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2020年4月26日 復活節第3主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年4月26日 復活節第3主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】

使徒たちの宣教(使徒言行録2:14, 22-33)

  〔五旬祭の日、〕ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
  ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。
 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
 主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。
 体も希望のうちに生きるであろう。
 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
 あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
 あなたは、命に至る道をわたしに示し、
 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
  兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、
 『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』
と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」

【第二朗読】

使徒ペトロの手紙(一ペトロ1:17-21)

  〔愛する皆さん、〕あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

【福音書】

ルカによる福音(ルカ24:13-35)

  この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
  一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

【福音のメッセージ】

「イエスは生きておられる」

担当司祭:林 和則

 新約聖書はギリシア語で書かれています。今日の「エマオへの旅人」と呼ばれているルカによる福音書の24章13節から35節までのギリシア語原文では、23節の「イエスは生きておられる」という言葉がこの物語の中心に位置するように構成されていて、この言葉がテーマであることが表現されています。

 この物語の前半部では、ふたりの弟子が暗い顔をしながら絶望のうちに故郷への道をたどりつつ、途中で出会った「見知らぬ人」に向かって、イエスの死にまつわる過去を語ります。その中心点は「墓」です。イエスは十字架の死によって「墓」に入れられました。けれども、その「墓」に遺体を見つけられずに婦人たちが戻って来ます。それを聞いた弟子たちはあわてて「墓」に向かいますが見つけることはできませんでした。婦人たちも弟子たちも「墓」の中にイエスを探し求めます。ある意味、ふたりの弟子は「墓」の中からイエスが消えてしまったことに絶望して「空の墓」からの逃亡の旅路にあったと言えます。ふたりにしてみると、死んでしまったイエスと出会える場、その思い出に浸れる場は「墓」という場にしか残されていなかったからです。
 「見知らぬ人」であったイエスが「ああ、物分かりが悪く」「心が鈍く」「信じられない」者たちと言われたのは「イエスは生きておられる」という天使の言葉を信じられずに、いつまでもイエスを「墓」の中に求めて、その場の周りをさまよっている婦人たちと弟子たちに向けてのことばであったと思います。

 そしてイエスはふたりに、イエスと出会える真の場を見せます。
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった(30節)。」その時ふたりは「イエスだと分かった(31節)」のです。
イエスのされたことは最後の晩さんのときと同じ所作でした。そしてその所作は、イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい(ルカ22:19)」と弟子たちに命じられたことによって、教会が「最後の晩さんの記念」として現代に至るまで行ってきた「ミサ」の中で司祭の手を通して繰り返され続けてきているのです。
 「生きておられるイエス」はもはや「墓」の中にいません。弟子たちが気づかなかった、見えなかったように、目には見えませんが今もいつも、私たちの人生の旅路に付き添って、共に歩んでくださっています。イエスは私たちの「現在」の中に生きておられるのです。ただイエスが「人」として生きられた過去の出来事を想起することは大切です。父なる神はイエスの生涯を通して、ご自分を完全に啓示されたからです。それが福音であり、それを書きとどめたものが福音書なのです。
 それを単に「過去」として読んで想起するだけでなく、現存させてくれるものが秘跡であり、特にミサこそが中心的な秘跡なのです。ただ秘跡によって体験したキリストを人びとの交わりの中で生き、実体験してこそ、真に「復活のキリスト」に出会えることになると思います。ミサもまさに共同体の中で祝われる「コムニオン(交わり)」です。

 私たちはみんな「エマオへの旅人」だと思えます。ふたりは夕暮れに向かって歩いて行きます。私たちも人生の夕暮れである「死」に向かって旅しているようなものです。しかもその旅路は生きていくための様々な労苦や痛みに満ちています。時にうつむいて過去のことをぶつぶつと呟きながらの歩みになります。また先の見えない不安の中に陥ってしまって、道を見失う時もあります。
 でも、どんな時でもイエスがそばにいて、一緒に歩いていてくださるのです。見えないだけです。時には出来事や出会う人びとを通して語りかけてくださいます。
そして何よりも毎週の主日のミサにおいて私たちと共にとどまってくださり、食事を共にしてくださり、司祭の手を通して、パンを裂いて渡してくださいます。
その時、私たちはイエスが共におられることを実感し、心が燃えて、ふたたび元気よく旅立っていく力をいただくのです。
 実は私たちキリスト者にとって人生の旅は「死」という夜に向っての旅路ではありません。キリストが「死」を打ち破ってくださったことによって「復活の朝」に向かう旅路となったのです。復活のキリストという、輝かしく昇る朝日を見つめて歩む旅路なのです。

 今は、大阪教区、また東京教区のネット中継を通してでも、私たちの何よりの旅路の糧であるミサに与るようにしてください。

緊急事態宣言が発令中はミサの中止および教会施設閉鎖を継続いたします

2020年4月24日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

緊急事態宣言が発令中はミサの中止および教会施設閉鎖を継続

♰主の平和

 23日水曜日の夜、前田大司教様から第6次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られて参りました。以下に通達中の重要項目を抜粋して掲載いたします。

