2025年8月10日 年間第19主日(C年)のミサ 説教の要約

《 恐れと信仰 》

19th Sunday C
2025.8.10ミサ説教

恐怖は聖書によく出てくるテーマです。その重要性は旧約聖書と新約聖書の両方で見られ、預言者や祭司、犠牲者や抑圧者、弟子、否定者、疑いを抱く人々によっていつも語られています。天使は、マリアとヨセフのような特定の選ばれた人々に挨拶するために、それを使用しました。

数日前にロシアで大地震が起きたとき、日本当局は高さ3メートルの津波が発生する可能性があるため、直ぐに市民に高台に行くよう警告しました。 アメリカに住む叔母は、生放送のニュースで津波の警告を聞いた後、怖がって私に何回も電話をかけて、私に通じなかったので、妹に電話をかけ、後に津波のことを話してくれました。姉に「大丈夫だよ。恐れることはない」と言いました。このようなニュースを聞くと、いつも恐怖を感じます。地震に慣れている人々でもそうでしょう。

私たちは皆、それぞれ恐怖を持っています。 私たちは孤独、見捨てられること、拒絶されること、皆の前で話すこと、病気、死ぬことを恐れています。貪欲や嫉妬のように、恐れは破壊的な感情です。 認識された危険があるので、私たちに不快や不安を抱かせます。もしも、恐れが大きいなら、私たちは活動をしないし、何もできないと感じます。しかし、私たちには 少しの恐れが要ります。 立ち止まって準備をさせてくれます。

多くの人々によると、恐れはキリスト的使徒職の敵だということです。イエス・キリストの口から絶え間なく出てくる言葉の一つは「恐れることはない」です。本日の聖書福音では、イエスは弟子たちに言われました。「恐れるな。」と。神の国は彼らのものなので、喜ぶように促しました。「あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」と。弟子たちは神の国に属しているので、信仰によって生き、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない、富に心を置かなければなりません。

兄弟姉妹の皆さん、恐れがこの不安な世界に、人間の生活にも、常に、そしてこれからもあります。 確かに、私たちが答えなければならないのは、次の津波や台風、地震がいつ来るのか、商品の物価の上昇がいつ止まるのかということではなく、恐怖に包まれた時にどうすればいいかということだろう。

ベトナムの有名な人であるニャット・ハンさんは次のように述べています。「恐怖の時には、熟考することを身につけ、そして、それをする必要があります。私たちは恐怖や不安の動きに注意を払いながら、自分の心の深い望み?を思い出し、それに調和をもたらす必要があります。」と。熟考することは祈りです。 祈りを通して、私たちは重荷から解放することが出来ることに気づきます。それから、自分の平和と強さを見つけるでしょう。

だが、第二朗読は、私たちに信仰を持ち、アブラハムの模範に倣うように促します。 主がご自分に従うように頼まれたとき、アブラハムは主への完全な信頼を示しました。 彼は自分の故郷から離れ、約束された息子を待ち、その後、息子を神に捧げました。 要するに、アブラハムは計画がはっきりしないにもかかわらず、ただ従ったのです。

信仰によって生きるということは、明確な計画を持ち、安全な地面を踏み、途中で危険に向き合わないという意味ではありません。 それは神の民に対する約束ではありません。神の唯一の約束は、私が終わりの日まであなたがたとともにいて、私の名はインマヌエルで、神は私たちとともにおられるという意味です。 それが信仰の本当の意味であり、神は私たちとともにおられるということです。 信仰は、神が私たちを暗闇の中に一人残さないという希望に根ざしているべきです。神は私たちと共に歩み、途中で、私たちに力をくださいます。

兄弟姉妹の皆さん、神は私たちの恐れを取り除くのではなく、その中を私たちとともに歩んでくださるのです。 恐怖の中で、私たちは時々神のおられることを感じませんが、静かに神は私たちとともにおられ、見守ってくださいます。 神が私たちに恐怖に向き合うのに、十分な力を与えてくださると信じましょう。 この不安な世界に生きる人々として、私たちは恐怖ではなく希望に根ざさなければなりません。

