とイエスは言われました。 羊飼いの声は羊を青草の原と憩いの水に導き、羊を休ませています。羊にはいつも羊飼いの手があります。 この言葉を私たちの点から考えると、イエスの声、ご自分の御言葉が、私たちを永遠の命と真の平和へと導きます。

兄弟姉妹の皆さん、今の時代の状況では、教会の存続のためだけでなく、より重要なことに、真の平和が支配するために、イエスの言葉を告げ知らせることが緊急に求められています。 現在の社会は、テクノロジー、お金、権力、成功、喜びなどの安心感を好みます。その結果、私たちによって、福音を宣言するのが難しいし、なかなかその証人になりません。 しかし、だからこそ、イエスの御言葉を宣べ伝える必要があるのです。 ききなれない声には従うことが出来ません。

この世は私たちに託された世界で、 私たちが聞いた御言葉を話す必要がある場所です。 私たちは聞いた言葉を説くことしかできません。 そして、それは他の人々にも当てはまります。

この時点で、わたしたちの地上の良き羊飼いとして行動する 人のことを話したいと思います。 この人は私たちに命を与えてくれます。 私たちに与えられる寛大で思いやりのある奉仕は、命を与えるものです。 その声は私たちにとって力や慰めです。 私たちとこの人との間には、親密な関係があり、それは決して終わることはありません。 そして、今日、私たちは感謝の気持ちを持って、私たちのかけがえのない人、私たちの母を祝います。 お母さん、ありがとう。

私たちが新教皇のために祈りながら、また、私たちの母、私たちの地上の良き羊飼いのためにも祈ります。

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【子ども会】綿花の栽培とエッグハント

2025年度子ども会が始まりました。

お祈りから始まり、新しいお友達を迎え、自己紹介をしました。

ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳協議会(AIC)の活動の一貫として綿花の栽培について教えていただき、種もわけていただきました。

ぜひ、各家庭で育ててみたいと思います。

 

続いては毎年恒例エッグハントです。

中高生にタマゴを隠してもらいみんなで探しました。

それぞれ景品ももらい楽しい1日でしたね。

今年度も充実した子ども会が行えるよう頑張っていきたいと思います。

5月のミサ予定

《5月ミサ予定》 主日10:00〜
May Mass Schedule Lord’s day 10:00〜 (Japanese)

5月4日(日) 復活節第3主日 Fr. アマド
3rd Sunday of Easter Fr. Amado

5月11日(日) 復活節第4主日 Fr. アマド
4th Sunday of Easter Fr. Amado

5月18日(日) 復活節第5主日 Fr. アマド
5th Sunday of Easter Fr. Amado

5月25日(日) 復活節第6主日 Fr. 中川
子どもとともに捧げるミサ
6th Sunday of Easter Fr.Nakagawa
children’s mass

教皇様追悼ミサのご案内

〈 教皇様追悼ミサのご案内 〉

教皇フランシスコのご帰天に際して、垂水教会では、4月22日(火)〜4月25日(金) 7時30分からの朝ミサ において、追悼ミサをお捧げします。

また、4月29日(火)15時から、大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂にて、前田万葉大司教・酒井俊弘司教の共同司式による、教区 追悼ミサが行われます。

司教座聖堂(玉造教会)では、教皇の永遠の安息のためにお祈りできる場を設けています。
23日から29日まで、どなたでも献花・記帳いただけます。

パウロの部屋(時間:8時から20時)記帳台・献花台

詳しくは大阪高松大司教区HPをご覧ください。
教皇フランシスコの永遠の安息をお祈りいたします

2025年4月20日 復活の主日のミサ 説教の要約

《 主が取り去られた 》

Easter Sunday 2025

 

あなたはおそらく、自分に近い人を失うことの感情や影響をよく知っています。もし、そうではないなら、それは、マグダラのマリアの経験から学ぶことができると思います。

マグダラのマリアは弟子たちに知らせました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」と。マグダラのマリアの言葉で、イエスがいらっしゃらないような状況に入るように彼女は私たちを招いています 。マグダラのマリアはイエスを愛していました。マグダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを見て、空っぽの墓、つまり、イエスがいなかったことをみて、そして、すぐに、誰かがイエスの遺体を盗みに来たと思ったので、大変困っていたとヨハネははっきり言いませんでした。

もし神がそこにいなければ、混乱が起こります。悲しみます。心細くなります。絶望に陥ります。重い暗闇がすべてを覆うと彼女の経験は明らかに私たちに言っています。

弟子たちが墓の中で何を見たのかをヨハネは私たちに話しました。 マグダラのマリアは取りのけた石や空の墓を見ました。 すなわち、墓の中にはイエスがいませんでした。ペトロとイエスが愛しておられた弟子であるヨハネは置いてあった亜麻布を見ました。彼らのすべての見たものはイエスが復活されたという真実につながっています。そこには復活のしるしが沢山ありました。けれども、残念なことに、彼らはそれを理解することができませんでした。「聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と 言い換えれば、イエスとご自身の言葉を理解することによって、希望が出てくるのです。

数年前、母が静かにこの世を去って行きました。 彼女は糖尿病でした。 彼女は電話で私に言いました。 「私は死を恐れていません。 あなたとあなたの姉はもう大丈夫だと思います。 孫たちは大学を卒業して、仕事をもしています。 だから、大丈夫です。」と。 母はすべての兄弟姉妹とお別れの挨拶をした後、亡くなりました。 私たちの中に新たな希望が生まれました。 彼女のわずかな言葉で十分です。 何も失われていないことはわかっていました。 もちろん、母親のように最愛の人の死を受け入れるのは簡単なことではありませんでした。母はかけがえのない人です。言葉はよく聞き、理解する必要があります。 身近な人が 亡くなると、私たちは苦しみます。 私たちは、その人が地上で何をしたのかを思い出したほうがいいと思います。それは私たちの助けになると思います。

イエスはどんな方でしょうか? 地上で何をしましたか? 何と言いましたか。 福音によると、彼らが理解していなかったということです。 これが弟子たちの問題です。 私たちはイエスを知っていますし、彼が私たちのために何をしてくださったかも知っています。 彼の言葉と人生を振り返ることは、きっと私たちに希望をもたらすでしょう。 彼の言葉と行動は私たちの希望です。

兄弟姉妹の皆さん、希望は贈り物であり、同時に責任です。ひとたび祈りをやめると、希望を捨ててしまいます。ひとたび神の存在のしるしを見て、理解できないと、私たちは大変なことになります。ひとたび私たちの教会に人を連れてこないと、私たちは教会の終わりを見るでしょう。 きっと、あなた方はそれを望まないだろうと気づかせてください。では、 これからもイエスを囲んで集まり続けましょう。

 

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被昇天の聖母 カトリック 垂水教会