2025年4月13日 受難の主日(C年)のミサ 説教の要約

《 静寂の音 》

Palm Sunday 2025

静寂の音というサイモンとガーファンクルの歌を私たちは皆知っています。世界的で、とても有名な歌です。 そして、昨シーズンの鍵山雄馬のショートプログラムの曲です。 曲はこんな感じです。 「こんにちは、暗闇さん、私の古い友達。また君と話をしに来たよ。幻想がそうっと忍び寄っているからだよ。僕が寝ている間に種を残して行ったんだ。そして、僕の頭の中に植えられた幻想は静寂の音の中にまだ残っている。」この曲をよく知っているでしょう。「静寂に聞け。それは話す」という アメリカのとても古いことわざがあります。静寂の音が聞こえますか?

私たちの多くは、沈黙の時に何をするのかがわからないので、心が落ち着きません。そして、私たちの今のライフスタイルにも関係があると思います。いつも忙しくて急いで動いています。 頭がいろいろなことで悩んでいます。私たちはまるで、マルタというマリアとラザロの兄弟姉妹のようです。かくして、 沈黙の中で私たちの心が落ち着きません。

枝の主日に、イエスが仔ろばに乗って、エルサレムに入城して、そして、人々は枝を切って道に敷いたことを私たちは思い出します。群衆は叫びました。 “ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高き所にホサナ!” (マタイ 21:6-11) その時の雰囲気はお祭りのようでした。 人々は希望に満ちていました。

しかし、私の目が3つの聖書朗読の静寂に留まりました。 沢山の暴力、苦しみ、悪、死があったのに、なぜ沈黙があるのだろうか。 イザヤの予言はこのように書きました「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」と

イザヤのその預言は、イエスにとって真実となりました。そして、聖パウロはそれについて話しました。それは何という愚かさでしょう。 神は私たちのようになって、 そして、ご自分の息子が名誉なく死ぬことを許されました。また、ピラトの前にいらっしゃったときに、イエスは屈辱を受け、嘲笑され、厳しく挑戦されました。 十字架の上で、人々はイエスを嘲笑しました。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして、十字架から下りて来い。 他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から下りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」と

イエスはどのように人々の嘲笑に反応しましたか? 反論はありません。 カウンターチャレンジはありません。 会話はありません。 沈黙が 彼の応答でした。 ピラトとヘロデの前では、 彼は 沈黙していました。 イエスは沈黙のうちにこの世を去って行きました。 悪、不正、死に直面して、私たちは神に何を期待しますか? これらの中で神はどこにおられるのでしょうか。

イエスの静寂は本当に理解しにくいことです。彼は告発者に答えることができたが、黙っていました。 彼の沈黙は、彼が弟子たちへの言葉、つまりご自分が多くの苦しみを受け、死に、そして、三日目に復活することになることを私たちに思い出させます。

兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエスの静寂を完全に理解することが出来ないのです。 しかし、沈黙は神が私たちの心に語りかける場所であることを忘れないようにしましょう。 そして、もし私たちが使徒職を真剣に受け止めるなら、沈黙の大切さを理解し、それを実践しなければなりません。

最後に、何かが間違って、それが続けてはならないとわかったときに、沈黙を破り、話すのは全然大丈夫です。 不正と悪に直面して、応答としての沈黙が効果的ではないとき、私たちは話す必要があります。

 

Download (PDF, 102KB)