3月15日のミサ(四旬節第3主日)

3月31日(火)までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します。今週も各自ご自宅などでお祈りいたしましょう。

第一朗読

出エジプト記(出エジプト17・3-7)

 〔その日、〕民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」

モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。

 「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

 モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

 

第二朗読

使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・1-2、5-8)

 〔皆さん、〕わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 

福音書

ヨハネによる福音(ヨハネ4・5-42)

 〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへとやって来た。

 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。

 

福音のメッセージ

「生きた水」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 ヨハネ福音書の特徴のひとつに、イエスと登場人物である個人や群衆また弟子たちとの間でのちぐはぐな会話があります。たとえば「イエスとニコデモ(3:1-21)」ではイエスが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない(3:3)」と言ったのに対してニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか(3:4)」と問いかけ、明らかに会話がかみ合っていません。群衆との間では、ヨハネの聖体論ともいえる「命のパン」をめぐるイエスの教え(6:22-59)におけるイエスのことば「わたしは命のパンである(6:48)」に対して「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか(6:52)」と互いに激しく議論し始める始末にさえなります。

 弟子たちに至っても、ラザロの死についてイエスが「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く(11:11)」と言ったのに対して「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう(11:12)」ととんちんかんな答えを返しています。

 このようなヨハネ福音における会話の行き違いを、亡くなられたイエズス会の小林稔神父様は「登場人物がイエスの二重の意味を持った言葉を聞いて、(イエスが)意図されたのとは別の意味で解すること、そのような(ヨハネ)福音書の著者の描写は「誤解のモチーフ」と呼ばれ、著者が話を別の次元に展開するための契機になっている(岩波書店「ヨハネ福音書のイエス」93頁より)」と説明されています。この「誤解のモチーフ」がもっとも効果的に使用され、すばらしい救いの物語になっているのが、今日の「サマリアの女」と呼ばれている福音です。

 他の紹介した箇所では誤解によって生じたイエスと登場人物たちとの断絶は埋められることなく、「命のパン」の箇所における群衆では「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか(6:60)」と言って、決定的な決別に至ります。けれども「サマリアの女」では最初は食い違っていた会話が次第に近づいてきて、最終的には「この方がメシア(4:29)」という信仰宣言に至り、その後この女性は宣教者となって自分の町のサマリア人たちにそれをあかしして、多くの人を救いへと導くのです(6:28-42)。

 小林神父様が書かれている「話を別の次元に展開する」の「別の次元への展開」とは「地上的、この世的な次元」から、「天上的、霊的な次元」への展開であると思います。イエスと人びととの誤解の原因は「視点」の違いにあると思います。イエスが「霊的」な視点に立っているのに対して、人びとは「この世的、物質的」視点に立っているといえます。

 「サマリアの女」においてそのポイントとなる誤解は「生きた水」ということばです。「生きた水」ということばは当時のユダヤでは「溜まり水でない、流れている新鮮な水」を意味しました。それは川であり、また湧き出る泉のことです。イエスが「あなたに生きた水を与えたことであろう(4:10)」と言われたのに対してサマリアの女は「あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか(4:11)」「ここにくみに来なくてもいいように、その水をください(4:15)」と答えます。

 実は女は次のようなことを言っていたのです。私の意訳です。

 「この井戸は湧き出る泉ではありません。溜まり水です。ですから、くむ物がなければくめません。しかも深いので、くむのにたいへん手間がかかります。ですから、そんな手間がかからない、くみ上げる必要のない、湧き出ている泉の場所をご存じでしたら、教えてください。そこにくみに行かせてください」

 サマリアの女はあくまでも、地上的な、目に見える現実世界の「生きた水」を求めているのです。そんな女にイエスは彼女の素性を当ててみせます。女はそれによってイエスが「預言者」ではないかという考えに導かれます。そこから女は「礼拝」という宗教的次元に開かれていきます。

 サマリア人とは北イスラエル王国の生き残りの人びとの子孫です。紀元前931年、ダビデ王が打ち立てた王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。南ユダ王国はダビデの血統に属し、エルサレムを首都とし、その地にあった神殿での礼拝を続けました。北イスラエル王国は後にサマリアを首都とし、エルサレムの神殿に対抗してゲリジム山に聖所を置き、そこで礼拝を続けました。

 サマリアの女が言う「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しました(4:20)」の「この山」がゲリジム山です。そして女性は「預言者」に対してゲリジム山とエルサレムの神殿とを対比して、どちらが本当の礼拝の場所であるのかと問いかけるのです(4:19)。

 それに対してイエスは「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(4:21)」とユダヤ人とサマリア人の対立の原因である両方の聖所での礼拝を否定します。そして「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(4:24)」と新たな礼拝を指し示します。これによって女はイエスをメシアではないかと思い、イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と答えます。ここにおいて、サマリアの女とイエスの会話が断絶から一致へと転換し得たのです。

 ここからわかることはイエスが言われる「生きた水」とは、霊と真理による「真実の礼拝」であったことがわかります。それをはっきりと言われているのが、この後のエルサレムにおけるイエスのことばです。そこではイエスがエルサレムの人びとに対して「大声で言われた」と書かれています。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37b―38)」

 つまりイエスのところに行って、イエスを信じることを通して、真実の礼拝が可能になり、それこそが「生きた水」であるということになります。そこにおいては、礼拝する人が「飲む」だけでなしに、その人の内から生きた水、すなわち「泉」が湧き出て、その人だけでなく、周囲の人びとをも潤おすということになるのです。

 そのようなイエスのもとでのもっともすばらしい礼拝こそが「ミサ」です。ミサに与ることによって、私たちは生きた水の豊かな、あふれかえるような流れに心も体も浸し、そして内から湧き出てくる泉によって、日々の生活の中で出会う人びとに生きた水を分け与えていくのです。

 *「サマリアの女」は女性差別の問題など社会的側面においても幅が広く、信仰的側面においても深い内容を持っています。私のメッセージはその一部分を語ったにすぎません。どうぞネットで「サマリアの女」で検索してみてください。数多くの解説がありますので、そちらも読んでみてください。