1. 緊急事態宣言は5月6日(水)までとされていますが、大阪教区内の府県(大
阪・兵庫・和歌山)においてこれが延長された場合、宣言が発令されている期間中の公開ミサは中止とします。ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。

7.緊急事態宣言が中止された場合には、改めてお知らせいたします。

 上記の通達に従って、緊急事態宣言が発令されている間の週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を延長いたします。

 主日のミサに与る義務の免除などは従来通りです。通達の全文は数日のうちに大阪教区のホームページ(http//www.osaka.catholic.jp)に掲載されますので、そちらをご覧ください。

 また、カリタスジャパンが新型コロナウイルス感染症緊急募金を開始しました。
 カリタスジャパンのホームページ(http//www.caritas.jp)をご覧ください。

募金受付口座は次のとおりです。
郵便振替:00170-5-95979
加入者名:宗教法人カトリック中央協議会 カリタスジャパン
*記入欄に「新型コロナ緊急募金」と明記してください。

 世界はいまだ新型コロナウイルス感染症の脅威のもとで多くの被害が出ています。感染による被害だけでなく、経済的また人と人の交わりなどに深刻な影響が出ています。教会共同体の交わりもそうです。直接的な交わりはできません。けれども私たちは信仰宣言で唱えているように「聖徒の交わり」を信じています。地上的ではない、死をも超えた霊的な交わりです。

 日々の祈りの中で垂水教会の信徒の交わりを霊的につなぎ続けていきましょう。

4月19日のミサ(神のいつくしみの主日)

4月末日までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

復活節第2主日A年(神のいつくしみの主日) 2020年4月19日

【第一朗読】
使徒たちの宣教(使徒言行録2・42-47)

 〔信者たちは、〕使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

【第二朗読】
使徒ペトロの手紙(一ペトロ1・3-9)

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

【福音書】
ヨハネによる福音(ヨハネ20・19-31)

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

福音のメッセージ

「あなたがたに平和があるように」

担当司祭:林 和則

 復活節第二主日の福音は毎年、典礼暦A年、B年、C年に関わりなくヨハネによる福音書の第20章19-31節が読まれます。
 余談ですが、私たち司祭が教会を異動する場合には復活の主日から第二主日の間までに引越しを済ませるようにとされています。そのため昨年、垂水教会に異動してきた際にも、私にとって垂水での最初のミサ、最初の説教となったのが、復活節第二主日のミサまた福音についての説教でした。いわば今日で典礼暦上では垂水に来て一年がたったことになります(実際の暦では4月28日でした)。私にとって一周年のミサを皆さんとともにお捧げすることができないことは、さみしい限りですが「いのちを守る」行動のために仕方がないと思います。ともかく一年がたち、改めて垂水のようなすばらしい(お世辞ではありません)教会共同体で担当司祭として働けることを神に感謝したいと思います。

 昨年の説教では福音の前半部分について説教しました。特に忘れないでいただきたいポイントは次の箇所です。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る(23節)」
 この箇所はしばしば、イエスが弟子たちに「裁きの権能」を与えたのだと取られがちです。でも私はそうではないと思います。受難物語における大きなモチーフのひとつは「弟子たちの裏切り」です。ユダだけではありません。イエスの逮捕の時、弟子たち全員がイエスを見捨てて逃げたのです。またペトロは人びとの前でイエスを三度も「知らない」と否定します。さらに弟子たちは自分たちを見逃してもらうために大祭司たちと取引をしたという仮説もあります。
 いずれにしましても弟子たちは「主を裏切った」という強烈な罪悪感また自己嫌悪に陥っていたと思えます。だからこそ「戸に鍵をかけていた(19節)」のです。弟子たちは「心の戸」に鍵をかけ、引きこもっていました。弟子たちにとって絶望的だったのは「イエスが死んでしまった」ということです。もう、謝ることも、つぐないをさせてもらうことも、もちろん赦してもらうことも「不可能」だということで、弟子たちにとって残る人生の日々はこの罪を背負い続けて生きるという牢獄のようなものとしか考えられなかったでしょう。
 そこにイエスが現われ「平和」という「ゆるし」を宣言されたのです。「不可能」と思われていたことを、イエスが復活によって打ち破り、一方的に赦してくださったのです。弟子たちにとって、イエスが復活されたことは自分たちを赦すため、罪から解放するためであったと思えたことでしょう。
 このように考えれば23節のことばの後に次のようにつづければ、その意味がよくわかると思います。
「けれども、あなたがたは「罪が赦されないまま残る」ことがどれだけ苦しいか、その苦しみを十分に味わったはずだ。だから、わたしがあなたがたを赦したように、どんな罪であっても赦しなさい」
 イエスのことばは「裁き」ではなく、「七の七十倍(無限という意味)までも赦しなさい(マタイ18:22)」という「ゆるし」の福音を全世界に伝えなさいという、宣教への派遣だったのです。

 今日は、昨年は触れませんでした後半の福音についても分かち合いたいと思います。後半は前半の復活の日から「八日の後(26節)」とされていますが、現在の日数の数え方では「一週間後」になります。ですから後半の福音こそが復活の主日の一週間後である第二主日にふさわしいと言えます。
 