 

Download (PDF, 126KB)

2025年8月3日 年間第18主日(C年)のミサ 説教の要約

《 貪欲に注意 》

18th Sunday C
2025.8.3ミサ説教

フィリピンの大学の卒業式に 招待されたゲストスピーカーは、卒業生たちにこう言いました。 「もしも、お金があなたがたの唯一かつ永続的な目的であるなら、あなたがたは人間になろうとする必要はありません。あなたがたが知っているように、富を手に入れる最も簡単な方法は、近道をし、権力者と協力し、他の人を搾取することです。」

お金が多ければ多いほど幸せになるという話がありますが、 多くの人がそれを信じて、それによって、生きています。そのため、人々は多くのお金を得るために一生懸命働いています。 彼らは、お金を持っているか、お金を使うか、あるいはその両方によって幸福を見つけることができるかのように生きています。

彼らは間違っています。 貪欲は限界がないという一つの真実を彼らは忘れてしまっています。貪欲が私たちの生活にどんな影響を及ぼしているのかを、たまにしか振り返りません。赦しの秘跡を受ける時に、それについて神父様に告白しますか。

貪欲は私たちに破壊をもたらします。ルカの福音書で、イエスは人々に言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさない。」と。そして、この言葉で話しを終えました。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも出来ないからである。」と。 つまり、人はこの世で多くのものを手にして、それが幸福を与えるかもしれませんが、それで、満足を感じるわけではありません。 それに、その幸福はそんなに深くないし、一時的なものにすぎません。

イエスはご自分のポイントを明確にするために、成功したお金持ちについての例えを話されました。お金持ちは自分に言いました。 私に必要なものはすべて持っています。私はとても豊かです。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまいます。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」 つまり、周りすべてを完全に忘れてしまいました。 彼は自分のことだけを考え、自分の幸せだけを心に残して、他のことに対して、無関心でした。その態度に対して、「愚か者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。」と神様が話されたとイエスは言われました。 金持ちは貪欲で、すべては大丈夫だったと思ったので、この世を去って行くという真実を完全に忘れてしまいました。そのため、「すべては空しい。」

私たちは貪欲を、おもにお金を貯めたいという過度の欲求と考えていますが、権力、食べ物、富、物質的なものに対する強い欲求も貪欲とも呼ばれます。 貪欲とは、まだ足りないという感覚です。 貪欲な人は、すでにたくさん持っているにもかかわらず、まだもっと欲しがっています。 つまり、欲求は限界がありません。

貪欲には嫉妬という双子の妹がいます。 嫉妬とは、私たちの欲しいものを持っている他の人に対する貪欲さです。 人生を悲劇的なものにしたいなら、人生に貪欲と嫉妬を歓迎した方がいいです。

兄弟姉妹の皆さん、この貪欲というテーマを、私たちの平和月間の行事に結びつけさせてください。 貪欲は個人的な罪だけでなく、社会的な罪でもあります。 国や人のグループが過度に権力やお金を追求する場合、その行為は罪と考えられる可能性があります。 お金、財産、富、遺産をめぐる紛争によって破壊された人間関係、つまり家族、兄弟、夫婦、友情をどれほど多く見てきましたか。 貪欲は利己主義、過度の自己愛から来るものです。 貪欲がある場所では、争いはありうることです。 それは世界の多くの不正の根源です。 小さな人々の声は聞こえません。 貪欲な人は弱者や貧しい者を圧迫します。 それのせいで、社会にはいつも不正と腐敗があります。 人々が権力の座にとどまりたいと思う理由でもあります。 本当に、平和を願うなら、寛大さと感謝の気持ちを育みましょう。

 

慈しみ深い父よ、私たちがシンプルな生活をし、日常生活の中であなたの寛大で愛情深い手を見るのを助けてください。

 

 

 

8月のミサ予定

《8月ミサ予定》 主日10:00〜
August Mass Schedule Lord’s day 10:00〜 (Japanese)

平和月間(7月と8月)
Peace Months (July and August)

8月3日(日) 年間第18主日 子どもとともに捧げるミサ Fr. アマド
18th Ordinary Sunday Children’s mass Fr.Amado

8月10日(日) 年間第19主日 Fr. アマド
19th Ordinary Sunday Fr. Amado

8月15日(金) 聖母の被昇天 Fr.アマド
Assumption of the Blessed Virgin Mary

8月17日(日) 年間第20主日
平和月間閉幕インターナショナルミサ Fr. アマド
ミサ後、信徒会館にて茶話会
20th Ordinary Sunday
Closing International Mass for the Peace Month. Fr. Amado
After the mass, Tea party at the parish hall.

