2025年2月9日 第5主日(C年)のミサ 説教の要約

【落胆を克服する】

5th Sunday Year C

心が苦しいとき、私たちはどうしますか? 人々はそれぞれ心の苦しみを解決する方法を持っています。通常、私たちは信頼できる人に、心の中の苦しみを話します。 バーに行って酔うまで飲む人もいます。 また、寝てしまって、起きたときに、すべてが自分の望むようになっていると期待している人もいます。 悲しいことに、人生の悩みに耐えられない人がいます。 彼らは簡単に落ち込んでしまい、絶望しています。彼らにとって、残念なことに自ら死を選ぶことだけが解決だと思い込みます。

数年前、友人が言いました。「神父様、ちょっと話してもいいですか?」 「もちろん、いいですよ。」と私はいいました。「すごく落胆しました」 と、彼から聞きました。 「どうしたの?」 と尋ねると、友人は説明してくれました。「たった今、この罪を告白したばかりで、再び怒りと戦っています。 先日の夜、長男と激しい口論をしました。 大きな声で、彼を怒鳴った。それで、日曜日のミサにあずからなかったのはまだ、長男と和解の準備が出来なかったからです。」 「なるほどね。本当に、心が澄んでいないときに、ミサに参加するべきではありません。 ところが、ミサに行かない理由が、ミサに行く適切な理由でもあると思いませんか。 教会に行き、イエスに心の悩みについて全部話してしまったらいいではないですか。確かに、あなたがそうするなら、イエスはあなたのために問題を明確にし、あなたは希望を見つけるでしょう。」 と話しました。

時々、心が問題を抱えているとき、人生に落胆しているとき、私たちは問題の解決を見つけるために、いろいろ試そうとします。そして、なにもかもがうまくいかないとき、まだ暗闇の中にいるとき、私たちは初めて主に目を向け、主の助けを願うのです。 神は私たちが助けを求めて近づく最後の方のようです。それにはどのような理由がありますか?  日本人はよく「最後の頼みは、神頼み」と言います。なぜ、神は私たちのリストの最初になれないのですか?  私にはとても疑問に思えます。

 

大勢の群衆に教え終えた後、イエスはシモンに言われました。「沖に漕ぎ出して網を降して,漁をしなさい。」大工の息子であるイエスは、プロの漁師にその言葉を言いました。 それにこたえ、シモンは言いました、 「先生、私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、御言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」 と。

ペトロは一晩中釣りをしていて、何も釣れませんでした。 きっと、彼はこれをイエスに関連付けたのは、自分が疲れていて、おそらく落胆していると暗示するためです。 どんな漁師でも彼の経験に共感することができます。 その上で、釣りの時間はもう終わり、もう太陽が昇り始めていました。 しかし、ペトロが今日、私たちに教えてくれる重要な教訓は、彼がすぐにその落胆に屈しないということです。 そして、彼が落胆に屈しない主な理由は、彼に網を降ろすように命じたのは、イエスだったからです。 イエスとの個人的な経験を持っていました。 そして、イエスとの個人的な出会いが彼を変えました。

私たち自身の生活の中で、皆、先に話した物語のように、時々落胆することがあります。 私たちは、それが何であれ、人間の弱さと戦っています。 しかし、私たちが神に忠実であるかどうかの本当の試練は、特に私たちの計画が思うように満たされないときに、神の御言葉に耳を傾け、寛大に守るかどうかです。 これができれば、私たちの小さなボートはたくさんの魚でいっぱいになります。

今日、沈黙のうちに、失敗と落胆の経験を考えてみましょう。主にそれらについて話しましょう。イエスがあなたに、沖へ漕ぎだすよう招いている意味は何ですか? それは神への信頼を持って、従うということでしょう。

主よ、私に「ここにおります。私を遣わしてください」と言う勇気や力を与えてください。

 

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