2025年6月1日 主の昇天(C年)のミサ 説教の要約

《宣教としての主の昇天》

昇天の祭日2025

 

日曜日のミサに与るたびに、信徒信条を唱え、「三日目に、死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座につき。」という信仰を伝えます。

イエスは天の国に戻り、今は父である神と共にいます。 これが、主、イエスの昇天という今日の私たちが祝う真理です。

主の昇天に関しては、第一朗読は、単に「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と述べています。 エペソ人への手紙によると、イエスが神の「天の右の座」にいるということです。 ルカ福音著者はこのように書きました。イエスが「天に上げられた」と。聖書朗読には同じテーマがあります。イエスが上げられるということです。

イエスは、昇天前に使徒たちに別れの挨拶をするとき、次の言葉を話しました。 「私が去って行くのは、あなた方のためになる。」 「あなたがたは悲しむが、悲しみは喜びに変わる。」 「私にすがりつくのはよしなさい。ガリラヤに行きなさい。そこで会おう。」と。

「私が去って行くのは、あなた方のためになる。」というイエスの言葉をどのように理解するのか? イエスの去って行くことがどうして喜ばれるのでしょうか? 大切な人が亡くなったからといって、あなたは喜びますか? イエスが御父のもとに戻ったという観点から、昇天の意味を理解しようと試みてみましょう。

私たちが毎日それを経験しているのに、これは説明するのが難しいことです。経験を分かち合わせてください: 三人の息子を持つ友達がいます。子供たちが大学を卒業した後、2人は海外で働くことを決めました。 結婚後、長男は自分の家族を築き育むために家を出ました。 今、彼らは世話をする子供がいなくなったので、その家はまるで、空っぽの巣のようだと感じました。 辛い別れを体験しました。これは本当に簡単なことではありません。

 

「時間とともに、すべてのものを癒す」と多くの人はよく言います。 時間が経つにつれて、友達の孤独と痛みはなくなりました。 彼らは、子供たちが本当に成長し、自分で決断しなければならないという真実を受け入れました。 つまり、結婚や家を出ることなど。それは現実です。子供がいないので、友人たちは新しい道を切り開きました。 今、献身的に自分たちの小教区の奉仕をしています。 小さな畑を耕し、さまざまな種類の野菜を植えます。子供たちの 不在は彼らに新たな目的と使命を与えました。 それによって、成熟したのです。本当に、悲しみは喜びに変わりました。

きっとあなたがたも同じ経験をしていると思います。 別れ、去ることは辛いけれども、人生の一部です。 取り残された人々は、その経験の中に贈り物を見つけるでしょう。 イエスの昇天は、使徒たちの人生に変化をもたらしました。 彼らは町にとどまり、約束の実現を待ちました。 町にいる間、使徒たちはイエスの言葉と行いについて考える機会がありました。 それによって、貧しい人々や力ある人々に奉仕したイエスについての彼らの知恵は深まり、彼らはイエスが託した使命を果たすための新たな力と目的を見つけました。「あなたがたは、これらのことの証人となる。」とイエスは言われました 。使徒たちはイエスの名によってエルサレムから宣教するために出かけました。

イエスの昇天を祝うことは、私たちの使命、責任を思い出すことです。その使命は言葉と行いによって愛を説く人となることです。

兄弟姉妹の皆さん、 「教会の今の現状に満足しており、これまでやってきたことをそのまま続けていきたいでしょうか。」 信頼性の高い活動が沢山あります。もう慣れました。 あなたがたにとってはそれで十分ですか?そのままでいいと思っていますか? どのようにして次の世代、特に皆さんの子供たちや若者、そしてキリストを知らない人々に信仰を伝えればよいのでしょうか。

主イエスよ、私たちが希望のうちに生き、あなたの愛のメッセージを他の人と喜びを持って分かち合えるように助けてください。その恵みを与えてください。

 

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