8月24日(日) 年間第21主日 Fr. 中川
21th Ordinary Sunday Fr. Nakagawa

8月31日(日) 年間第22主日 Fr. ヤント レンゴ (レデンプトール会)
22th Ordinary Sunday Fr.Yanto Lengo, Cssr

2025年7月20日 年間第16主日(C年)のミサ 説教の要約

《 人を第一に 》

16th Sunday C

2025.7.20ミサ説教

私が日本語を勉強していたとき、教科書の章の1つに「挨拶は心のパスポート」というタイトルがありました。この章は、人間関係において、挨拶の重要性について語っています。 言うまでもなく、非常に重要です。

フィリピンなど他の国のレストランやお店に入ると、すぐにスタッフが近づいて挨拶をします。 「おはようございます、何にいたしますか?」 「この店のお勧めはいかがでしょうか?」 「こんにちは、パウロと申します。今日はあなたの係になります。」 そして、「メニューを見て、何を注文しようか考えている間に、飲み物は何にいたしましょうか?」 注文した食べ物を持ってきた後、数分後にウェイトレスが戻ってきて、「食べ物はお口にあいますか?すべては大丈夫ですか?」と訊きます。食事が終わって、帰ろうとしているとき、 一斉に「また来てください」と言われます。その 挨拶は心から来ると思いますか? 彼らは本当に本気で言っているのでしょうか? それをおもてなしと呼ぶのでしょうか?

おもてなしについては私より、皆さんの方がよくご存じです。おもてなしは日本の文化です。電車の清掃、鉄道員の丁寧なお辞儀、優しい運転手、デパートの開店儀礼など、日常生活に見られます。日本のおもてなしとは、お客様に対する心からのケアを意味します。それは心のこもったサービスだと理解されています。

本日の聖書朗読はおもてなしという善を強調しています。イスラエルの宗教的な古い時代の価値観でした。アブラハムが天幕の前に立っていた三人の見知らぬ人を見たとき、丁寧にひれ伏して、温かく歓迎し、足を清めるために、水を差し上げ、豪華な食事と休む場所を用意しました。 何よりも、アブラハムは見知らぬ人に対して、親切で、敬いの心でテントに迎え入れたのです。本当に、寛大で素晴らしい亭主でした。

アブラハムのおもてなしは自分の信仰から出るものでした。 知らないうちに天使たちをもてなしたかもしれないという、深い信念で彼はもてなしをしました。アブラハムの模範から、 見知らぬ人を歓迎することは決して無駄ではなく、私たちの優しさを受けた人は、報酬は必要あ

りませんが、思いがけない祝福をもたらすかもしれないし、他人、特に見知らぬ人に示されるあらゆるもてなしは、神に見られることを学ぶことが出来ます。

イエスを家に迎え入れたマルタとマリアもおもてなしを示しました。 マルタは食事の準備に忙しくしていましたが、マリアはイエスの足もとで話を聞くために、時間を過ごしました。マルタが、何も手伝わないマリアのことでイエスに不平を言いうと、 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。マリアは良い方を選んだ。」とイエスが言われたとき、彼は彼女に、自分の優先順位を知るべきだと思い出させました。 彼女はイエスを優先すべきでした。イエスは親しい友達でした。長い旅で疲れていました。多分、長い間 、彼らは会っていなかったかもしれません。 彼女もイエスの話に耳を傾ける時間を持つことができるように、余計な準備をすべきではありません。 おもてなしは、ただサービスだけでなく、側にいることにも表れます。