ここでの主要人物は十二弟子のひとりのトマスです。理由は書かれていませんが、前半のイエスが現われた時に十二弟子の中でトマスひとりだけがその場にいませんでした。トマスは言います。
「あの方の手に釘の後を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない(25節)」
 ここからトマスは聞いただけでは信じない、疑り深い人のように思われるかも知れません。でも私は実はトマスは悔しかったのだと思います。自分ひとりだけがイエスさまから除け者にされたようでさびしくて、すねてしまったのだと思うのです。ですからイエスがトマスの前に現れて、手の釘跡やわき腹に指を手を入れなさいと言われても、そうせずにただイエスの前にくずおれるようにひざまずき、おそらく泣きじゃくりながら「わたしの主、わたしの神よ(28節)」と言いつづけていたのだと思います。トマスはイエスさまにまたお会いすることができた、ただ、それだけでよかったのです。
 けれどもこの後半にはイエスとトマスとのほほえましい心の交流だけではなく、私たちへの大切なメッセージがあります。

 私は3月22日の四旬節第四主日の福音のメッセージ「遣わされた者」の中でヨハネの福音書は過去のイエスの生前の出来事と福音書が書かれた時の初代教会の共同体の現代とが重ね合わせられていると書きました。ここにもそのような重ね合わせが使われています。
 トマスは「ディディモと呼ばれる(24節)」とありますが「ディディモ」はギリシア語で「双子」という意味です。「トマス」というアラマイ語(イエスの時代のユダヤの公用語)も「双子」という意味です。ここにヨハネは「トマスは今、福音を聞いているあなたがたの「双子」のような存在なのだよ」と当時の初代教会の人びとに、そして私たちに語りかけているのだと思います。
 「トマス」はイエスの復活の「現場」に立ち会えなかった人びとの「分身」のような存在だということです。その「現場」から2000年近くも離れている私たちにしてみれば、立ち会えなかったことをもっともなこととして自然に受け入れているでしょう。けれども「現場」からまだ50年程度しか時間的に離れていず、地理的には同じユダヤに住む初代教会の人びとにしてみれば「私も復活の時、イエスさまに出会いたかった」という思いは切実なものであったと思えるのです。そのような思いにたいしての慰めをヨハネは「トマス」にこめたのではないでしょうか。それがもっともよく表れているのが次のことばです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである(29節)」
 この「見ないのに信じる人」こそが初代教会の人びとであり、そして私たちです。イエスはそんな私たちにたいして「幸いである」と仰ってくださっているのです。「見たから信じた人」よりも「見ないのに信じた人」の方がより信仰の眼差しをもってキリストに近づいたと言え、より強い信仰を持っているとイエスは私たちを励ましてくださっています。
 そしてヨハネは今も主の日の礼拝、その中心であった、当時は「パン裂き」と呼ばれていた最後の晩さんの記念においてイエスは現存し、今も「あなたがたに平和があるように」と私たちに言われつづけていると伝えようとしていると思います。
 
現在の教会に生きる私たちもそうです。あの復活の朝の「現場」から時間も場所も遠く離れていても、私たちが主の日に集まってミサを捧げる時に、イエスが私たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言っておられるのです。
 一日も早く、また、そのように共同体がイエスを真ん中にして、ひとつになって主の復活をお祝いできる、いつもの主の日が来ることを、気を落とさずに絶えず祈り求めていきましょう。

アベイヤ補佐司教様が福岡教区司教に任命されました

2020年4月15日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

アベイヤ補佐司教様が福岡教区司教に任命されました

♰主の平和
 昨夜、前田大司教様より「ヨゼフ・アベイヤ補佐司教の福岡教区司教任命のお知らせ」という表題のFAXが送信されてきました。
 以下にそのお知らせの主要な文面を抜粋して掲載いたします。

「教皇フランシスコは、2020年4月14日ローマ時間正午(日本時間同日19時)、本教区補佐司教のヨゼフ・アベイヤ司教を、福岡教区の司教に任命すると発表されました。

 福岡教区は、2019年4月に前司教の宮原良治司教の引退が受理され、以来福岡教区司祭の杉原寛信師が使徒座管理区長を務めてきました。同教区の教区長として7代目になります。

 着座式の日程が決まりましたら、追ってお知らせいたします。また、アベイヤ司教様が受け持ってくださっていた様々な役割の後任人事についても、決まり次第順次お知らせいたします。」

 アベイヤ司教様は2年間、大阪教区の補佐司教として精力的に働いてくださいました。昨年5月26日の主日には垂水を訪問してくださり、宣教のための力強いメッセージを語ってくださいました。
 アベイヤ司教様のこれまでのお働きに感謝し、また福岡での更なるご活躍をお祈りいたしましょう。

以上

復活ろうそく

垂水教会の信徒の皆様

昨夜の愛徳カルメル会本部修道院聖堂での復活徹夜祭のミサで祝福しました垂水教会の復活ろうそくが復活の日の朝、聖堂内に立ちました。

また、この復活のろうそくのもとで垂水教会の共同体がひとつに集まって、ミサが捧げられる日が来ることを祈り求めましょう。

担当司祭:林 和則

ご復活、おめでとうございます

【2020年4月12日】

復活の主日

【第一朗読】

使徒たちの宣教(使徒言行録10・34a、37-43)

