2025年4月20日 復活の主日のミサ 説教の要約

《 主が取り去られた 》

Easter Sunday 2025

 

あなたはおそらく、自分に近い人を失うことの感情や影響をよく知っています。もし、そうではないなら、それは、マグダラのマリアの経験から学ぶことができると思います。

マグダラのマリアは弟子たちに知らせました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちにはわかりません」と。マグダラのマリアの言葉で、イエスがいらっしゃらないような状況に入るように彼女は私たちを招いています 。マグダラのマリアはイエスを愛していました。マグダラのマリアが墓から石が取りのけてあるのを見て、空っぽの墓、つまり、イエスがいなかったことをみて、そして、すぐに、誰かがイエスの遺体を盗みに来たと思ったので、大変困っていたとヨハネははっきり言いませんでした。

もし神がそこにいなければ、混乱が起こります。悲しみます。心細くなります。絶望に陥ります。重い暗闇がすべてを覆うと彼女の経験は明らかに私たちに言っています。

弟子たちが墓の中で何を見たのかをヨハネは私たちに話しました。 マグダラのマリアは取りのけた石や空の墓を見ました。 すなわち、墓の中にはイエスがいませんでした。ペトロとイエスが愛しておられた弟子であるヨハネは置いてあった亜麻布を見ました。彼らのすべての見たものはイエスが復活されたという真実につながっています。そこには復活のしるしが沢山ありました。けれども、残念なことに、彼らはそれを理解することができませんでした。「聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」と 言い換えれば、イエスとご自身の言葉を理解することによって、希望が出てくるのです。

数年前、母が静かにこの世を去って行きました。 彼女は糖尿病でした。 彼女は電話で私に言いました。 「私は死を恐れていません。 あなたとあなたの姉はもう大丈夫だと思います。 孫たちは大学を卒業して、仕事をもしています。 だから、大丈夫です。」と。 母はすべての兄弟姉妹とお別れの挨拶をした後、亡くなりました。 私たちの中に新たな希望が生まれました。 彼女のわずかな言葉で十分です。 何も失われていないことはわかっていました。 もちろん、母親のように最愛の人の死を受け入れるのは簡単なことではありませんでした。母はかけがえのない人です。言葉はよく聞き、理解する必要があります。 身近な人が 亡くなると、私たちは苦しみます。 私たちは、その人が地上で何をしたのかを思い出したほうがいいと思います。それは私たちの助けになると思います。

イエスはどんな方でしょうか? 地上で何をしましたか? 何と言いましたか。 福音によると、彼らが理解していなかったということです。 これが弟子たちの問題です。 私たちはイエスを知っていますし、彼が私たちのために何をしてくださったかも知っています。 彼の言葉と人生を振り返ることは、きっと私たちに希望をもたらすでしょう。 彼の言葉と行動は私たちの希望です。

兄弟姉妹の皆さん、希望は贈り物であり、同時に責任です。ひとたび祈りをやめると、希望を捨ててしまいます。ひとたび神の存在のしるしを見て、理解できないと、私たちは大変なことになります。ひとたび私たちの教会に人を連れてこないと、私たちは教会の終わりを見るでしょう。 きっと、あなた方はそれを望まないだろうと気づかせてください。では、 これからもイエスを囲んで集まり続けましょう。

 

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