先週の日曜日、私たちは展示会を開き、同時に平和について分かち合いました。 教会のリーダたちは、力いっぱいその活動の準備をしていました。 彼らと参加してくださったすべての方々に感謝しています。 控えめに言っても、その分かち合いは成功しました。 それは彼らの積極的な参加のおかげでした。 平和について考えると、私たちが本当に平和を願うなら、特にそれが私たちの家族、友人、そして私たちのグループの人々のためだけでなければ、おもてなしが答えになります。私が最初に、ウェイターやお店での挨拶について言ったように、おもてなしとは、単に良いサービスではありません。 おもてなしとは、人々を第一にし、私たちが人間であり、この土地はすべての人のためのものであることを認めることです。私たちはこの世に生きています。ですから、私たちは終わりのない平和を願い、おもてなしをしています。

 

2025年7月6日 年間第14主日(C年)のミサ 説教の要約

《 贈り物としての平和 》

平和月間 25
2025.7.6ミサ説教

平和があなたがたと共にありますように ! 私たちは皆、平和を探し求めていますが、平和を見つけるのは難しいようです。 私たちが住んでいる世界は、平和という贈り物を受け取ることを拒否しているようです。 多分、それが日本のカトリック教会が 7月 と 8月 を平和に捧げる理由かもしれません。私たちの小教区では、このミサで、平和月間が始まります。かくして、慈しみ深い主に平和を与えてくださるように願いましょう。

家で夕食をとりながら、姉は私に言いました : 「夕食後は、ただ静かな夜を過ごしたいだけです。多分、これはあなたにとって面白くないかもしれません!」と。姉と義理の兄の結婚生活は長いし、とても幸せです。 彼らは家族で夕食をとり、自分たちの寝室で、電話をかけず、一緒に良い映画を見るという静かな夜を過ごすことにしました。

皆さんはほとんど同じルーティンを持っていると思います。 忙しい一日の終わりに、私たちが、人々から離れ、静かで、安らかで、楽ができる家にいて、そして風呂に入ることを望んでいます。 確かに、大切な人々に囲まれることを好むでしょう。

私たちは皆、平和の内に生きたいです。平和とは、心の平和で、問題も、恐れも、争いもなく、ハーモニーを私たちは理解しています。しかし、 静かな生活だからといって、それは平和だとは限らないです。 実は、それは無関心かもしれません。 わかっているのに、参加しようとしません。それでは、何が私たちに平和をもたらすのでしょうか?

平和は神の恵み、贈り物という考えを本日の聖書朗読は強調しています。第一朗読は、神が選ばれた民に平和を川のように広げて、そして、民は喜んでいるという神の約束を思い出させるものです。「見よ、私は彼女に向けよう、平和を大河のように、国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように、私はあなたたちを慰める。」と主はこう言われました。

兄弟姉妹の皆さん、平和は神から来る恵みで、贈り物です。それは私たちが感謝と不思議さを持って受け取ることが出来ることです。この愛の贈り物を受け取るためには、両手を広げて感謝の心でそれを受け入れなければなりません。平和は私たちの努力だけで達成できるものではありません。そこに神の深い思いやりと寛容が私たちに働きかけているからこそ、平和は成り立つものなのです。

ヨハネの福音書では、イエスはあの裏切られた夜、最後の晩餐の時、弟子たちに長い別れの挨拶をしました。 使徒たちを安心させ、慰め、落ち着かせようとして言われました。 「私は去って行きますが、私は平和をあなた方に残し、私の平和を与える。私はこれを世が与えるように与えるのではない。」 とだが、平和は、他の贈り物と同じように、責任や仕事があります。それはすべての能力を要求します。本日の福音では、イエスは弟子たちに、行くところに平和をもたらすように命令されました。 「どこかの家に入ったら、まず、この家に平和があるように。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。」と。弟子は平和の宣教師です。平和は弟子の挨拶で、贈り物です。神は、私たちを必要として、私たちを通して、他の人々に手を差し伸べることができるのです。理由は福音書に書かれています。 「収穫は多いが、働き手は少ない。」 と。

