2025年8月3日 年間第18主日(C年)のミサ 説教の要約

《 貪欲に注意 》

18th Sunday C
2025.8.3ミサ説教

フィリピンの大学の卒業式に 招待されたゲストスピーカーは、卒業生たちにこう言いました。 「もしも、お金があなたがたの唯一かつ永続的な目的であるなら、あなたがたは人間になろうとする必要はありません。あなたがたが知っているように、富を手に入れる最も簡単な方法は、近道をし、権力者と協力し、他の人を搾取することです。」

お金が多ければ多いほど幸せになるという話がありますが、 多くの人がそれを信じて、それによって、生きています。そのため、人々は多くのお金を得るために一生懸命働いています。 彼らは、お金を持っているか、お金を使うか、あるいはその両方によって幸福を見つけることができるかのように生きています。

彼らは間違っています。 貪欲は限界がないという一つの真実を彼らは忘れてしまっています。貪欲が私たちの生活にどんな影響を及ぼしているのかを、たまにしか振り返りません。赦しの秘跡を受ける時に、それについて神父様に告白しますか。

貪欲は私たちに破壊をもたらします。ルカの福音書で、イエスは人々に言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさない。」と。そして、この言葉で話しを終えました。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも出来ないからである。」と。 つまり、人はこの世で多くのものを手にして、それが幸福を与えるかもしれませんが、それで、満足を感じるわけではありません。 それに、その幸福はそんなに深くないし、一時的なものにすぎません。

イエスはご自分のポイントを明確にするために、成功したお金持ちについての例えを話されました。お金持ちは自分に言いました。 私に必要なものはすべて持っています。私はとても豊かです。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまいます。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。」 つまり、周りすべてを完全に忘れてしまいました。 彼は自分のことだけを考え、自分の幸せだけを心に残して、他のことに対して、無関心でした。その態度に対して、「愚か者よ。今夜、お前の命は取り上げられる。」と神様が話されたとイエスは言われました。 金持ちは貪欲で、すべては大丈夫だったと思ったので、この世を去って行くという真実を完全に忘れてしまいました。そのため、「すべては空しい。」

私たちは貪欲を、おもにお金を貯めたいという過度の欲求と考えていますが、権力、食べ物、富、物質的なものに対する強い欲求も貪欲とも呼ばれます。 貪欲とは、まだ足りないという感覚です。 貪欲な人は、すでにたくさん持っているにもかかわらず、まだもっと欲しがっています。 つまり、欲求は限界がありません。

貪欲には嫉妬という双子の妹がいます。 嫉妬とは、私たちの欲しいものを持っている他の人に対する貪欲さです。 人生を悲劇的なものにしたいなら、人生に貪欲と嫉妬を歓迎した方がいいです。

兄弟姉妹の皆さん、この貪欲というテーマを、私たちの平和月間の行事に結びつけさせてください。 貪欲は個人的な罪だけでなく、社会的な罪でもあります。 国や人のグループが過度に権力やお金を追求する場合、その行為は罪と考えられる可能性があります。 お金、財産、富、遺産をめぐる紛争によって破壊された人間関係、つまり家族、兄弟、夫婦、友情をどれほど多く見てきましたか。 貪欲は利己主義、過度の自己愛から来るものです。 貪欲がある場所では、争いはありうることです。 それは世界の多くの不正の根源です。 小さな人々の声は聞こえません。 貪欲な人は弱者や貧しい者を圧迫します。 それのせいで、社会にはいつも不正と腐敗があります。 人々が権力の座にとどまりたいと思う理由でもあります。 本当に、平和を願うなら、寛大さと感謝の気持ちを育みましょう。

 

慈しみ深い父よ、私たちがシンプルな生活をし、日常生活の中であなたの寛大で愛情深い手を見るのを助けてください。