社会活動委員会からのお願い

いつも社会活動委員会の活動にご協力いただきありがとうございます。

社会活動委員会では、船員司牧を支援していますが、垂水教会では船員さんたちにニット帽子を編んで協力をしています。

昨年も神戸地区全体で300余の帽子を編んでいただきました。

たくさん編んでくださいましたので今、毛糸が不足しています。

ご家庭に使わなくなった毛糸がありましたらご寄付いただきますようお願いいたします。

手編みのセーターでほどいていない物でも結構です。

垂水教会聖堂ホールのコンテナの引き出しに入れていただくか、野村までお声がけください。

どうぞよろしくお願いいたします。

12月のミサの予定

〈12月のミサの予定 日曜10時〜〉

12月  1日(日) 待降節第1主日(アルマンド神父)

12月  8日(日) 待降節第2主日(竹延神父、アマド神父)

12月  9日(月) 無原罪の聖母マリア

12月15日(日)
待降節第3主日(酒井大司教、アマド神父)
※堅信式 ミサ後にお祝い茶話会があります。

12月22日(日) 待降節第4主日(中川神父)

12月24日(火) 主の降誕 夜半のミサ18時〜
※17時〜 子どもたちによる聖劇
※ミサ後におぜんざいのサービスがあります。

12月25日(水) 主の降誕 日中のミサ

12月29日(日) 聖家族(高橋神父)

1月  1日(水) 神の母 聖マリア

2024年11月17日 年間第33主日(B年)のミサ 説教の要約

終わりの日

33rd Sunday Year B

私たちはどのような結末・終わりを見たいですか? 私たちは皆、ハッピーエンドを望んでいます。 映画や物語の終わりに、「そして、彼らはその後ずっと幸せに暮らしています。」と言う言葉を読みたいのです。しかし、それは子ども向けです。現実の生活では必ずしもそのように起こるとは限りません。時には予期せぬ形で結末が訪れることもあります。良い結末・ハッピーエンドとはどのようなものでしょうか?

日本の映画「パーフェクト・デイズ」は、満足のいく深遠な結末を与えてくれます。 主人公の平山は、東京・渋谷区のトイレ清掃員です。最後のシーンは、良いハッピーエンドがどのようなものかを私たちに教えてくれます。それは、平山が初めて出会った男性にお酒を差し出し、楽しそうに話しているシーンでした。 翌朝、平山は早起きして仕事の支度をし、コーヒーを飲み、小さなバンを運転して仕事に向かう車の中で、お気に入りの音楽「Good Feeling」を聴きます。その顔は力強い感情が表れていました。彼が市のトイレを掃除しに行くと、太陽が明るく輝いています。そして、照明が消えます。

その映画は、主人公が仕事を始めるところでおわるが、今日の聖書朗読では結末について語られています。聖書朗読のテーマは、私たちが典礼歴の終わりに近づいているという理由で、非常に適切です。 福音は終わりの日について始まります。 暴力と悲劇があるため、良いニュースとは思えません。 福音書によると、終わりの日は太陽が暗くなり、月は光を与えません。星は空から落ち、天体は揺り動かされます。人の子は、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られます。その後、彼は天使たちを遣わし、彼の選ばれた人たちを呼び集めます。その言葉を聞くと、本当に恐ろしいことです。

福音書が伝える終りの日は、「パーフェクト・デイ」に見えないかもしれません。そこには暗闇、暴力、分裂、そして死があるからです。 一方、映画「パーフェクト・デイズ」では、平山は自分がしていることを楽しんでいます。彼は楽しく趣味をすることができます。福音書の中でイエスは、この世のすべては一時的なものだと教えています。言い換えれば、終わりは現実です。私は葬儀の時にいつもこの言葉を使います。「おそらく、人生で最も受け入れがたい現実は、私たちにとって貴重なものすべてが何らかの形で、最終的には奪われるという不変の事実です。」 私たちはこれを好まないかもしれませんが、それを変えるために私たちにできることは何もありません。 私たちはただ、終わりがあり、それは必ず来るという真実を受け入れるしかありません。準備はできていますか? そのために、私たちは何をしていますか? 少なくとも自分自身にとって答える必要があります。 今こそ、この世での生活を振り返り、沈黙のうちに考える時です。

福音書の中でイエスは言われました 、「気を付けて、目を覚ましていなさい。」と。 彼は、目を覚ますこと、信仰を強く保つことの重要性を強調しています。それは神だけが終わりの正確な時間を知っておられるからです。 注意深さ、警戒心とは、私たちがどのように生活し、自分の行動に気づいているかを意味します。 すべてが終わることを知っている人の行動は、善を行い、優しさを示し、他人、特に弱者、老人を親切にします。 その人は確かに他人を傷つけることを避けます。 そうすれば、その人の行動は終わりの日への良い準備をすることになります。 そして、終わりの時が来ると、その 人は 行く準備ができていることがわかります。

