2025年2月16日 第6主日(C年)のミサ 説教の要約

µ主に信頼する人々は幸い

6th Sunday Year C

 

ある土曜日の夜のことですが。叙階されたばかりの司祭は、大聖堂教会で日曜日の説教をするという突然の頼みを司教から受けました。 「私はこれまで、司教様のように沢山の信徒に説教したことがありません。そして、何も準備していません! どうすればいいの?」神父様が尋ねると 司教は答えて言いました。「大丈夫よ、主を信じなさい。ただ主を信頼しなさい。」

その夜、若い司祭はインスピレーションを求め探すために、司教様の聖書を捲りました。 偶然司教が聖書に挟んでいたコンピュータで書いた説教の原稿を見つけました。 読んだ後、彼はとてもいい説教だと思っていたので、翌朝のミサで、それについて伝えることにしました。 司教の原稿を前にして、若い司祭は信徒を非常に喜ばせ、自分の年齢を超えた知恵に満ちた説教をしました。

ミサが終わって、大聖堂を去ると、多くの信徒たちが立ち止まって優れた説教で若い神父に感謝しました。 それから、司教様も彼の方にいき、話しました。「君は今夜私が話す予定だった説教をした。では、どうすればいいの?」 「心配は要らない、主を信じてください。ただ主を信頼してください。」と若い神父様は言いました。

兄弟姉妹の皆さん、今日の朗読のテーマは「主を信頼せよ」です。 エレミヤ、預言者は、人間の力を信頼しないように警告していました。 預言者は人間を信頼する人々はまるで、荒れ地の裸の木のようで、生き残るのに苦労していると例えていました。 これは、自分自身あるいは他人に頼ると、不安感や不快を感じる可能性があることを示しています。

「貧しい人々、悲しむ人々、飢え渇いている人々は幸いです。」とイエスは福音の中で、言われました。それは彼らが悲惨な状況の内にいるからではなく、むしろ主に信頼を置いているからです。このような瞬間に、神は彼らの力であり、彼らに憐れみを示してくださいます。 福音書では、イエスが群衆を見て、彼らを憐れんだという話が何度も語られています。本当に神は 思いやりに満ちあふれています。それで、神は 彼らの唯一の希望です。

時々、私たちは皆、暗闇と試練を経験します。 そのような時、私たちは神の存在よりも神の不在を感じます。 そして、これは私たちにとってつらい経験で、神の愛を疑います。

兄弟姉妹の皆さん、困ったときは、多分、孤独な心を持つ人々を慰めるために「主を信頼しなさい」「神様に祈りなさい」「希望を持ち続けなさい」と言うかもしれません。私たちはその言葉を言うべきではないと心理学者は言います。 それは危険です。 それはトキシック・ポジティブと呼ばれます。 困ったときは、相手が自分の気持ちを表現できるようにし、それを認めるべきです。

けれども、自分の気持ちを伝えることは多くの人にとって簡単なことではありません。 それは信頼や自信を要求します。様々な理由で、私たちは殆ど、信頼するのが難しいと感じています。信頼は自信を意味します。 私はあなたを信じています、 だから、私は、たとえ告白した後、あなたが私を嫌うかもしれないとしても、あなたに自分の真実について伝えます。要するに、信頼のために私の弱さや傷つけられやすいところをあなたに見せたのです。

神との関係において、私たちは祈りを通して信頼を表現します。 自信を持って、私たちは祈りで神に心を注ぎ、神が私たちの願いを叶えてくださいますように願っています。

主よ、私たちが自分の力ではなく、あなたに信頼するのを助けてください。

 

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