兄弟姉妹の皆さん、パウロのように自分をへりくだり、祈りで、主に平和を願うなら、私たちの世界は平和になると考えるのをやめましょう。 平和は人の努力によってもたらされます。イエスは弟子たちを平和の宣教師として、派遣されました。私たちは、 イエスの呼びかけに応じるよう招かれています。そして、力を通して、私たちの中に平和が現実のものとなります。 今では聖人となったマザーテレサは、「笑顔は平和のはじまりです。」と言いました。

兄弟姉妹の皆さん、まず、心の中の恨み、憎しみ、怒り、嫉妬、プライドを手放しましょう。 和解し、許し、私たちの後に来る人々のためにより良い場所を築き始めましょう。

Download (PDF, 107KB)

 

7月のミサ予定

《7月ミサ予定》 主日10:00〜
July Mass Schedule Lord’s day 10:00〜 (Japanese)

平和月間(7月と8月)
Peace Months (July and August)

7月6日(日) 年間第14主日 Fr. アマド
平和月間開幕ミサ 子どもとともに捧げるミサ
14th Ordinary Sunday Fr.Amado
Opening Mass for the Peace Month. Children’s mass

7月13日(日) 年間第15主日 Fr. アマド
平和月間分かち合いと展示
15th Ordinary Sunday Fr. Amado
Opening of the Exhibit Day of Prayer and Discernment

7月20日(日) 年間第16主日 Fr. アマド
16th Ordinary Sunday Fr. Amado

7月27日(日) 年間第17主日 Fr. 中川
17th Ordinary Sunday Fr. Nakagawa

2025年6月22日 キリストの聖体(C年)のミサ 説教の要約

初 聖 体《 キリストの聖体 》

愛する子供たち、

おめでとうございます!あなたたちは皆、白い服が似合います。綺麗で、ハンサムです。  笑顔で喜んでいると思います。そして、あなたたちの両親、兄弟姉妹、親戚、そして教区共同体も同じように喜んでいます。

初聖体の子供たちにとっても、その家族にとっても、小教区の皆さんにとっても、今日は特別で、とても思い出に残る日です。ほら、いく人かの親戚がわざわざここに来て、あなたたちを誇りに思っています。 この日を特別で思い出深いものにするために、家族は写真を撮るために、カメラを持ってきました。この特別な日を写真に収めたいと考えています。 小教区のリーダたちは、あなたたちのためにカード、贈り物、花を用意しました。仲間の子供たちが力いっぱい典礼・ミサを準備しました。 確かに、あなたたちはこの日を楽しみにしているでしょう。なぜ今日、私たちは皆喜んでいるのか、そして、この日を特別で思い出深いものにするために、私たちは何を祝うかということが、私の質問です。

「私の人生で最も重要で記憶に残る日は、初聖体の日でした。」と偉大なナポレオン・ボナパルト、フランス皇帝であり偉大な戦士は言いました。先週の日曜日、講話の時に、 私の初聖体の時に撮った写真を見せました。私がどこに行っても、それを持っていくとことを覚えていると思います。その写真は、私が生まれて初めてイエスを受け入れた日を思い出させます。 だからこそ、この日は感謝と喜びの日であるべきです。

なぜ今日が、あなたたちの人生で最も喜びの日なのですか? 今日、キリストの聖体の祭日を荘厳に祝います。この祭日に、イエスの受難、死、復活を記念します。 言い換えれば、私たちが永遠の命を得るために、イエスが全ての人のために何をなさってくださったか、つまり、私たちに命を与えたことだと私たちは聖体を記念します。 この感謝の祭儀の中で、一般のパンの形で、あなたたちは初めて、キリストの聖体をいただきます。 あなたたちが食べるのは主です。 私はあなたに私の真の体、真の血を与えるとイエスは言われています。

