「垂水教会一般」カテゴリーアーカイブ

主に垂水教会内での情報

3月31日(火)までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します

2020年3月12日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

3月31日(火)までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します

♰主の平和

本日午後、前田大司教様より、第3次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られて参りました。通達は以下の通りです。

3月15日(日)から3月31日(火)まで、小教区をはじめ、定期的に不特定多数の信徒が参集して主日ミサが行われている施設では、ミサを中止してください。

3月15日・22日・29日の日曜日は、大阪教区のすべての信徒に主日のミサに与る義務を免除します。各自が家庭で、聖書を朗読し祈りを捧げたり、ロザリオの祈りをしたりする時を持つように勧めます。なお、東京教区では、主日のミサのインターネット中継を行っています。教区ホームページ(http://tokyo.catholic.jp/)を参照ください。

上記1の期間中、週日のミサは、ごく小規模な参加者の場合を除いて、同様に中止してください。なお、修道院で、あるいは司祭が個人的に週日のミサを捧げる場合には、『ミサ典礼書』の種々の機会のミサの中の「困難の中で」を使用することを(典礼色は紫のままで)ことを許可いたします。

上記1の期間中、ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。結婚式や葬儀は、充分な感染対策をとった上で、通常通り行っていただいて結構です。

この期間中の教区主催行事・会議などについて、3月20日(金・祝)の「教区召命の日・助祭叙階式」は延期とします。

教区召命の日として、召命促進のためにお祈りください。クラレチアン会のニュ・イ神学生の助祭叙階式の日時は未定です。
*(イ)に書かれている、司祭の会議関係については省略いたします。

以上の通達に基づいて、3月2日(月)よりすでに実施されている週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を引き続き3月31日(火)まで実施いたします。

皆様にはご不便をおかけしますが、現代の世情を鑑みてもやむを得ない措置と思えますので、ご理解とご協力、そしてお祈りをお願いいたします。

3月8日のミサ(四旬節第2主日)

3月14日(土)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

第一朗読

創世記(創世記12・1-4a)

[その日、]主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷

父の家を離れて

わたしが示す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の源となるように。

あなたを祝福する人をわたしは祝福し

あなたを呪う者をわたしは呪う。

地上の氏族はすべて

あなたによって祝福に入る。」

アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

 

第二朗読

使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ1・8b-10)

[愛する者よ、]神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。

 

福音書

マタイによる福音(マタイ17・1-9)

[そのとき、]イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 

福音のメッセージ

「父と子の愛の交わりの輝き」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

毎年、四旬節第二主日の福音はマタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書がともに書き記している「主の変容」と呼ばれている出来事が朗読されます。A年ではマタイが用いられています。ちなみにB年ではマルコ、C年ではルカです。

イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて、高い山に登った時、弟子たちの目の前でイエスの顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなり、そこにモーセとエリヤが現われて共に語り合われたという、まことに輝かしい、栄光に満ちたイエスの姿がそこにはあります。しかしながら、このすぐ前の16章でイエスは弟子たちに最初の受難予告をしているのです。栄光どころではなく、権力者たちから苦しめられて殺されることが語られています。メシヤをこの世的な王と考えていた弟子たちはイエスがユダヤの王になるどころか、祭司長たちによって捕らえられ、殺されるということばに驚き、激しく動揺します。ペトロにいたっては、イエスを脇へお連れしていさめ始めたとまで書かれています。動揺する弟子たちにはイエスの逮捕と処刑だけが耳に残って「三日目に復活する」ということばはまったく頭に入っていません。また復活を理解することもできなかったのでしょう。彼らにとってまだ、死は全ての終わりであったからです。

そんな弟子たちの動揺を少しでも抑え、力づけるためにイエスは復活の栄光の姿をお見せになったのが「主の変容」であるという解釈が一般的です。また当時は旧約聖書は「律法の書」「預言の書」と呼ばれていて、モーセは「律法の書」を、エリヤは「預言の書」をそれぞれ象徴し、そこにイエスに象徴される「新約の書」が加わることによって、神のことばが完成したことが表されているとも考えられています。いずれにしても目のくらむような神々しい、まさに勝利の王としてのイエスの姿がそこにはあります。

