本日から3月14日(土)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。
四旬節第1主日(A年) 聖書と典礼 2020年3月1日
第一朗読
創世記(創世記2・7-9、3・1-7)
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形作った人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
主なる神が作られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
第二朗読
使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・12-19、または5・12、17-19)
〔皆さん、〕一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
《律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来たるべき方を前もって表すものだったのです。
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵が働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。》
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。
一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。
福音
マタイによる福音(マタイ4・1-11)
〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜の断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
福音のメッセージ
「宣教に対しての誘惑」
カトリック垂水教会担当司祭 林 和則
典礼歴A年の四旬節第一主日の福音では、悪魔がイエスを誘惑する出来事が描かれています。けれども、その誘惑は私たちに対してのような罪を犯すことへの誘惑ではありません。神の子であるイエスは罪への傾き、いわゆる「原罪」に捉われてはいないからです。それは「宣教」に対しての誘惑だったのです。
イエスの荒れ野での四十日間の修行も、これからどのように宣教を行えばよいのか、まことの神の思いに適った方法を探し求めるためであったと考えられます。
悪魔は、宣教が成功するためのアドバイスを与えに来たふりをして近づいてきますが、実はイエスの宣教を内側から破壊するためでした。悪魔の誘惑を私なりに意訳してみたいと思います。
ひとつ目。
「イエス様、あなたは神の子。どうぞ、この石をパンに変えてみてください。人間にとって食べることというのは、生きていくためにもっとも大切なことです。その食糧問題を立ちどころに解決してみせるんです。どこにでもいくらでも、ころがっている石ころをパンに変えて見せれば、人間はあなたのもとに押し寄せてきて、あなたの言うことを何でも聞くようになりますよ」
これはモノを与えて宣教を行いなさいという誘惑です。確かに人間にとって食べ物、またお金などは必要なものです。イエスは答えます。
「人はパンだけで生きるものではない」「だけで」と言われているように、その必要性は認めています。けれども、それだけではない、「神の言葉によって生きる」とイエスは言われます。食べ物は肉体を養いますが、心を養うのは神のことばであるのです。人間は心と体によって生きています。いくら体が健康であっても、もしも心が満たされていなければ、自ら体の命を絶つことさえあるのです。宣教とは心を養うことをまず第一とするべきです。
ふたつ目。
「さあ、この高い屋根から飛び降りてごらんなさい。父なる神が大あわてで、天使たちを飛んで来させますよ。そのものすごい奇跡を見せたら、人びとは拍手喝采、あなたはアイドルになって、大人気。みんな、ついて来ますよ」
けれどもイエスは「神である主を試してはならない」と言われます。わたしたちは頑張れば頑張るほど、どこかで認めてほしい、それをかたちで現わしてほしいと願います。宣教もがんばれば、きっと神さまは目に見える結果をくださるだろうと。たとえば、信者の数が増えるとか。もちろん、信徒が増えることは悪いことではありません。でもそれが第一の目標になってはいけないと思うのです。本当に福音が伝わる、人びとが救われる、そこについてきた結果であればいいのです。数だけを求めれば、大航海時代の教会のようにアメリカ大陸の現地の人びとに水をぶっかけて強制的に洗礼を授けるようなことになりかねません。
また、イエスは奇跡を行った際には必ず「このことを誰にも言ってはいけない」と命じています。イエスは奇跡という圧倒的な「力」で人びとをひれ伏させるような、強権的な宣教を望んではいなかったのです。
みっつ目。
「実はこの世界の権力、繁栄というものは、私に任されていまして、悪魔が与えたいと思う人に与えられるんです。あなたが私を拝むなら、全部、あなたにあげましょう。さあ、あなたは世界の王だ。人間は王に逆らうことはできず、皆、簡単にあなたの前にひれ伏して、何でもいうことを聞きます。これで宣教は大成功、間違いなし!」
これはわかりやすいですね。つまり、権力によって、人びとを従わせなさいということです。これは人類の歴史が始まって以来、今でも使われ続けている方法です。自分の考え、意見を通すために、権力を握ろうとする、行使しようとする。
けれどもイエスは言われます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」
この悪魔とイエスとのやりとりから、大切なことがわかります。この世界の権力は実は悪魔のものであって、悪魔を拝むことによって、与えられているのだと。では現代の各国の権力者たちは悪魔を拝んでいるのでしょうか?もちろん、権力者たちは直接、悪魔の像を拝む、などということはしていません。でも、権力欲、物欲など自己中心的に行動する時、人は知らず知らずの内に悪魔の思いに従っていて、間接的に悪魔を拝んでいることになるのです。宣教も自分の名誉心や何らかの欲望で行うならば、そうなります。宣教は自分をただ神の道具として、神の国の実現のために行うものです。
イエスの宣教は出会った人、一人ひとりの幸せ、救いを求めての旅であったと思います。その宣教の在り方をイエスは悪魔を拒否することによって確立したのです。