  〔その日、〕ペトロは口を開きこう言った。「あなたがたは【このことを】ご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

【第二朗読】

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント5・6b-8)

  〔皆さん、〕わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

【福音書】

ヨハネによる福音(ヨハネ20・1-9)

  週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

福音のメッセージ

「ご復活、おめでとうございます」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

♰主の平和

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに(20:1)」
 私たちの主イエス・キリストはまさに今朝、復活されました。今日の復活の主日典礼暦A年のヨハネの福音は今日、私たちの中に実現しました。それは「まだ暗いうちに」、完全に明けきらぬ、まだ世界が暗闇の中に捉われていた時にも関わらず、主は復活されたのです。今のこの世界も未知のウイルスの感染という暗闇に覆われていて、いつ終息するのかもわからない不安の中で私たちはおびえています。けれども、その暗い中にあっても、主の復活はすでに成し遂げられていることを信じて、希望を持ちましょう。

 「墓から石が取りのけてあるのを見た(20:1)」
 この「石」、生者の世界と死者の世界を隔てるこの石は人類の歴史が始まって以来、誰も取りのけることはできませんでした。どんなに泣いても、呼んでも、死者が生者の世界に戻ってくることはありません。その無言の巨大な石は厳然として人類の前に立ちはだかり、人類はその前にひざを屈するしかなかったのです。死によって全ては終わり、その先に道はないことを示していました。
 マグダラのマリアとペトロたちもそのように全てを終わったこととして、あきらめていました。「石が取りのけられてある」のを見、また聞いたのにも関わらず、まだ「墓」にこだわるのです。
 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません(20:2)」
 マリアはまだ「墓」の中にだけ、イエスをさがし求めています。「墓」に捉われ、イエスが予告されていた「復活」という新しい世界に開かれていくことができません。
 「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った(20:3)」
 ペトロもやはり、「墓」に走って行きます。「墓」の中にイエスをさがしに行くのです。ある意味、それはイエスの「死」という過去に捉われ、未来ではなく過去に向かって走っている姿であるのかも知れません。中に入ったペトロは「亜麻布が置いてあるのを見た(20:6)。」単にイエスの遺体が存在しないということを「見た」だけでした。けれども、先に着きながらも後から入ったもう一人の弟子は違います。
 「見て、信じた(20:8)」
 単に「見た」だけではなく「信じた」のです。何を信じたのか、「復活」を信じたとしか考えようがありません。けれども、そうだとすると「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである(20:9)」という記述に矛盾することになります。
 これについてはこの「もう一人の弟子」が誰であったのかを考えることがカギになります。先に2節ではこの弟子を「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と表現していて、以前はこの弟子はヨハネであるとされていました。けれどもここでは説明を省略いたしますが、現在ではこの弟子はこの聖書を聞き、また読んでいる人が自分をこの「愛された弟子」にあてはめることによって、自分も登場人物のひとりになって、追体験するための「仕かけ」と考えられています。
 ですから、この福音書が書かれた時代にあっては初代教会の人びと、現代にあっては私たち自身が、この「イエスに愛された弟子」であるのです。そうなると、私たちはすでにイエスの復活を知ったうえで福音の物語の中にいます。つまり物語の中にいながらも「枠外」にいて、物事を見ていることになります。ですから、私たちが「墓」に行くということは、ペトロ(福音の物語の枠の中にいます)と違って「イエスの遺体」をさがしに行くのではなく、「イエスの復活」を確認するために行くのです。
 そして私たちは福音記者が証言するその場景を聞かされたことによって「見た」ことになり、そして信じるのです。
 少し複雑になりますが、ヨハネの福音は過去と現在の読者との間を自由に行き来します。それで物語に整合性を持たせるために、ペトロだけでなく「二人は」というように表現していると考えるのです。
 せっかくの復活のお祝いの日に理屈っぽいメッセージになってしまって、すみません。大切なことは私たちが今日のヨハネが福音書に書き残した復活体験を聞いて、「聞く」だけでなく「信じる」ことです。
 イエスは誰も取りのけることのできなかった「死」という「石」を取りのけて、まったく新しい世界を開いてくれた、ということを信じることです。復活の朝、「永遠の命」という終わることのない、無限の可能性が私たちの命に与えられたのです。この世的な価値観のもたらす様々な負の面(失敗、挫折、格差、憎悪など)に束縛されることのない、傷つけられることのない、本当の自由と喜びが無限に広がる命です。それらはすべて、キリストの十字架の奉献によって達成されたのです。

