今の状況にあって聖なる三日間と復活祭を迎えるために

2020年4月7日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

今の状況にあって聖なる三日間と復活祭を迎えるために

♰主の平和

 本日、政府は新型コロナウイルスの感染拡大に備えるため、兵庫県を含めた7都府県に緊急事態宣言を発令することを決定しました。いよいよ外出を含めたさまざまな通常の日々の営みが制限されていきます。その中にあって、大阪教区が聖なる三日間と復活祭において公開ミサを中止したことは適切な措置であったといえます。この日々を単に「耐える」のではなく「すべてのいのちを守るため」に教皇様また全世界の教会とともにキリストの心をもって、積極的に私たちの生活を捧げていくようにいたしましょう。

 けれどもやはり、皆さんにとって聖なる三日間と復活祭の典礼をこれまで毎年、通い続けてきた垂水教会の聖堂で祝えないことは、大きな痛みでしょう。私は今月1日の書面において「今の私たちはバビロンの捕囚時における神の民のような状況」と書きました。この連想を深めていきたいと思います。
 紀元前6世紀初めからバビロニア帝国が南ユダ王国を圧迫し、たびたび攻撃をして来ました。ユダの王たちはバビロニアに屈従しますが、王国最後の王となったゼデキヤが反抗しようとしたことによって、紀元前586年、バビロニアはエルサレムを徹底的に神殿もろとも破壊し、王国を滅ぼしました。そして占領政策として王族、家臣団、知識階級であった祭司たちを主とする多くの人びとを捕囚として首都バビロンに連行し、以後47年間、ユダヤの人びとはバビロンでの捕囚生活を送ることになったのです。
 
 それは民族として、またユダヤ教徒として、大きなアイデンティティの危機でした。まず大きく信仰が揺らぎました。当時の戦争は民と民の戦いだけでなく、それぞれの民が信じる神と神との戦いでした。ですからユダがバビロニアに敗れたということはユダヤ教の神がバビロニアの神々に負けたことになるのです。しかもユダヤ人にしてみると唯一絶対の万能の神が、ライオンの姿を持ったような偶像の神々に負けてしまったのです。「はたして私たちの神はまことの神であったのか」そのような疑問をさえ、ユダヤの人びとは抱き、自分たちのこれまでの信仰生活がすべて否定されたような絶望と虚無に陥ったのです。

 またそれまでのユダヤ教は神殿が中心でした。神殿が聖なる場所であって、もっとも大切な礼拝は神殿でのいけにえの儀式でした。それによって民は神と和解し、つながりを保ち続けることができると考えていました。それらが全て、奪い去られてしまったのです。しかもユダヤ人にとって異国の地は異教の地であって「汚れた土地」でした。神殿で礼拝することができず、異国の地にあってユダヤの民はどのように信仰を守ればよいのか、途方に暮れていました。このままでは、ユダヤの民も信仰もアイデンティティを失い、バビロニアの民族と宗教の中に埋没してしまいかねません(それがバビロニアの占領政策でした)。神の民の歴史の中で最大の災厄であり、存続の危機を目前にしても為すすべもなく、人びとは打ちのめされ、無力感と神から見放されたような絶望感の中に沈み込んでいました。

 けれども結果的に、このバビロンの捕囚がユダヤ教を刷新し、また旧約聖書の編集を最終的な完成へと導いていったのです。それはユダヤの民とユダヤ教を存続させようとして、絶望せずに神に祈り求め続けた祭司たちの働きが大きな力になりました。
 祭司たちの努力のもっとも優れた実りは「安息日」の制度をユダヤ教に導入したことでした。それによって、どのような場所にいようとも関係なく、時間を、生活そのものを聖化することを可能にしました。安息日によって信仰生活にリズムを作りました。バビロンにおける、この世的な価値観に支配された日常に流されないために、安息日には労働をやすみ、俗事の煩いを離れて、神のことばを聴き、黙想の時間を持つ。神のことばによって日々の生活を振り返り絶えず刷新することによって、神殿はなくとも、異国の地にあっても、神と共に生きる生活が可能になったのです。

 今、私たちはそのかつての「安息日」に替わる「主日」に聖堂でのミサに与っての信仰生活を送ることができません。間違いなくミサは私たちにとって、最高の礼拝であり、信仰生活の中心、信仰を生きるための命の泉です。
 けれども、そのミサを豊かにするのは日々の生活の場での祈りであり、黙想なのです。もちろんミサ自体は他の何ものによっても代えられることのできない恵みですが、その恵みをより深く自分の内に豊かにするためには、日々の祈りが必要であり、また信仰を自分のものとし、人生と結びつけるために黙想が必要です。昨日の運営委員会の報告でも触れましたが、どこかで私たちはミサに出ていればそれでいいと、黙想の努力を怠ってはいなかったでしょうか。もっとも、それは私たち司祭の霊的指導が不十分であったためでもあり、皆さんだけの責任ではありません。

 この時を利用して、各自の家庭においてみことばを味わい、それを自分の生活に照らし合わせて黙想することに更なる努力を傾けてみてはいかがでしょうか。それによって、バビロンの捕囚にあった神の民のように、この災厄の時を信仰のための恵みの時とすることができるのではないでしょうか。
 また私たちは日本の教会の民として次のことも忘れず心に銘記すべきです。江戸の禁教令の時代、潜伏キリシタンの人びとは過酷な迫害の中でミサを待ち望みながら、約230年もの間、信仰を守り抜いたことを。

 またユダヤ人は捕囚の前、いつの間にか儀式と礼拝を惰性的に行い、信仰が生活から乖離(かいり)してしまっていました。それを預言者たちは何度も警告しましたが、民は耳を傾けようとはしませんでした。そんなユダヤ人にとって、捕囚の時期は自分たちの信仰をゆっくりと見直す時にもなったのです。
 私たちも今、自分の信仰生活を見直す時であるのかも知れません。

 教皇フランシスコは3月27日、バチカンで無人のサン・ピエトロ広場の前で「ウルビ・エト・オルビ(ローマと全世界へ)」の祝福を祈る前に、神に向かって次のように語りかけられました。

「今はあなたの時ではなく、私たちが見極める時です。大切なことと過ぎ去ることを見分け、必要なこととそうでないことを区別する時です。私たちの生き方を立て直し、主よ、あなたと他者に向かわせる時です(カトリック新聞2020年4月5日発行第4526号一面記事より抜粋)」

 この「見極め」「立て直し」は信仰生活はもちろん、私たち人類全体の今のあり方についても必要であるような気がします。ひとつには今の私たちの際限もなく膨張し、歯止めの利かない消費文化です。そのために地球環境、人間関係が犠牲にされていっていると思います。

 この三日間と復活祭をぜひ、ご家庭でのみことばを通しての祈りと黙想の日々、それを通しての信仰生活の刷新の日々、また全世界の人びとを思い、共に歩む日々として頂きたいと思います。
 この世界を新たにするためであった、キリストの死と復活、新たな過ぎ越しを生きるためにふさわしい過ごし方として、皆さんにこのような祈りと黙想の日々をお勧めしたいと思います。

祈りのうちに