それでは、愛する子供たちよ、ミサにあずかるたびに、イエスの聖体をいただくことができるように、清くて綺麗な心を保ちなさい。

両親、親戚、小教区の皆さん、この初聖体のために、これらの子供たちを準備してくださったことに感謝します。 今、子供たちの心の中にはイエスがいます。 特に日曜日には、いつも子供たちを教会に連れて来るようにお願いしています。 彼らと共に祈ってください。彼らに、イエスの真の弟子になるとはどういうことかを示してください。 あなたがたが本当に、子供たちに自分の信仰を自分のものにすることを望むなら、彼らが恐れることなく信仰を実践できるクリスチャンの環境を彼らに与えてください。 子供たちは、他の家族も信仰を実践しているのを見ると、自分の信仰を自分のものにする可能性が高くなります。 子供たちは、信仰が自分の家以外の場所でも生きていることを理解する必要があります。

私はこの説教をこの言葉で終わりたいと思います。 聖体は食事であり、主の準備された宴会です。 食卓は希少性ではなく、豊かさの食卓です。 排他性ではなく、おもてなしです。 冷たくなく、温かさに満ちています。 この聖体が私たちの愛と交わりへの願いを満たしますように。 そして、この聖体が、イエスがなさったこと、つまり、他人のために、ご自分を捧げることと全く同じことをすることによって、彼を記念するように求められていることを私たちに思い出させてくれますように。

 

Download (PDF, 96KB)

2025年6月15日 三位一体の主日(C年)のミサ 説教の要約

《 父である神 》
三位一体の主日C

先週の日曜日に、聖霊について説教しました。来週、キリストの聖体を荘厳に記念します。今日は三位一体の祭日です。そして、父の日でもあります。この機会を用いて、父についてお話します。私たちの神は私たちの御父です。

数年前、ある父と息子が一緒にお風呂に入る漫画を見ましたが、きっと、彼らは温泉に入っていたのでしょう。 その漫画は、父親が息子の背中をこすり、息子が大笑いしているところでした。 これは日本では普通ですが、私の国ではそうではありません。この漫画は私にとって面白くて良いものでした。父と息子の関係を伝えています。

それは私にライオンキングという映画とミュージカルを思い出させました。 皆さんの中で、すでに映画やミュージカルを観た方がいるかもしれません。 映画には心温まるシーンがあり、シンバにとって父親ムファサがどのようなものかを知ることができます。 ムファサは息子と話したり、一緒に遊んだりして時間を過ごしました。ある日、 ムファサはシンバを散歩に連れて行き、息子に世界を見せました。 歩きながら、ムファサは辛抱強く、生命の輪について説明しました。生命の輪とは、人生では、人は産み、人は去っていきます。 子どもは成長し、目上の人から責任を引き受け、最後に死ぬということです。 それが人生の真実です。言い換えれば、責任ある父親は子どもと一緒に歩き、言葉と行いで責任、コミットメント、権威・力、関係という言葉の意味を説明し、バトンタッチします。大事なのはと共に歩むということです。

旧約聖書では、いくつかの書は神を摂理者として、子どもを導き、指導し、子どもたちが成長し成熟するために必要なものを彼らに与える神について語っています。御父として、神は 導き手であり、保護者です。

出エジプト記には、モーセの召命が書かれています。あなたの名前は何ですかというモーセの質問に応じて、「私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」 と神は言われました。

私はあなたと共に歩んで、 あなたと一緒に旅をしてきた神です。 あなたから立ち去りません。 あなたに忠実です。 私の民ですから、それで、あなたのことをよく知っています。あなたがたの先祖と約束をしました。 その名前の意味は、とても個性的な神だということです。要するに、神はご自分の子どもたちの近くにいます。

もちろん、私たちが神を父として理解することも、イエスから学んでいます。 アッバ、つまり父という意味で、呼びかけたように、イエスは弟子たちに、神を父と呼ぶように教えました。 イエスは何回も父である神の豊かな祝福と寛大さをたたえ、感謝しました。信頼と自信を持って弟子たちに御父に自分たちの願いをするように勧めました。

兄弟姉妹の皆さん、神は私たちの父であると今日の祭日は私たちに話しています。人間の父との経験のために、私たちの中には神を父と呼ぶのが難しい人もいるかもしれません。 若者が父親とは何かについてちょっと歪んだ考えを持って育つことを私は知っています。 また、現代社会生活のせいで、多くの父親が家族と離れて、職場で多くの時間を過ごしています。 さらに、家族の関係に対する戦いがいつもあります。 父親の権威は減少しているように見えますが、仲間の権威は増加しています。それは本当に残念です。