 物理的に集まることはできなくても、体は離れていても心をひとつにして、新しい過越、主イエス・キリストの死と復活を讃美し、感謝しましょう。

聖金曜日 主の受難

2020年4月9日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

聖 金 曜 日  主 の 受 難

♰主の平和
 明日の典礼はキリストの受難を記念します。今夜の聖木曜日の典礼の最後に行われる「聖体安置式」によって、キリストは私たちから取り去られ「不在」となります。そのために明日の典礼はミサではなく「ことばの祭儀」で行われます。ミサという食卓はキリストが主人であって、私たちを招いてくださることによってはじめて成立するからです。従って、主人が「不在」であっては食卓、ミサという宴を開くことはできません。
 その「不在」を可視化するために祭壇には何も飾らず、十字架もろうそくも置かれず、祭壇布もかけられずに「裸」のままです。
 なお、日本においては聖金曜日は平日ですので一般的には夜間に行われますが、本来は午後3時から行うようにと定められています。それはマタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書がイエスの死が午後3時ごろであったと記しているからです。
 
 「主の受難」の典礼は「ことばの祭儀」「十字架の崇敬」および「聖体拝領(交わりの儀)」の三部から成っています。「および聖体拝領」と書きましたのはこれまでの説明でお察しされることと思いますが、キリストが「不在」であるがゆえにミサが行われないのですから「パンの聖別」ができないゆえに「聖体」も存在しないはずなのです。実際、カトリック教会(東方教会は別)では7世紀まで聖体拝領は行われず、16世紀にも聖体拝領は司祭だけとされた時期もありました。  
 聖金曜日の典礼における聖体拝領は司牧的配慮で行われる付加的なものであって、中心は「ことばの祭儀」における「受難の朗読」にこそあるのです。

 「受難の朗読」の前に置かれているイザヤの預言は、なぜ神の子であるキリストが人の手によって十字架で殺されねばならなかったのかという、弟子たちを苦しめた大きな問いに対しての弟子たちの答えを求めての歩みを知るうえで、とても大切な箇所です。
 現在の私たちはある意味、「十字架」に慣れてしまってはいないでしょうか。それを見ても、自分たちの信仰の対象、シンボルとして抵抗なく受け入れてしまってはいないでしょうか。けれども、十字架の神秘、そのはかり知れない恵みを感じるためには、当時のローマ世界のまた弟子たちにとっての「十字架」とはどのようなものであったのかを知る必要があり、それを「受難の朗読」を通して追体験するように聖金曜日の典礼は構成されています。
 
 十字架は当時のローマ世界にあって、もっとも残酷で、屈辱的な刑でした。それは受刑者の人格を粉々に打ち砕き、その存在の痕跡さえも消し去ってしまうがごとき刑罰でした。まず十字架に架ける前に、拷問によって肉体を鞭で、精神を罵詈雑言で破壊していきます。そして十字架の木を担がせて(かなりの重量ですから現在では横木だけであったのでは、という説もあります)人びとの中をさらしものにして歩かせます。刑場につくと裸同然の姿にして十字架の上に寝かせて両手に一本ずつ、両足を交差させて一本の釘を打ち込みます。
 そして立てます。磔にされた受刑者は次第に体が下がってきて喉がつまり、最後は窒息して死にます。それはまさに真綿で首を絞めていくように、徐々に息苦しさが増していくという非常な苦痛でした。死んだ後、原則的に死体は埋葬されずに架けられたままで残されます。やがて腐った死体は地に落ちて、鳥や獣によって食い尽くされていき、遺骨さえも残らないのです。そのことはローマ帝国内において数多く十字架刑が行われたのにも関わらず、その遺骨がほとんど残っていないことからもわかります。
 この残酷さは、十字架刑がローマ帝国への反逆罪に課せられるものであり、いわば逆らえばこうなるという「見せしめの刑」であったからです。
 当時の人びとにとって十字架刑は恐怖であり、哀れというよりも目を背けて関わり合いを拒みたくなるような、みじめで恥辱に満ちたものでした。最低、最悪の死に方として恐れられ、嫌悪されていたのです。

 イエスが、神の子がそのような「十字架」に架けられて殺されてしまったのです。弟子たちの衝撃はどれほどのものであったのか、察するに余りあります。
 出口のない闇の中をさまようにして弟子たちは苦しみ悶えながらも「なぜ、どうして」と問いつづけたことでしょう。そんな弟子たちにひと筋の光を与えてくれたのが、第一朗読のイザヤの預言でした。

「彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない。
 それほどに、彼は多くの民を驚かせる(52:14-15)」
「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた(53:8)」
「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
 彼らの罪を自ら負った(53:11)」
「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは
 この人であった(53:12)」

 この箇所は現代では「苦難の僕」と呼ばれています。弟子たちはここに預言されている「わたしの僕」の姿に十字架のキリストの姿を見出しました。それによって暗闇から抜け出し、この世的には敗北の象徴であった十字架を逆にキリストの勝利、栄光として崇めていくのです。それはまさにこの世的な価値観が逆転し、まったく新たな福音的価値観へと開かれていく、新しい世界の始まりだったのです。
 十字架を担って生きることは、この世的な価値観ではなく、福音的価値観に従って生きていくことなのです。
 
