2025年7月20日 年間第16主日(C年)のミサ 説教の要約

《 人を第一に 》

16th Sunday C

2025.7.20ミサ説教

私が日本語を勉強していたとき、教科書の章の1つに「挨拶は心のパスポート」というタイトルがありました。この章は、人間関係において、挨拶の重要性について語っています。 言うまでもなく、非常に重要です。

フィリピンなど他の国のレストランやお店に入ると、すぐにスタッフが近づいて挨拶をします。 「おはようございます、何にいたしますか?」 「この店のお勧めはいかがでしょうか?」 「こんにちは、パウロと申します。今日はあなたの係になります。」 そして、「メニューを見て、何を注文しようか考えている間に、飲み物は何にいたしましょうか?」 注文した食べ物を持ってきた後、数分後にウェイトレスが戻ってきて、「食べ物はお口にあいますか?すべては大丈夫ですか?」と訊きます。食事が終わって、帰ろうとしているとき、 一斉に「また来てください」と言われます。その 挨拶は心から来ると思いますか? 彼らは本当に本気で言っているのでしょうか? それをおもてなしと呼ぶのでしょうか?

おもてなしについては私より、皆さんの方がよくご存じです。おもてなしは日本の文化です。電車の清掃、鉄道員の丁寧なお辞儀、優しい運転手、デパートの開店儀礼など、日常生活に見られます。日本のおもてなしとは、お客様に対する心からのケアを意味します。それは心のこもったサービスだと理解されています。

本日の聖書朗読はおもてなしという善を強調しています。イスラエルの宗教的な古い時代の価値観でした。アブラハムが天幕の前に立っていた三人の見知らぬ人を見たとき、丁寧にひれ伏して、温かく歓迎し、足を清めるために、水を差し上げ、豪華な食事と休む場所を用意しました。 何よりも、アブラハムは見知らぬ人に対して、親切で、敬いの心でテントに迎え入れたのです。本当に、寛大で素晴らしい亭主でした。

アブラハムのおもてなしは自分の信仰から出るものでした。 知らないうちに天使たちをもてなしたかもしれないという、深い信念で彼はもてなしをしました。アブラハムの模範から、 見知らぬ人を歓迎することは決して無駄ではなく、私たちの優しさを受けた人は、報酬は必要あ

りませんが、思いがけない祝福をもたらすかもしれないし、他人、特に見知らぬ人に示されるあらゆるもてなしは、神に見られることを学ぶことが出来ます。

イエスを家に迎え入れたマルタとマリアもおもてなしを示しました。 マルタは食事の準備に忙しくしていましたが、マリアはイエスの足もとで話を聞くために、時間を過ごしました。マルタが、何も手伝わないマリアのことでイエスに不平を言いうと、 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。マリアは良い方を選んだ。」とイエスが言われたとき、彼は彼女に、自分の優先順位を知るべきだと思い出させました。 彼女はイエスを優先すべきでした。イエスは親しい友達でした。長い旅で疲れていました。多分、長い間 、彼らは会っていなかったかもしれません。 彼女もイエスの話に耳を傾ける時間を持つことができるように、余計な準備をすべきではありません。 おもてなしは、ただサービスだけでなく、側にいることにも表れます。

先週の日曜日、私たちは展示会を開き、同時に平和について分かち合いました。 教会のリーダたちは、力いっぱいその活動の準備をしていました。 彼らと参加してくださったすべての方々に感謝しています。 控えめに言っても、その分かち合いは成功しました。 それは彼らの積極的な参加のおかげでした。 平和について考えると、私たちが本当に平和を願うなら、特にそれが私たちの家族、友人、そして私たちのグループの人々のためだけでなければ、おもてなしが答えになります。私が最初に、ウェイターやお店での挨拶について言ったように、おもてなしとは、単に良いサービスではありません。 おもてなしとは、人々を第一にし、私たちが人間であり、この土地はすべての人のためのものであることを認めることです。私たちはこの世に生きています。ですから、私たちは終わりのない平和を願い、おもてなしをしています。