兄弟姉妹の皆さん、人間の父との経験が何であれ、神の子どもとしての私たちの尊厳は決してかわりません。神は私たちを愛されて、その愛の代わりはありません。そして、私たちは皆、キリストによって神の子どもであるので、それは私たち全員が兄弟姉妹であることを意味します。 キリストによって、私たちは皆、アッバ、父よ、と言うことができます。

ミサの中で、私たちの人間の父のために、祈りましょう。彼らは私たちの与え主であり、保護者です。 ですから、彼らに感謝し、愛しましょう。

Download (PDF, 98KB)

2025年6月8日 聖霊降臨の主日(C年)のミサ 説教の要約

《 一致の霊 》

聖霊降臨の主日 C

 

今日、聖霊降臨祭を荘厳に祝います。それがどのように起こったかを聖ルカは説明しています。「弟子たちは皆、マリアと一緒に部屋の中にいました。激しい風が吹いて来ました。そして、炎のような舌が分かれ分かれにあらわれ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と。

聖霊降臨の主日は、私たちの生活に聖霊の重要性を思い出させてくれます。 私たちの生活や教区共同体における聖霊の役割は何でしょうか? イエスは聖霊について長く話され、そして、それが私たちの聖霊についての知職の源です。

御父の元に戻られる前に、祈りによって、イエスは心の願いを伝えました。「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。」要するに、イエスが約束された聖霊が私たちの一致の源です。

混乱し、分断された社会に生き、一致に至るのは何と難しいことでしょう。これを探し求め、なかなか満足しません。共同体を築いていますが、家族、教会、学校、職場について不平をよく言っています。 それはなぜでしょうか?

壊滅的な津波の後、日本国民への手紙の中で、前天皇は次のように述べています, 「人々が手をあわせて、思いやりを持って、互いに親切にし合い、この困難な時を乗り越えてくれることを心から願っています」と、人々の絆を望みました。どのようにして一致を得るのか?

聖書朗読を見てみましょう。聖霊降臨の時、神は奇跡をなさいました。お互いを理解できるようにすることで、色々な場所から人々を集められました。ここでは、 分裂ではなく交わりを持つという神のみ旨がはっきりとわかります。 聖霊降臨という出来事は、聖霊がさまざまな人々やコミュニティを通して、働くことを決して止めないことを私たちに思い出させます。 聖霊は、使徒たちのように、一般の人々を用いて、私たちに神の愛のメッセージを伝えることができます。 聖霊は、単純なジェスチャー、つまり、親切な言葉、献身的な奉仕、心のこもったタッチによって、私たちの中でも働くことができます。 私たちの行いによって、人々は神の愛のメッセージを聴くことが出来ます。私たち がしなければならないことは、ただ、聖霊に心を開くことなのです。

コリントの信徒への手紙によると、異なっていても、私たちは同じ洗礼を受けます。それによって、聖霊 を受けました。聖霊は私たちに与えられた多くの賜物を分かち合い、弱い人々を強め、困っている人々を助けるように呼びかけています。 賜物を分かち合い通して、一致が築かれるということです。

使徒たちにあらわれ、復活されたイエスは言われました。「あなたがたに平和があるように。」 平和はイエスの贈り物です。そして、 彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」。 そう言ってから、彼らを派遣されました。それは赦しと平和について説く宣教師になることです。

兄弟姉妹の皆さん、赦しなしでは、一致はあり得ないことを理解しましょう。平和は 一致の実りです。和解した人々は、一致の中で生きています。彼らは平和という雰囲気を感じています。聖霊に満たされた人々は赦しを実践し、一致します。彼らには平和があります。

兄弟姉妹の皆さん、聖霊降臨はただ、歴史の劇的な出来事だけでなく、戦争と憎しみによって混乱された世界に一致をもたらすことができるように、私たちが遣わされ、賜物に満たされるということでもあります。