 そのためにキリストがどれほどの苦しきを過ぎ越さねばならなかったか、その苦しみを受難の朗読を通して深く心に刻み込まねばなりません。それがキリストの過越によって無償で救われた私たちの責任、キリストの愛に応えることになると思います。キリストの苦しみに共感していくのです。
 それはまた全世界の人びとの苦しみに共感していくことになります。イエスが死ぬ前に大声で叫んだ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(マタイ27:46)」はけっして個人的な絶望の叫びではありません。
 「あの叫びの中で、歴史上のすべての磔刑者たちが叫んでいました。それは不正に対する憤り、抗議の叫びでした。同時に希望の叫びでもありました。初期のキリスト者たちは、このイエスの叫び声を決して忘れませんでした。すべての人の幸せを求めて排斥され、処刑されたこの人の叫びには、いのちの究極的な真理があります。この磔刑者の愛の中には、苦しむすべての人と一つになり、あらゆる時代の、あらゆる不正、虐待、暴行に反して叫ぶ神ご自身がおられます(パゴラ・エロルサ・ホセ・アントニオ神父「イエス あなたはいったい何者ですか」ドン・ボスコ社501頁より)」
 この叫びが受難の朗読全編を貫いています。イエスの苦しみ、この叫びに共感することは、私たちも現代の世界にあって苦しみ叫ぶ人びとと共に叫び、その人々の痛みに共感することです。イエスの受難を黙想することが閉鎖的なセンチメンタルなものに終わるだけでは足りないと思います。

 第二部の「十字架の崇敬」におきましても、どうぞ全世界の苦しむ人びとともにおられるキリストの姿として、十字架を礼拝してください。今年は、典礼のネット中継を通してか、黙想の中において礼拝してください。

祈りのうちに

*明日、主の受難を思うべき日の日中に「復活の徹夜祭」についてのメッセージを出すことは典礼暦的に相応しくないので、明後日の午前中に発信いたします。

聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ

2020年4月8日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ

♰主の平和

 皆さん、いよいよ明日から、一年間の典礼暦でもっとも大切な典礼、典礼暦の頂点と言ってもよい「聖なる三日間の典礼」が始まります。誠に心が痛みますがご承知の通り、今年は教会聖堂における「聖なる三日間の典礼」に与って頂くことができません。だからといって、この三日間を無為に過ごすことは、キリストがご自分の命を捧げてまで与えてくださった大きな恵みに応えないことで、あってはなりません。6日に皆さんに発信いたしました「聖なる三日間および復活祭への対応について」の中での勧めを参考にして頂き、よき「聖なる三日間」を過ごして頂けることをお祈りしております。

 「聖なる三日間」は旧約の「出エジプト」に替わる新たな過越である「キリストの死と復活」を記念するための典礼です。新約聖書が書かれた言葉であるギリシア語の「記念」を意味する「アナムネーシス」は単に出来事を「思い起こす」だけでなく、その出来事がまた「現存化」するという意味が含まれています。ですから「聖なる三日間」の典礼を執り行うことによって、「キリストの死と復活」が私たちの現在の教会の中に再起し現存するのです。「聖なる三日間」の典礼は少しでも私たちが過去に起こったキリストの死と復活の出来事を追体験し、それによって実現した救いと恵みを、今まさに実現している恵みとして受けることができるように、とてもよく考えられている、すばらしい典礼です。

  明日、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」は、いわゆる「最後の晩さん」を記念する典礼です。ヨハネの福音書はその出来事の始めを次のように書き出しています。

「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた(13:1)」

 「この上なく」つまり最上級の、最高の愛をもってということです。最後の晩さんの行われた広間には、このイエスの弟子たちへの「この上ない愛」が満ち満ちていました。最後の晩さんの時間は最初から最後までイエスの「この上ない愛」に包まれていました。それを記念する聖木曜日のミサもまた、私たちへのイエスの「この上もない愛」に包まれているのです。
 その愛を具体的に行動によって示されたのが、弟子たちの足を洗う行為でした。この日の福音はその箇所が朗読されます(ヨハネ13:1―15)。
足を洗うという行為は当時の世界にあっては使用人、多くは奴隷の行う、いわば「汚れ仕事」でした。ペトロにいたっては驚きあわてて「わたしの足など、けっして洗わないでください(13:8)」と自分の師であるイエスに訴えます。イエスは弟子たちの足を洗った後、「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(13:14)」と言われます。これは弟子たちにというよりも、私たち教会にたいして命じられたことばとして受け止めなければなりません。教会はこの世的な組織とはまったく逆の構造を有しているのです。国家や会社は少数の支配者が多くの人びとを支配するという、いわゆるピラミッド型の構造です。けれども教会は逆ピラミッドなのです。上に立つ人ほど、人びとに仕える者とならなければならない、下って(へりくだって)行かなければならない、それが教会なのだと。互いに仕え合うのが教会共同体であると、イエスは身をもって模範を示されたのです。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである(13:15)」

 このイエスの教えを聖木曜日の典礼では説教の後に「洗足式」を行うことで具体的に表現し、会衆に実体験してもらいます。その際に留意しておくべき点は、イエスはユダの足をも洗われたということです。洗われた後で「しようとしていることを、今すぐ、しなさい(13:27)」とユダを外に出すのです。私たちは自分を裏切ろうとしている、また自分を憎んでいる人の足を洗うこと、その人の前でへりくだることができるでしょうか。イエスはそれをも模範として示されたのです。「洗足式」に与る時、もし今の自分にとってそのような人がいるのであれば、イエスのようにその人たちにも仕えることができるための助けを願いましょう。

