《 心を込めて感謝する 》
28th Sunday C
2025.10.12ミサ説教
「感謝ほど神の心を完全に勝ち取るものはありません。」と私の宣教会の創立者である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロは言いました。
私たちは感謝する心を持つ人間ですか。 両親は私に、受け取ったものが何であれ、「ありがとう」と言葉で伝えることの大切さを教えてくれました。この社会的な礼儀は今でも私の身についています。 フィリピンでは、私たちカトリック信徒は、誕生日を祝い、試験に合格し、学校を卒業し、新しい仕事を見つけ、手術が無事に終わり、成功し、夢が叶ったときにミサを捧げます。 教会の多くのミサの意向は、感謝です。
私たちは信徒として、今日の聖書朗読から学ぶ模範のように、感謝の心を育むべきだと思います。本日の聖書朗読は、感謝について述べています。第一朗読では、ナアマンというシリアから来た人は、自分を癒してくれた預言者のしたことを当り前だとは考えていませんでした。 権力と権威のある人物だというのに、彼は謙遜を持って、自分に好意を示してくれた預言者に感謝しました。
兄弟姉妹の皆さん、ナアマンと同じように、私たちが、感謝の言葉を口にするときに、私たちの地位や権威に邪魔をさせてはいけません。親は子供たちに感謝します。先生は生徒に感謝します。 受け取った贈り物や好意は、贈り主の寛大さのしるしであり、それを贈られるのが私たちの当然の権利ではないという現実を心に留めておきましょう。このことは、忘れてはいけないと思います。
パウロの手紙は私たちに、イエス・キリストのことを思い起こすように促しています。もし、イエスを思い起こすなら、何が起こりますか。イエスを思い起こすことは、イエスの神秘、つまり、説教、受難、そして死への認識につながります。 思い起こすことは感謝につながります。 感謝することは、神からの贈り物に気づくことから来る気持です。私たちは贈り物を受け取った時、「ありがとう」と言います。感謝することと、心に留めておくことはまるで、夫婦のように、いつも一緒です。
確かに、福音は私たちに感謝の心を持つよう教えています。 サマリア人は、自分の病気を癒してくれたことに気づいたので、ありがとうと言うために、イエスのところに戻りました。 誰も彼にそうするように命令しませんでした。 サマリア人のように、私たちの感謝は自発的で、自由に伝えなければなりません。
兄弟姉妹の皆さん、感謝するとは、好意を示してくれた人のもとに立ち返り、感謝の言葉を伝えることです。わたしたちの場合は、神に感謝します。これは謙遜なしもべの態度です。感謝の心を持ちましょう。この社会的な礼儀は、人生に大きな喜びをもたらします。
最後に、感謝の気持ちは神の心だけでなく、周りの人々の心も勝ち取ります。 感謝の心はコミュニティや人間関係を良好に築きます。 家族やコミュニティにおいて、恩知らずで、誇りの高すぎる人とはかかわりたくないものです。 これらの人々は自分自身を高く評価し、他人が自分のために多くのことをしてくれることを期待し、他人から受け取るものを当然のこととして受ける権利があると考えています。 他人に好意を寄せることは必ずしも義務ではありません。 自由な好意です。
有名な中世の神秘家マイスター・エックハルトはこう言いました。 「もし、あなたが人生でただ一度の祈りとして、“ありがとう”というだけであったとしても、それで十分である。」と。