聖霊に心を開き、賜物を受け取るためだけでなく、互いに心を開いて、私たちが一致を経験できるようにしましょう。

Download (PDF, 99KB)

2025年6月1日 主の昇天(C年)のミサ 説教の要約

《宣教としての主の昇天》

昇天の祭日2025

 

日曜日のミサに与るたびに、信徒信条を唱え、「三日目に、死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座につき。」という信仰を伝えます。

イエスは天の国に戻り、今は父である神と共にいます。 これが、主、イエスの昇天という今日の私たちが祝う真理です。

主の昇天に関しては、第一朗読は、単に「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と述べています。 エペソ人への手紙によると、イエスが神の「天の右の座」にいるということです。 ルカ福音著者はこのように書きました。イエスが「天に上げられた」と。聖書朗読には同じテーマがあります。イエスが上げられるということです。

イエスは、昇天前に使徒たちに別れの挨拶をするとき、次の言葉を話しました。 「私が去って行くのは、あなた方のためになる。」 「あなたがたは悲しむが、悲しみは喜びに変わる。」 「私にすがりつくのはよしなさい。ガリラヤに行きなさい。そこで会おう。」と。

「私が去って行くのは、あなた方のためになる。」というイエスの言葉をどのように理解するのか? イエスの去って行くことがどうして喜ばれるのでしょうか? 大切な人が亡くなったからといって、あなたは喜びますか? イエスが御父のもとに戻ったという観点から、昇天の意味を理解しようと試みてみましょう。

私たちが毎日それを経験しているのに、これは説明するのが難しいことです。経験を分かち合わせてください: 三人の息子を持つ友達がいます。子供たちが大学を卒業した後、2人は海外で働くことを決めました。 結婚後、長男は自分の家族を築き育むために家を出ました。 今、彼らは世話をする子供がいなくなったので、その家はまるで、空っぽの巣のようだと感じました。 辛い別れを体験しました。これは本当に簡単なことではありません。

 

「時間とともに、すべてのものを癒す」と多くの人はよく言います。 時間が経つにつれて、友達の孤独と痛みはなくなりました。 彼らは、子供たちが本当に成長し、自分で決断しなければならないという真実を受け入れました。 つまり、結婚や家を出ることなど。それは現実です。子供がいないので、友人たちは新しい道を切り開きました。 今、献身的に自分たちの小教区の奉仕をしています。 小さな畑を耕し、さまざまな種類の野菜を植えます。子供たちの 不在は彼らに新たな目的と使命を与えました。 それによって、成熟したのです。本当に、悲しみは喜びに変わりました。

きっとあなたがたも同じ経験をしていると思います。 別れ、去ることは辛いけれども、人生の一部です。 取り残された人々は、その経験の中に贈り物を見つけるでしょう。 イエスの昇天は、使徒たちの人生に変化をもたらしました。 彼らは町にとどまり、約束の実現を待ちました。 町にいる間、使徒たちはイエスの言葉と行いについて考える機会がありました。 それによって、貧しい人々や力ある人々に奉仕したイエスについての彼らの知恵は深まり、彼らはイエスが託した使命を果たすための新たな力と目的を見つけました。「あなたがたは、これらのことの証人となる。」とイエスは言われました 。使徒たちはイエスの名によってエルサレムから宣教するために出かけました。

イエスの昇天を祝うことは、私たちの使命、責任を思い出すことです。その使命は言葉と行いによって愛を説く人となることです。

兄弟姉妹の皆さん、 「教会の今の現状に満足しており、これまでやってきたことをそのまま続けていきたいでしょうか。」 信頼性の高い活動が沢山あります。もう慣れました。 あなたがたにとってはそれで十分ですか?そのままでいいと思っていますか? どのようにして次の世代、特に皆さんの子供たちや若者、そしてキリストを知らない人々に信仰を伝えればよいのでしょうか。

主イエスよ、私たちが希望のうちに生き、あなたの愛のメッセージを他の人と喜びを持って分かち合えるように助けてください。その恵みを与えてください。

 

Download (PDF, 109KB)

被昇天の聖母 カトリック 垂水教会