 最後の晩さんにおいてイエスは聖体の秘跡の制定をされて、私たちに「ミサ」という最大の恵みを残してくださいました。この「聖体」は最後の晩さんを包み込んでいた弟子たち、私たちへの「この上ない愛」が結晶化したものであるといえます。私たちはミサを通して、聖体を通して、今もイエスの「この上ない愛」を実感し、頂くことができるのです。
「聖体の秘跡」の制定は、毎週のミサの中でも奉献文を通して記念していますが、「主の晩さんの夕べのミサ」では特にそれを強く思い起こし、改めて記念、感謝する典礼です。また改めて、これからの一年を聖体の秘跡と共に信仰生活を送ることを決意しつつ、心をこめてパンとぶどう酒の聖別、聖体拝領に与ります。 
 
 聖木曜日の典礼では最後に「聖体安置式」が行われます。いつもは聖堂内の聖櫃に安置されている聖体を聖堂外の他の場所に運ぶ式です。これによって、最後の晩さんの後、ユダによって率いられてきた大勢の群衆によってイエスが逮捕されたことを記念します。それはこの世的な思いと力によって、私たちからイエスが奪い取られたことを意味します。そのために聖堂の「外」に聖体が運び出されます。イエスは「不在」になります。
その「不在」の間、イエスは弟子たちからも見放され、孤独になって不当な裁判また残酷な拷問を受けていることを、安置所の仮祭壇の前で私たちは黙想します。聖堂の祭壇から覆いを取り外し、祭壇を「裸」にするのも、イエスの不在とともにイエスが全てを奪われて苦しめられている姿を可視化するためです。

 また最後の晩さんの後、逮捕の前のゲッセマネの園での苦しみも福音書を読んで黙想しましょう。

(マタイ26:36―46、マルコ14:32―42、ルカ22:39―46)

 「主の晩さんの夕べのミサ」はイエスの愛に包まれた晩さん、聖体の秘跡の制定による、光に満ちたような喜びが、聖体安置式によって一気に暗闇と悲嘆の中に突き落とされていくような典礼です。
 けれども、その暗闇の中にあっても、イエスの「この上のない愛」はけっして消えることなく、人びとを、自分を訴え拷問する人びとをも包み込んでいたのです。どんなに拒否されても、イエスの「この上のない愛」は全ての人に向かって輝き続けていたのです。それが「十字架」に結晶して行きます。

 聖体の秘跡の制定を特別に記念する「主の晩さんの夕べのミサ」は確かにミサに参加してこそ、その意義を深く味わえると言えます。ですからぜひ、可能な方は大阪教区、東京教区が中継するユーチューブでの聖木曜日のミサに与ってください。特にパンとぶどう酒の聖別をいつもよりもよく見つめ、最後の晩さんを黙想してください。そして霊的聖体拝領をしてください。

 また各福音書に記述されている最後の晩さんからイエスの逮捕の出来事を読んで、黙想してください。

祈りのうちに

今の状況にあって聖なる三日間と復活祭を迎えるために

2020年4月7日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

今の状況にあって聖なる三日間と復活祭を迎えるために

♰主の平和

 本日、政府は新型コロナウイルスの感染拡大に備えるため、兵庫県を含めた7都府県に緊急事態宣言を発令することを決定しました。いよいよ外出を含めたさまざまな通常の日々の営みが制限されていきます。その中にあって、大阪教区が聖なる三日間と復活祭において公開ミサを中止したことは適切な措置であったといえます。この日々を単に「耐える」のではなく「すべてのいのちを守るため」に教皇様また全世界の教会とともにキリストの心をもって、積極的に私たちの生活を捧げていくようにいたしましょう。

 けれどもやはり、皆さんにとって聖なる三日間と復活祭の典礼をこれまで毎年、通い続けてきた垂水教会の聖堂で祝えないことは、大きな痛みでしょう。私は今月1日の書面において「今の私たちはバビロンの捕囚時における神の民のような状況」と書きました。この連想を深めていきたいと思います。
 紀元前6世紀初めからバビロニア帝国が南ユダ王国を圧迫し、たびたび攻撃をして来ました。ユダの王たちはバビロニアに屈従しますが、王国最後の王となったゼデキヤが反抗しようとしたことによって、紀元前586年、バビロニアはエルサレムを徹底的に神殿もろとも破壊し、王国を滅ぼしました。そして占領政策として王族、家臣団、知識階級であった祭司たちを主とする多くの人びとを捕囚として首都バビロンに連行し、以後47年間、ユダヤの人びとはバビロンでの捕囚生活を送ることになったのです。
 
 それは民族として、またユダヤ教徒として、大きなアイデンティティの危機でした。まず大きく信仰が揺らぎました。当時の戦争は民と民の戦いだけでなく、それぞれの民が信じる神と神との戦いでした。ですからユダがバビロニアに敗れたということはユダヤ教の神がバビロニアの神々に負けたことになるのです。しかもユダヤ人にしてみると唯一絶対の万能の神が、ライオンの姿を持ったような偶像の神々に負けてしまったのです。「はたして私たちの神はまことの神であったのか」そのような疑問をさえ、ユダヤの人びとは抱き、自分たちのこれまでの信仰生活がすべて否定されたような絶望と虚無に陥ったのです。

