3月29日のミサ(四旬節第5日)

4月8日(水)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。
今回も神父様の福音のメッセージが入っております。皆さんと共に早く収束する事をお祈りいたしましょう。

四旬節第5主日 A年 聖書と典礼 2020年3月29日

第一朗読

エゼキエルの預言(エゼキエル37・12-14)

 主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。

第二朗読

使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・8-11)

 〔皆さん、〕肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

福音書

ヨハネによる福音(ヨハネ11・1-45)

 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

福音のメッセージ

「イエスは涙を流された」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 福音書では、イエスのことばとわざが伝えられていますが、そのことばを発した時、そのわざを行った時、イエスがどのような表情をされていたのか、どのような思い、また感情を抱かれていたのか、ほとんど伝えられていません。その中にあって、今日の福音はイエスの表情や思いが非常に生々しく記述されている箇所であるといえます。
「心に憤りを覚え、興奮して(11:33)」「涙を流された(11:35)」
「再び心に憤りを覚えて(11:38)」「大声で叫ばれた(11:43)」
 二度も繰り返して書かれている「心に憤りを覚え」ですが、皆さんの中にはなぜ「憤り」なのかと疑問に思われる方が多いのではないでしょうか。イエスはラザロの死を嘆き悲しむ人びとを目の前にしているのです。むしろ「悲しみ」こそがその場にふさわしい感情なのではないかと。この「憤り」については、イエスは「死」に対して憤りを覚えられたのだという解釈が一般的です。

「イエスが「心に憤りを覚えた対象」は、人間をやり場のない悲しみに突き落とす死だと考えられます(雨宮慧神父「主日の聖書解説〈A年〉」)」

「イエスはこういう死の事実、悪魔の支配の事実に対して怒りと興奮をもって臨んでおられるのであり、またその悪魔の支配の前になすすべをもたず、ただ嘆いている人々に対して憤りを覚え興奮しておられると解すべきであろう(松永希久夫牧師「新共同訳新約聖書注解Ⅰ486頁より」)」

 私も上記のような解釈がヨハネのメッセージであろうと思います。ただ私はこの福音の箇所を解釈ではなく、黙想する時、もっと多くの人びとの嘆き、悲しみ、それは天地をゆるがす叫びとなるような慟哭の叫び、その中に立たれ、泣き、憤りを覚えておられるイエスの姿が立ち現れてくるのです。人類の歴史において数限りなく刻み込まれてきた、いわれもなき苦しみ、誰にどこに向かって怒りを向ければいいのかわからない苦しみ、突然、愛する人が理不尽に奪い去られるような苦しみ・・・。今、私がこの箇所を黙想するたびに眼前に立ちあがってくるのは、今月の11日に発生から9年をむかえた東日本大震災です。特に巨大な津波によって突然、愛する人を失われた方がたに思いが寄せられていきます。
 大切な人が突然、理不尽に亡くなった時、人はその理不尽さに耐えられません。意味もなく亡くなったということに耐えられないと思います。津波による死はまさにそうです。何のために、どうして・・・、と果てしない堂々巡りの思考の中に落ち込むそうです。そして同時に「憤り」に捉われるのだそうです。けれども「津波」では、その「憤り」をぶつける先が、相手がいないのです。相手がはっきりしていれば、その相手を追い詰めることでまだ少しでも気をまぎらわすことができるでしょう。相手に何らかの償いをさせることによって、亡くなった人に何かをしてやれたような思いになれるでしょう。けれども「津波」に対して「憤り」を覚えても、それは出口のないトンネルに閉じ込められていくようなものだそうです。
 もしそのような遺族の方がたの前にイエスが現われたならば、きっとその方がたは悲しみと怒りをイエスにぶつけて、マリアや人びとのようにイエスに訴えられることでしょう。

「主よ、もしあの時いてくださいましたら、わたしの愛する者は死ななかったでしょうに」
「盲人の目を開けたこの人も、津波で人が死なないようにはできなかったのか」

 そして、ラザロの時のように、津波で死んだ人びとが「洞穴」から出て来ることはありません。イエスはただ立ちつくしているだけです。けれども、私の黙想の中で、イエスは遺族の方がたとともに「涙を流され」「憤りを覚え、興奮して」大声で泣いているのです。

 今日の福音の奇跡はヨハネの福音ではイエスがなされた最後の奇跡とされています。ちなみに最初の奇跡は「カナの婚礼(2:1-11)」でのぶどう酒の奇跡です。ある意味、次の奇跡は「復活」です。実はラザロのよみがえりの奇跡は「復活」と対になっていて、「復活」の意味を明確にするためにあるといえます。
 ラザロのよみがえりはあくまでも「蘇生」であって、彼はそれまでの生活に「戻った」だけなのです。その生活はやはりやがて「死」を迎えるものでした。けれども「復活」は以前の生活ではなく、新たな生に向かって別の次元に開かれていくことなのです。それは天に向かって、すなわち父と子と聖霊の愛の交わりの無限の広がりに向かって開かれていくことです。これこそが私たちの天国です。
 そこにおいて、すべての人びとの目から涙がすべてぬぐい去られることを私は待ち望みます。私は黙想の中で、そこにおいて、イエスさまが大きな笑顔で人びとの中におられる姿を思い浮かべます。

 今日は聖書の解釈よりも、個人的な黙想のイメージを書かせていただきました。弁解させていただくと、それは今日の福音がイエスを取りまく情景をとてもリアルに描いていることが契機になっているといえます。