主の奉献
4th Sunday Year C
今日の主日、私たちの主の奉献は、教会における古代のお祝いです。
この日、多くの小教区で蠟燭が祝福されるため、キャンドルマスとも呼ばれます。キリストはこの世の光であり、すべての人々の光であるとこれらの蝋燭 は私たちに思い出させます。 初代教会では、人々は夕方に集まって、蝋燭の行列をしました。 これはまだ多くの教会で行われています。
主の奉献は、私たちに主イエスへの清めと献身という2つのとても大事な教訓を教えてくれます。 マリアは息子を産んでから40日後、モーセの律法を果たして、そして、ヨセフと一緒に自分たちの息子、イエスを神にささげるために神殿に行きました。 モーセの律法は、彼らの生活を導いたものでした。 そして、家の中に流れていた雰囲気は信仰だったと思います。 きっと、イエスは、彼らの家にそのような雰囲気を感じたでしょう。
ルカ福音著者によると、マリアとヨセフは、一般的な動物の犠牲の代わりに、彼らの最も貴重で価値のある宝物、ひとり子イエスを父である神に捧げたと言うことです。 貧しさにもかかわらず、彼らは心から捧げ物を御父に捧げました。
主の奉献は、私たちが自分自身を神に捧げるように招いています。 シメオンとアンナ、二人の年老いた預言者は、献身的に自分自身を神に捧げました。そして、私たちもまた、自分自身を神に捧げることを強く勧められています。
今日、誰に自分を捧げるのか、自問してみましょう。 具体的には、私たちはどのように自分を神に捧げるのでしょうか。
兄弟姉妹の皆さん、私たちの生活の中で、この真実を思い出していただけますように。 洗礼の秘跡を受けたとき、私たちはすでに自分自身を神に捧げていました。 私たちは御父にいいます。 「私はあなたのものであり、あなたは私の父です。 私はあなたのものです。私にはただ一人の主人がいて、それは天におられる父である神です。」洗礼によって、私たちは神にはい、信じると言う意味で、言いました。この「神へのはい」によって、私たちは神に反するものに対してははっきりにノーと言います。ノー退けると言う意味です。 それは、すべての不正、すべての悪、すべての嘘、貧しい人々、神の小さな人々に対するすべての抑圧と侵害に対して、そして、すべての不敬虔なことに対して明らかにノーです。
もう一つ、私たちがミサを祝うたびに、神への献身を新たにする機会が与えられていることを、あなたがたがご存じかどうかはわかりません。 ミサは確かに、私たち自身を犠牲と捧げ物として神にささげる時です。 祈りましょうと司祭が言うとき、私たちは静かになり、私たちは祈りの中で神に自分自身をささげます。 奉献の時、奉献箱にお金を入れると、そのお金は私たち自身を象徴しています。神への贈り物は私たちの寛大さの鏡です。祭司がパンとぶどう酒を持ち上げるとき、私たちは父である神へのイエスのささげ物に参加するように求められます。 そのことを意識していただけるといいのですが。 イエスをパンの形でいただけるとき、私たちは神への犠牲であるイエスと一つになります。 これらは、ミサで神への捧げ物を新たにするように求められる瞬間です。 聖体はイエスの捧げ物であるだけでなく、弟子たちの共同体としての私たちの捧げ物でもあります。
兄弟姉妹の皆さん、この習慣をつけましょう:主イエスよ、マリアを通して、あなたの御心のすべての意志のために、今日の私の祈り、仕事、喜び、苦しみをあなたに捧げます。