3月22日のミサ(四旬節第4主日)

3月31日(火)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

春の訪れとともに、早く収束する事を皆さんと共にお祈りいたしましょう。

四旬節第4主日 聖書と典礼 2020年3月22日

 

第一朗読

サムエル記(サムエル上16・1b、6-7、10-13a)

 〔その日、主はサムエルに言われた。〕 「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。

 

第二朗読

使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ5・8-14)

 〔皆さん、〕あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。―――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
 「眠りについている者、起きよ。
 死者の中から立ち上がれ。
 そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

 

福音書

ヨハネによる福音(ヨハネ9・1-41)

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全くの罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 

福音のメッセージ

「遣わされた者」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 福音書はイエスのことばとわざの単なる過去の記録ではありません。それは福音書を読む人びと、つまり教会共同体の置かれている状況の中で、その状況に今も生きたことばとして、共同体を導き、励まし、養成するために書かれています。そのため、しばしばイエスのことばと行いを共同体の現状に即したものとするために「編集」しています。だからこそ特にマタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書においては同じみことば、できごとが記述されていても、その文言や置かれている文脈が変わってくるのです。それは三つの福音が書かれた共同体の状況の違いから生じているといえます。
 ですからそれは、けっしてイエスのことばとわざの恣意的な「変更」ではありません。聖書を単に歴史学、文献学の研究の対象として考えるのであれば確かにそう言えるのかも知れません。しかし私たちにとって、福音書に限らず聖書は信仰の書なのです。
 それはまた、信仰共同体のための書であるということです。ひとことで言えば聖書は「今も生きて働く復活の主のことば」なのです。復活の主は初代教会の時も、現代の教会においてもなおも、キリストを信じる者たちの中に現存し、働かれ、福音を絶えず「生きたことば」として教会の中で信徒の働きを通して「現在化」されていかれるのです。福音書記者たちはその復活の主への信仰の視点から聖霊に導かれて書き、編集しているのです。何よりもそこには信仰共同体への深い思いがあり、それはまたイエスの思いでもあるのです。

 共観福音書とは取り扱うできごとも編集の視点にも大きな違いがあり、独特な立場から書かれているヨハネの福音には、その側面がもっとも強く表れています。今日の福音もまさにそのような箇所です。ここでは明らかに生まれつきの盲人のいやしという過去のイエスの奇跡のできごとが「初代教会の人びとの共同体の現代」とみごとに重ね合わせられています。そのキーワードとなるのが「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公けに言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである(9:22)」という説明です。実はこれはイエスの生存中にはけっして起こりえないことでした。イエスをメシアと信じる、ナザレ派という人びとが公けに現れてくるのは、イエスの復活後です。何よりも、その人びとを会堂から追い出すことがユダヤ教内で決定されたのは紀元90年代になってからのことだったのです。また、見えるようになった盲人を尋問する人びとの中に、イエスの在世当時、ユダヤ教の指導者層であった祭司たちやサドカイ派の人びとが登場しないことも考えられないことです。ファリサイ派の人びとがユダヤ教の指導者層になるのは70年以降のことです。それはローマ帝国によるエルサレム破壊の時に祭司たちやサドカイ派の人びとが壊滅した結果でした。
 これらのことから明らかにヨハネは福音書が書かれた時代(90年頃と考えられています)、今、自分たちが共に生きている信仰共同体の現代の中にこの奇跡のできごとを置き換えているのです。
 何のためでしょうか?それを解くカギは「シロアム」を「遣わされた者」という意味に変えていることにあります。「シロアム」はアラマイ語の「水道」を意味する「シロア」から派生しています。それは「エルサレムの北方にあるギホンの泉からエルサレムに供給する水やキドロンの谷の水を確保しようとして作られた水道ないし水道網のことを指す・・・水路は水を南のシロアの池に引き込み、そこは洗い場になっていた(新約聖書注解Ⅰ(日本基督教団出版局)469頁より)」
 「シロアム」は「水道」という意味で、「遣わされた者」という意味ではないのです。実は、ヨハネはそのような当時のユダヤ人の誰にでもわかるような「間違い」を意図的に行ったと考えられます。そこにこそヨハネのメッセージがあります。ヨハネは見えるようになった盲人に洗礼を受けた人の姿を投影したのだと思えるのです。それによって洗礼を受けることがどういうことなのか、またそれを受けた人がどのように生きるべきかをヨハネは信仰共同体に伝えたかったのです。
 「世の光(9:5)」といわれたキリストの洗礼を受けることは、闇の中にいた人が光の中に連れ出され、見えるようになることです。生まれつき、つまりそれまで人生の意味が見いだせずに生きてきた人がはじめて生きる意味を見い出したことといえるでしょう。そのあと、見えるようになった人は人びとの中であかしをしていくのです。けれども、見えるようになった人はいきなりすべてが見えるようになったわけではありません。最初の尋問においてイエスのいる所を聞かれても「知りません」としか答えられません。それが人びとにあかしを続けることによって、その人自身の信仰も成長していきます。最後には「あの方が神のもとから来られた(9:33)」と反対者たちに堂々とあかしするようになるのです。
 この受洗と信仰の成長の過程はまさにヨハネの信仰共同体に当てはまるものです。彼彼女らは受洗した後、たびたび会堂から追い出され、ファリサイ派の人びとから尋問されていました。そんな信仰の仲間にヨハネはその中でこそ、信仰は成長するのだと伝えたかったのでしょう。

 皆さんにも「シロアム」を「遣わされた者」と意味づけたヨハネの意図がわかってきたことと思います。「シロアム」当時「洗い」つまり「清め」の水場であった池は「洗礼」を表し、洗礼を受けた者はその場から、イエスによって「遣わされる者」となるのだ、ということです。しかも迫害の困難の中へと。けれどもその迫害こそが信仰を育てるのだということをヨハネは伝え、信仰共同体の仲間を励ましたかったのです。
 もしかしたら、ヨハネの共同体では当時の「シロアの池」で実際に洗礼を授けていたのかも知れません。だとしたら共同体の人びとはその池を「遣わされる者(受洗者)の池」と呼んでいたことでしょう。