 またそれまでのユダヤ教は神殿が中心でした。神殿が聖なる場所であって、もっとも大切な礼拝は神殿でのいけにえの儀式でした。それによって民は神と和解し、つながりを保ち続けることができると考えていました。それらが全て、奪い去られてしまったのです。しかもユダヤ人にとって異国の地は異教の地であって「汚れた土地」でした。神殿で礼拝することができず、異国の地にあってユダヤの民はどのように信仰を守ればよいのか、途方に暮れていました。このままでは、ユダヤの民も信仰もアイデンティティを失い、バビロニアの民族と宗教の中に埋没してしまいかねません(それがバビロニアの占領政策でした)。神の民の歴史の中で最大の災厄であり、存続の危機を目前にしても為すすべもなく、人びとは打ちのめされ、無力感と神から見放されたような絶望感の中に沈み込んでいました。

 けれども結果的に、このバビロンの捕囚がユダヤ教を刷新し、また旧約聖書の編集を最終的な完成へと導いていったのです。それはユダヤの民とユダヤ教を存続させようとして、絶望せずに神に祈り求め続けた祭司たちの働きが大きな力になりました。
 祭司たちの努力のもっとも優れた実りは「安息日」の制度をユダヤ教に導入したことでした。それによって、どのような場所にいようとも関係なく、時間を、生活そのものを聖化することを可能にしました。安息日によって信仰生活にリズムを作りました。バビロンにおける、この世的な価値観に支配された日常に流されないために、安息日には労働をやすみ、俗事の煩いを離れて、神のことばを聴き、黙想の時間を持つ。神のことばによって日々の生活を振り返り絶えず刷新することによって、神殿はなくとも、異国の地にあっても、神と共に生きる生活が可能になったのです。

 今、私たちはそのかつての「安息日」に替わる「主日」に聖堂でのミサに与っての信仰生活を送ることができません。間違いなくミサは私たちにとって、最高の礼拝であり、信仰生活の中心、信仰を生きるための命の泉です。
 けれども、そのミサを豊かにするのは日々の生活の場での祈りであり、黙想なのです。もちろんミサ自体は他の何ものによっても代えられることのできない恵みですが、その恵みをより深く自分の内に豊かにするためには、日々の祈りが必要であり、また信仰を自分のものとし、人生と結びつけるために黙想が必要です。昨日の運営委員会の報告でも触れましたが、どこかで私たちはミサに出ていればそれでいいと、黙想の努力を怠ってはいなかったでしょうか。もっとも、それは私たち司祭の霊的指導が不十分であったためでもあり、皆さんだけの責任ではありません。

 この時を利用して、各自の家庭においてみことばを味わい、それを自分の生活に照らし合わせて黙想することに更なる努力を傾けてみてはいかがでしょうか。それによって、バビロンの捕囚にあった神の民のように、この災厄の時を信仰のための恵みの時とすることができるのではないでしょうか。
 また私たちは日本の教会の民として次のことも忘れず心に銘記すべきです。江戸の禁教令の時代、潜伏キリシタンの人びとは過酷な迫害の中でミサを待ち望みながら、約230年もの間、信仰を守り抜いたことを。

 またユダヤ人は捕囚の前、いつの間にか儀式と礼拝を惰性的に行い、信仰が生活から乖離(かいり)してしまっていました。それを預言者たちは何度も警告しましたが、民は耳を傾けようとはしませんでした。そんなユダヤ人にとって、捕囚の時期は自分たちの信仰をゆっくりと見直す時にもなったのです。
 私たちも今、自分の信仰生活を見直す時であるのかも知れません。

 教皇フランシスコは3月27日、バチカンで無人のサン・ピエトロ広場の前で「ウルビ・エト・オルビ(ローマと全世界へ)」の祝福を祈る前に、神に向かって次のように語りかけられました。

「今はあなたの時ではなく、私たちが見極める時です。大切なことと過ぎ去ることを見分け、必要なこととそうでないことを区別する時です。私たちの生き方を立て直し、主よ、あなたと他者に向かわせる時です(カトリック新聞2020年4月5日発行第4526号一面記事より抜粋)」

 この「見極め」「立て直し」は信仰生活はもちろん、私たち人類全体の今のあり方についても必要であるような気がします。ひとつには今の私たちの際限もなく膨張し、歯止めの利かない消費文化です。そのために地球環境、人間関係が犠牲にされていっていると思います。

 この三日間と復活祭をぜひ、ご家庭でのみことばを通しての祈りと黙想の日々、それを通しての信仰生活の刷新の日々、また全世界の人びとを思い、共に歩む日々として頂きたいと思います。
 この世界を新たにするためであった、キリストの死と復活、新たな過ぎ越しを生きるためにふさわしい過ごし方として、皆さんにこのような祈りと黙想の日々をお勧めしたいと思います。

祈りのうちに