2025年8月10日 年間第19主日(C年)のミサ 説教の要約

《 恐れと信仰 》

19th Sunday C
2025.8.10ミサ説教

恐怖は聖書によく出てくるテーマです。その重要性は旧約聖書と新約聖書の両方で見られ、預言者や祭司、犠牲者や抑圧者、弟子、否定者、疑いを抱く人々によっていつも語られています。天使は、マリアとヨセフのような特定の選ばれた人々に挨拶するために、それを使用しました。

数日前にロシアで大地震が起きたとき、日本当局は高さ3メートルの津波が発生する可能性があるため、直ぐに市民に高台に行くよう警告しました。 アメリカに住む叔母は、生放送のニュースで津波の警告を聞いた後、怖がって私に何回も電話をかけて、私に通じなかったので、妹に電話をかけ、後に津波のことを話してくれました。姉に「大丈夫だよ。恐れることはない」と言いました。このようなニュースを聞くと、いつも恐怖を感じます。地震に慣れている人々でもそうでしょう。

私たちは皆、それぞれ恐怖を持っています。 私たちは孤独、見捨てられること、拒絶されること、皆の前で話すこと、病気、死ぬことを恐れています。貪欲や嫉妬のように、恐れは破壊的な感情です。 認識された危険があるので、私たちに不快や不安を抱かせます。もしも、恐れが大きいなら、私たちは活動をしないし、何もできないと感じます。しかし、私たちには 少しの恐れが要ります。 立ち止まって準備をさせてくれます。

多くの人々によると、恐れはキリスト的使徒職の敵だということです。イエス・キリストの口から絶え間なく出てくる言葉の一つは「恐れることはない」です。本日の聖書福音では、イエスは弟子たちに言われました。「恐れるな。」と。神の国は彼らのものなので、喜ぶように促しました。「あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」と。弟子たちは神の国に属しているので、信仰によって生き、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない、富に心を置かなければなりません。

兄弟姉妹の皆さん、恐れがこの不安な世界に、人間の生活にも、常に、そしてこれからもあります。 確かに、私たちが答えなければならないのは、次の津波や台風、地震がいつ来るのか、商品の物価の上昇がいつ止まるのかということではなく、恐怖に包まれた時にどうすればいいかということだろう。

ベトナムの有名な人であるニャット・ハンさんは次のように述べています。「恐怖の時には、熟考することを身につけ、そして、それをする必要があります。私たちは恐怖や不安の動きに注意を払いながら、自分の心の深い望み?を思い出し、それに調和をもたらす必要があります。」と。熟考することは祈りです。 祈りを通して、私たちは重荷から解放することが出来ることに気づきます。それから、自分の平和と強さを見つけるでしょう。

だが、第二朗読は、私たちに信仰を持ち、アブラハムの模範に倣うように促します。 主がご自分に従うように頼まれたとき、アブラハムは主への完全な信頼を示しました。 彼は自分の故郷から離れ、約束された息子を待ち、その後、息子を神に捧げました。 要するに、アブラハムは計画がはっきりしないにもかかわらず、ただ従ったのです。

信仰によって生きるということは、明確な計画を持ち、安全な地面を踏み、途中で危険に向き合わないという意味ではありません。 それは神の民に対する約束ではありません。神の唯一の約束は、私が終わりの日まであなたがたとともにいて、私の名はインマヌエルで、神は私たちとともにおられるという意味です。 それが信仰の本当の意味であり、神は私たちとともにおられるということです。 信仰は、神が私たちを暗闇の中に一人残さないという希望に根ざしているべきです。神は私たちと共に歩み、途中で、私たちに力をくださいます。

兄弟姉妹の皆さん、神は私たちの恐れを取り除くのではなく、その中を私たちとともに歩んでくださるのです。 恐怖の中で、私たちは時々神のおられることを感じませんが、静かに神は私たちとともにおられ、見守ってくださいます。 神が私たちに恐怖に向き合うのに、十分な力を与えてくださると信じましょう。 この不安な世界に生きる人々として、私たちは恐怖ではなく希望に根ざさなければなりません。