聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ

2020年4月8日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ

♰主の平和

 皆さん、いよいよ明日から、一年間の典礼暦でもっとも大切な典礼、典礼暦の頂点と言ってもよい「聖なる三日間の典礼」が始まります。誠に心が痛みますがご承知の通り、今年は教会聖堂における「聖なる三日間の典礼」に与って頂くことができません。だからといって、この三日間を無為に過ごすことは、キリストがご自分の命を捧げてまで与えてくださった大きな恵みに応えないことで、あってはなりません。6日に皆さんに発信いたしました「聖なる三日間および復活祭への対応について」の中での勧めを参考にして頂き、よき「聖なる三日間」を過ごして頂けることをお祈りしております。

 「聖なる三日間」は旧約の「出エジプト」に替わる新たな過越である「キリストの死と復活」を記念するための典礼です。新約聖書が書かれた言葉であるギリシア語の「記念」を意味する「アナムネーシス」は単に出来事を「思い起こす」だけでなく、その出来事がまた「現存化」するという意味が含まれています。ですから「聖なる三日間」の典礼を執り行うことによって、「キリストの死と復活」が私たちの現在の教会の中に再起し現存するのです。「聖なる三日間」の典礼は少しでも私たちが過去に起こったキリストの死と復活の出来事を追体験し、それによって実現した救いと恵みを、今まさに実現している恵みとして受けることができるように、とてもよく考えられている、すばらしい典礼です。

  明日、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」は、いわゆる「最後の晩さん」を記念する典礼です。ヨハネの福音書はその出来事の始めを次のように書き出しています。

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた(13:1)」

 「この上なく」つまり最上級の、最高の愛をもってということです。最後の晩さんの行われた広間には、このイエスの弟子たちへの「この上ない愛」が満ち満ちていました。最後の晩さんの時間は最初から最後までイエスの「この上ない愛」に包まれていました。それを記念する聖木曜日のミサもまた、私たちへのイエスの「この上もない愛」に包まれているのです。
 その愛を具体的に行動によって示されたのが、弟子たちの足を洗う行為でした。この日の福音はその箇所が朗読されます(ヨハネ13:1―15)。
足を洗うという行為は当時の世界にあっては使用人、多くは奴隷の行う、いわば「汚れ仕事」でした。ペトロにいたっては驚きあわてて「わたしの足など、けっして洗わないでください(13:8)」と自分の師であるイエスに訴えます。イエスは弟子たちの足を洗った後、「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(13:14)」と言われます。これは弟子たちにというよりも、私たち教会にたいして命じられたことばとして受け止めなければなりません。教会はこの世的な組織とはまったく逆の構造を有しているのです。国家や会社は少数の支配者が多くの人びとを支配するという、いわゆるピラミッド型の構造です。けれども教会は逆ピラミッドなのです。上に立つ人ほど、人びとに仕える者とならなければならない、下って(へりくだって)行かなければならない、それが教会なのだと。互いに仕え合うのが教会共同体であると、イエスは身をもって模範を示されたのです。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである(13:15)」

 このイエスの教えを聖木曜日の典礼では説教の後に「洗足式」を行うことで具体的に表現し、会衆に実体験してもらいます。その際に留意しておくべき点は、イエスはユダの足をも洗われたということです。洗われた後で「しようとしていることを、今すぐ、しなさい(13:27)」とユダを外に出すのです。私たちは自分を裏切ろうとしている、また自分を憎んでいる人の足を洗うこと、その人の前でへりくだることができるでしょうか。イエスはそれをも模範として示されたのです。「洗足式」に与る時、もし今の自分にとってそのような人がいるのであれば、イエスのようにその人たちにも仕えることができるための助けを願いましょう。

 最後の晩さんにおいてイエスは聖体の秘跡の制定をされて、私たちに「ミサ」という最大の恵みを残してくださいました。この「聖体」は最後の晩さんを包み込んでいた弟子たち、私たちへの「この上ない愛」が結晶化したものであるといえます。私たちはミサを通して、聖体を通して、今もイエスの「この上ない愛」を実感し、頂くことができるのです。
「聖体の秘跡」の制定は、毎週のミサの中でも奉献文を通して記念していますが、「主の晩さんの夕べのミサ」では特にそれを強く思い起こし、改めて記念、感謝する典礼です。また改めて、これからの一年を聖体の秘跡と共に信仰生活を送ることを決意しつつ、心をこめてパンとぶどう酒の聖別、聖体拝領に与ります。 
 
 聖木曜日の典礼では最後に「聖体安置式」が行われます。いつもは聖堂内の聖櫃に安置されている聖体を聖堂外の他の場所に運ぶ式です。これによって、最後の晩さんの後、ユダによって率いられてきた大勢の群衆によってイエスが逮捕されたことを記念します。それはこの世的な思いと力によって、私たちからイエスが奪い取られたことを意味します。そのために聖堂の「外」に聖体が運び出されます。イエスは「不在」になります。
その「不在」の間、イエスは弟子たちからも見放され、孤独になって不当な裁判また残酷な拷問を受けていることを、安置所の仮祭壇の前で私たちは黙想します。聖堂の祭壇から覆いを取り外し、祭壇を「裸」にするのも、イエスの不在とともにイエスが全てを奪われて苦しめられている姿を可視化するためです。

 また最後の晩さんの後、逮捕の前のゲッセマネの園での苦しみも福音書を読んで黙想しましょう。

(マタイ26:36―46、マルコ14:32―42、ルカ22:39―46)

 「主の晩さんの夕べのミサ」はイエスの愛に包まれた晩さん、聖体の秘跡の制定による、光に満ちたような喜びが、聖体安置式によって一気に暗闇と悲嘆の中に突き落とされていくような典礼です。
 けれども、その暗闇の中にあっても、イエスの「この上のない愛」はけっして消えることなく、人びとを、自分を訴え拷問する人びとをも包み込んでいたのです。どんなに拒否されても、イエスの「この上のない愛」は全ての人に向かって輝き続けていたのです。それが「十字架」に結晶して行きます。

 聖体の秘跡の制定を特別に記念する「主の晩さんの夕べのミサ」は確かにミサに参加してこそ、その意義を深く味わえると言えます。ですからぜひ、可能な方は大阪教区、東京教区が中継するユーチューブでの聖木曜日のミサに与ってください。特にパンとぶどう酒の聖別をいつもよりもよく見つめ、最後の晩さんを黙想してください。そして霊的聖体拝領をしてください。

 また各福音書に記述されている最後の晩さんからイエスの逮捕の出来事を読んで、黙想してください。

祈りのうちに