2024年10月20日年間第29主日(B年)のミサ 説教の要約

「仕える人になる」

選挙戦はすでに始まっています。来週の日曜日、皆さんは日本を明るい、より良い未来へと導くにふさわしいと考える候補者を選ぶため、投票に行きます。候補者は自分の主張を大いに喧伝します。彼らは名誉と地位が欲しいし、力あるものとの親しい交流を望んでいます。そのため、彼らはあらゆる約束をします。ある候補者は、日本をかつての繁栄の時代に戻すといい、ある候補者は今の時代により良い改革の実践を明言し、ある候補者は所得の増加と暮らしの安定を差し出します。でも、彼らの主張は単なる言葉に過ぎません。この選挙で入選した人々が、真のリーダーとは国民に奉仕する者であることを理解し、自分たちのために名誉や栄光を望むことではないことを分かって欲しいと願います。

福音書では、 二人の兄弟、ヤコブとヨハネはイエスに願いを言いました。 その願いは、イエスが栄光を受ける時、自分たちがイエスと並んで右と左に座ることです。 彼らはイエスに高い地位、つまり、力を求めました。 実は、彼らは自分たちが何を求めているのか、分かっていませんでした。 そして、イエスはその意味を説明してくださいました。 (杯を飲むこと、洗礼を受けること、苦しみに浸ること) と言うエルサレムで行われる出来事を、イエスはほのめかしました。 それに対して、ヤコブとヨハネはイエスに、「はい」と答えました。 イエスは彼らに、ご自分の苦しみを受ける事が出来るのを約束されました。 イエスは彼らに、偉大さは他の人に仕えることによってもたらされることを教え、彼らにご自分の模範を示しました。 人の子は仕えるために、また、自分の命を与えるために来た、とイエスは説明しました。

簡単に言いますと、今日の福音は、天国で最も偉大な者は仕える者だということについて語っています。 私たちは、キリストの弟子として、名誉ある席に座ることではなく、僕になることに注意を向けるべきです。

兄弟姉妹の皆、一般的に言えば、私たちの多くは、特に困っている人、弱い人、援助を必要としている人を助け、奉仕したいと考えています。 そして、私たちは、受け取るよりも与える方が幸いであり、そのほうがはるかに簡単であることを十分に知っています。しかし、多くの場合、それは私たちの都合に合わせています。 いつ、どのように行うかは、私たちが決めます。 もしそうなら、それは私たちのクリスチャンの奉仕の理解の意味に反します。

私たちの教会と教区共同体を見ると、奉仕の機会がたくさんあることに気づくでしょう。 満たすべき多くのニーズがあります。 毎週土曜日に教会を掃除し、美化してくださる方々に感謝しています。しかし、彼らはまだ助けの手が必要です。 また、ミサの後に飲み物を配り、集いの場を作ってくれる教区民にも感謝します。 彼らは、この小さなジェスチャーを通じて、私たちのコミュニティが生き生きとし、数が増えることを望んでいます。 私たちの教会は、まだ聖歌隊を組織している最中です。 私たちの教会は、若者にも大人にもカテキズムを教えることができる人々も必要としています。 他の国の兄弟姉妹には、どのように関わることができるでしょうか。 彼らに教会の戸を開きましょう。 まず、私たちは彼らを見て、その存在を認識する必要があります。

兄弟姉妹の皆、私たちの教会はあなたを必要としています。 私は、教会の中での自分の適切な位置を特定し、他の教区民と調和するように、一人一人を招いています。 他の人に仕え、助けることこそが、キリスト者、キリストに従う者としての充実感を見出すのです。

今日、教会が呼びかけている「世界宣教の日曜日」についてお話しさせてください。 私たちは、自分の国を離れて日本のような外国に行った宣教師たちを思い出して、彼らのために祈りましょう。 これはまた、宣教の意味と、あなた方がまだ自分たちの国にいるという事実にもかかわらず、どのように宣教師になることができるかを真剣に考える機会でもあります。 宣教は、孤独で、弱く、病気で、老いるという理由で苦しんでいる人々を含む、周辺に住んでいる人々に手を差し伸べています。 宣教とは、ただ良い知らせを説教したり、宣べ伝えたりすることだけではありません。 それはまた、他の人の話を聴いて、判断せずに、黙って、耳と心を持ち、思いやりのあるイエスを証しすることでもあります。

私たちが自分たちのいる場所で、人々への宣教師になりますように。

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