兄弟姉妹の皆さん、今日、私たちはこの感謝の祭儀で、七、五、三を祝います。子どもたちの健康や成長のために祈ります。子どもたちは私たちの後ろ姿を見ています。そして、私たちから何を見ても、それが正しいか間違っているかを問うことはないということを心に留めましょう。 彼らは単に私たち大人の姿を見て倣い、従っているだけです。 ですから、彼らに手本を示しましょう。

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2024年11月10日 年間第32主日(B年)のミサ 説教の要約

寛大さのための祈り

32nd Sunday B

「与えるものが何もないほど貧しい人はいない。」

ある時、マニラのスラム街で家庭訪問をしていたとき、突然、「神父様、入ってください」という声が聞こえました。周りを見回すと、その声は貧しい家庭の家から聞こえてきたことに気がつきました。 貧しくて小さな男の子が「神父様、昼食を一緒にしませんか」と言いました。家に入ると、家族全員がすでに食卓の周りに座って昼食をとっているところでした。 それに対して、私はこう答えました。「本当にありがとう。でも、家族が待っていて、昼食を用意してくれているんだ。」 しかし、この貧しい家族がともに食事をするように主張したので、 その家族と一緒に食事をすることにしました。 彼らは私に2匹の小さな魚と一杯のご飯を提供しました。 お母さんは「神父様、魚を召し上がってください」と言いました。「子どもたちが魚を食べずにスープだけを食べているのに、どうして私が魚を食べることができるだろう。そして、もし、私がこの魚を食べるとしたら、残り物は何もないだろう。多分、彼らの食べ物はこれだけかも」と自問しました。私が魚を食べているのを見ると彼らが喜ぶだろうと思ったので、しぶしぶ魚を取って食べました。 この経験から、貧しい人は寛大な心を持っていると思いました。 それは私たちがよく忘れてしまう真実だと思います。

今日の聖書朗読のメッセージは明確です。それは 貧しい人は寛大な心を持つことです。社会の疎外された一部の人々は、選ばれた人々の歴史において重要な役割を果たしました。 そして、彼らの行いのいくつかは聖書に書かれています。 運がよく、今日はそのうちの二つを聞く機会があります。

今日の第一朗読は、旧約聖書の中で私の気に入っている物語の一つです。 それはザレファテのやもめのことについて語っています。 彼女は貧しく、親切で謙虚な女性でした 。そして、エリヤという神の預言者を家に迎え入れました。 わずかに残されたものの中から、彼女は彼にパンと水をささげました。 そのため、自分と息子には何も残らなかったでしょう。 しかし、彼女の寛大さのおかげで、神は奇跡を行われ、彼女と息子は飢饉を生き延びました。

戦争あるいは、阪神淡路大震災を経験した皆さんは、預言者の気持ちや、貧しいやもめが預言者のためにパンを作ることに躊躇した気持ちが簡単に理解できます。 貧しさから、彼女は息子と自分のために残されたものを神に信頼し、寛大に分け与えました。 彼女は、神が彼らのために道を開いてくださる可能性に対してオープンでした。

福音書を見てみましょう。兄弟姉妹の皆さん、イエスがあなたのお金を見ていることを知っていますか。 彼はあなたがお金をどのように使うかをご存知ですよ。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」と福音書には書かれています。 イエスは言われました。「 はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。この人は、乏しい中から、自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れたからである。」 イエスにとって、貧しいやもめほど、寛大な人はいません。 これが寛大になる方法です。

今日の聖書朗読は私たちに寛大であるように呼びかけています。 けちで利己的であることは言い訳できません。なぜなら、二人の貧しいやもめでさえ寛大になることができたからです。 「与えるものが何もないほど貧しい人はいない。」という聖パウロの言葉を思い出しましょう。 神は私たちの寛大さをご覧です。 神はよく私たちの動機・モチベーションという、私たちが何かをする理由を知っておられます。

兄弟姉妹の皆さん、寛大さはすべての人にとって美徳です。 誰もが寛大になることができます。 寛大さは心の行いです。 それは愛の表現です。 それは、他の人々、特に貧しい人々や困っている人々のために、私たちにとって大切なものを手放したいという願望から湧き出ています。 誰もが寛大であれば、誰も食べ物で困る人はいません。 人々が買いだめをすると、多くの人が飢えで死にます。

私が寛大な人を説明するとしたら、彼らは次のようになります。 寛大な人は満足した生活を送っています。 何よりもまず感謝しています。自分が持っているものは何であれ、財産、才能、富、お金は神から受け取った贈り物であることを認識しています。 そして、神や人々に「ありがとう」と言います。 感謝の気持ちで、彼らは自分の持っているものの奴隷にはなりません。 それらを使用して、他の人の生活を向上させます。 第二に、寛大な人は奉仕をします。 生涯、奉仕をすることは、彼らが受け取った贈り物に対して感謝の気持ちを伝える方法です。 彼らは奉仕をすることに喜びを見出します。 一言で言えば、寛大な人は感謝し、良い仕事をし、喜びに満ちています。 私たちは皆、そのように生活がしたいと思います。そう思いませんか?

あなたの寛大さをどのように示しますか?

