2025年4月6日 四旬節第5主日(C年)のミサ 説教の要約

《 新しいことを私は 》

5th Sunday Year C

兄弟姉妹の皆さん、本当に、春が来ました。感じていますか?今日はお花見日和ですね。

春は新たな始まりの季節です。 新卒生は就職し、歓迎されます。新入生は、選んだ学習環境で入学式に出席しました。 明日から新学期が始まります。「あんぱん」という新しいNHK朝ドラは先週の月曜に始まりました。面白そうです。野球の試合も始まったばかりです。 私たちの周りの世界はほとんど、花が咲き、鳥がさえずり、蜂のブンブンという羽音で生き返り始めます。 何か新しいものがあることを私たちの周りは話しているようです。

ここには、新しいものよりも古いものを好む人はいますか? 多分、私たちの年配の兄弟姉妹は、古い歌や古いやり方が好きかもしれません。 パンデミックの前の生活に戻りたいと思っている人はまだいると思います。 困難の時、人々はすぐに古き良き時代を振り返ります。過去のことを思い出す事は何も悪いことではありません。実は、効果的です。しかし、長くしない方がいいです。さもないと、現実逃避になります。現実に直面したくないのです。新しい現実を受け入れ、その良さを認識することが挑戦なのかもしれません。

兄弟姉妹の皆さん、新しいことの点から今日の聖書朗読を理解しましょう。「見よ、新しいことを私は行う」イザヤの予言はこのように書き、その言葉を説明します。「私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥も私をあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、私の選んだ民に水を飲ませるからだ。」神はご自分の選ばれた民のために何か新しいことをなさり、現在もそれをなさっています。私たちはそれを信じなければなりません。

聖パウロにとっては、キリストを知ることは古い道を捨てて、新しい人生を始めることです。 それは回心し、キリストを信じるということです。回心の道とは、新しい価値観で、新しいライフスタイルで、新しい行動で、新しい人生ということです。キリストを得ることは新しい命を得ることです。永遠の命につながっています。

福音書はヨハネ福音著者から取られています。 姦通の現場で捕らえられた女の話です。人々はイエスの方にその女を連れて行きました。彼らはイエスに言いました。 「先生、この女は姦通をしているときに、捕まりました。」彼らはその女性を非難しただけでなく、イエスを試そうとしたのです。 彼らの心の中には悪の傾きがありました。それに対して、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とイエスは言われました。集まっていた人々はだんだんといなくなり、最後はだれもいなくなりました。しばらくして、イエスはその女に言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してならない。」と。女に慈しみをお示しになりました。

ここでイエスは私たちに新しい行動、新しい態度、罪人への新しいアプローチを示されています。それは慈しみ、広い心です。慈しみは許す覚悟で、 罪人が回心できることを確認する力です。私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさいという新しい掟をイエスは最後の晩餐の時、弟子たちに伝えました。

この四旬節の時に、私たちは古い道、罪深い道を捨てて、キリストの示された新しさを受け入れましょう。もしも、私たちが本物の信徒なら、人生で間違いをした人々に対する思いやりは私たちが示すべき態度です。彼らを許します。私たちは、彼らが新たなスタートをする能力を信じています。 私たちは誰も非難せず、むしろ弱い人々に助けの手を差し伸べます。

この聖年にあたり、困難な時に神が私たちの力と慰めとなり、私たちのために何か新しいことをしてくださり、 道を開いてくださると願っています。

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