今日、この祈りを唱えましょう。 主よ、私に寛大であることを教えてください。あなたに値するようにあなたに仕えることを教えてください。見返りを求めずに与えることを教えてください。アーメン。

2024年10月20日 年間第31主日(B年)のミサ 説教の要約

神を愛する

31st Sunday B

愛についての教えはたくさんあります。 社会にはすでに愛についての出版されている本が数えきれないです。 ラブソングも、映画も、ドラマも、詩も、物語も、絵も、漫画もたくさんあります。きっと、これからも愛についての教えがもっと出てくることでしょう。 もし愛を定義するとしたら、あなたの経験に基づいて、あなたは何と言いますか?

今日の聖書朗読は、愛について何を教えてくれるのでしょうか? 聖書朗読は、愛を理解するための指針となります。 モーセは選ばれた民に、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛し、これらの言葉を心に留めるようにと教えました。 簡単に言えば、主を愛するということは、私たちの生活の中で主を第一に置くということです。

一方、福音書では、イエスは一人の律法学者の質問に応えて、シェマを唱えました。 “第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つに勝る掟はほかにない。” ここでイエスは、思いで神を愛することを付け加えました。 私たちの心、私たちの思い、私たちの精神、そして力で愛することは、私たちがすべて神を愛することです。 神にすべてをささげることです。その後、すぐ、イエスに隣人愛について話されました。なぜなら、彼らにとって、隣人を愛することも同様に重要ですから。

ギリシャ人にとって、愛はアガペーです。 アガペーという言葉は、感情ではなく、行動することを意味します。 アガペーは行動を要求しています。 アガペーは具体的な表現をすることを求めます。 神を恐れる夫は、妻と子供たちに忠実です。 彼は決して妻をだましません。 道徳的な信者は、仲間に対して恨みや怒りを抱きません。許してあげます。

相手の理解、相手の立場から出来事を見ることに力を入れます。

神を愛し、隣人を愛することは、彼らに対して道徳的な感情を持つだけではありません。 真実の愛は感情を超えています。 周りの人々を愛することは、神を愛することの表現にすぎません。 隣人を憎んでいる人は、主を愛しているとは言えません。この人と一緒にいるのは耐えられません。 それは偽の神への愛にすぎません。

先月末、教皇フランシスコは「彼は私たちを愛しておられた」というタイトルの新しい回勅を私たちに与えてくださいました。 ラテン語では、Dilexit Nosと呼ばれます。 それはイエスの愛についてです。 ここで教皇は、愛の模範としてイエスの聖心というイメージを私たちに与えました。 おそらく、来年の養成に向けて、この回勅について一連の議論をすることができるでしょう。 教皇フランシスコは、神の愛に出会うことで、他の人々を兄弟姉妹として見る目が開かれ、母なる地球のために働くようになると強調しました。 簡単に言えば、彼は私たちに神を愛することには社会的な側面があると教えています。

兄弟姉妹の皆さん、シノドス的な教会についてのローマでの集会が無事に終わりました. 代表団はすでに自分の国に帰国しました。 シノダリティは、小教区として私たちに何を要求しているのでしょうか? 私たちはどのようにシノダリティを生きますか?

教会のリーダーたちは、私たちの時代に応じて神と隣人を愛する方法を人々や子供たちに教えるために、時間と資源を使うことになっています。 コミュニティとして、私たちは座ってオープンハートでお互いに耳を傾けあいます。誰も厳しく判断しません。 自分を分断するものをわきに置きます。 心に怒りや憎しみがある場合、それらを癒しと赦しのためにイエスに持って行きます。 そして最後に、私たちのコミュニティは包括的です。インクルーシブです。 すべての人を歓迎します。 他の人を収容するためにテントを拡大します。

もし私たちが心と思いと行いで隣人を愛するなら、イエスは「あなたは神の国から遠くない」と言われるでしょう。 神は私たちの内にとどまっています。 間違いなく、私たちはそのイエスのみ言葉を聞きたいでしょう。

祈りましょう;主よ、私をあなたの愛で満たしてください。私をあなたの親切さで満たしてください。そして、私をあなたの愛の担い手にしてください。アーメン。

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11月のミサの予定

〈11月のミサの予定 日曜10時〜〉

11月  1日(金) 諸聖人

11月  2日(土) 死者の日 追悼ミサ

11月  3日(日) 年間第31主日

11月10日(日) 年間第32主日

11月17日(日) 年間第33主日 七五三祝福式 (子どもとともに捧げるミサ)

11月24日(日) 王であるキリスト(中川神父)

 

・17日の七五三の祝福は、赤ちゃんから高校生までが対象です。

追悼ミサ、合同追悼祭、合同納骨式のご案内

<追悼ミサ>

11月2日(土)  10時〜

場所:カトリック垂水教会聖堂

 

<合同追悼祭、合同納骨式>

11月3日(日) 14時〜

場所:カトリック舞子共同納骨所(舞子墓園カトリック納骨所)

* お墓の花立はなくなりましたので、お供えのお花は、お持ち帰りくたさい。

* 納骨申込及び生前予約をご希望の方は、垂水教会事務所にご連絡ください。

被昇天の聖母 カトリック 垂水教会