けれども変容の場面を、イエスの逮捕の前のゲッセマネの園と類似している、共鳴し合っていると考える解釈があります。栄光に満ちた変容と、闇と苦しみに満ちたゲッセマネでは正反対ではないか、どこが似ているんだと思われる方が多いでしょう。この解釈のカギはルカの並行箇所にあります。マタイとマルコではイエスがモーセとエリヤと「語り合っていた」としか書かれていませんが、ルカは「エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた(9:31)」と書かれています。カギはこの「最期」にあります。この言葉はギリシャ語原文では「エクソドス」です。それはギリシャ語訳の旧約聖書の出エジプト記のギリシャ語書名の「エクソドス」から取られています。「エクソドス」の本来の意味は「旅立ち」「国を出る」です。そのためにエジプトからの脱出、旅立ちとして、この言葉が選ばれたのでしょう。聖書の神学用語で言い換えれば、それは「過越」です。神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態からふるさとの地での自由へと過ぎ越してくださったことをいいます。イエスとモーセとエリヤはイエスのエルサレムでの受難、つまり新たな「エクソドス」、言い換えれば新たな過越であるイエスの死と復活について語り合っていたといえます。

モーセはそのかつての過越を導いた人物です。エリヤは紀元前9世紀、北イスラエル王国のアハブ王の時代に活躍した預言者です。アハブ王は王妃イゼベルの国の神、バールの信仰を北イスラエルに広くもたらしました。エリヤはそれを激しく非難し、バールの預言者たちと祈りでもって戦い、打ち負かしました。そのためイゼベルはエリヤを殺害する命令を下し、エリヤは絶えず命の危険にさらされて逃亡の日々を送り、疲れ果てて「主よ、もう十分です。私の命を取ってください(列王記上19章4節)」と神に死を願いさえもします。エリヤもまた「苦しむ神の僕」でした。このふたりがイエスとイエスの過ぎ越しについて語り合ったのは、これから受難の旅、新たな過越に向かおうとされるイエスを励まし、勇気を与えるためだったと考えられないでしょうか。

ゲッセマネの園でイエスは血の汗を流すほどまでに苦しみ悶えられます(ルカ22:44)。であれば、イエスは弟子たちに平然として受難予告をされたのではなく、自らもその恐怖に苦しんでいたはずです。ルカは「祈るために山に登られた(9:28)」と書いています。その祈りとはゲッセマネの園の時のように来たるべき受難を思っての血の汗を流すような祈りではなかったでしょうか。ペトロと弟子たちがひどく眠くなってしまうのも、ゲッセマネの時と同じです。それを見た父なる神が我が子を励ますために、よき理解者、相談者としてモーセとエリヤを送ったのだと考えられるのです。

こうなると「主の変容」は弟子たちのためというよりも、父なる神が子であるイエスを力づけるためのものであったといえます。だからこそ神は最後に「これはわたしの子」と言われたのです。そこには「おまえは私の子だ。いつも、おまえのそばにいる。だから、恐れるな。心配するな」というように、父である神の、子であるイエスに対する深い愛がこめられています。変容の輝きはその父の愛を受けたイエスの喜びが満ちあふれた輝きであったと考えることができるのです。

私たちも苦しみもだえ、闇の中にいるような思いの時も、父である神がともにいてくださることを忘れないようにしましょう。

3月1日のミサ(四旬節第1主日)

本日から3月14日(土)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

 

四旬節第1主日(A年) 聖書と典礼 2020年3月1日

 

第一朗読

創世記(創世記27-931-7

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形作った人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

主なる神が作られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 

第二朗読

使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ512-19、または5・12、17-19

〔皆さん、〕一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

《律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来たるべき方を前もって表すものだったのです。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵が働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。》

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 

福音

マタイによる福音(マタイ41-11

〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜の断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 

福音のメッセージ

「宣教に対しての誘惑」

カトリック垂水教会担当司祭 林 和則

典礼歴A年の四旬節第一主日の福音では、悪魔がイエスを誘惑する出来事が描かれています。けれども、その誘惑は私たちに対してのような罪を犯すことへの誘惑ではありません。神の子であるイエスは罪への傾き、いわゆる「原罪」に捉われてはいないからです。それは「宣教」に対しての誘惑だったのです。

イエスの荒れ野での四十日間の修行も、これからどのように宣教を行えばよいのか、まことの神の思いに適った方法を探し求めるためであったと考えられます。

悪魔は、宣教が成功するためのアドバイスを与えに来たふりをして近づいてきますが、実はイエスの宣教を内側から破壊するためでした。悪魔の誘惑を私なりに意訳してみたいと思います。

ひとつ目。

「イエス様、あなたは神の子。どうぞ、この石をパンに変えてみてください。人間にとって食べることというのは、生きていくためにもっとも大切なことです。その食糧問題を立ちどころに解決してみせるんです。どこにでもいくらでも、ころがっている石ころをパンに変えて見せれば、人間はあなたのもとに押し寄せてきて、あなたの言うことを何でも聞くようになりますよ」

これはモノを与えて宣教を行いなさいという誘惑です。確かに人間にとって食べ物、またお金などは必要なものです。イエスは答えます。

「人はパンだけで生きるものではない」「だけで」と言われているように、その必要性は認めています。けれども、それだけではない、「神の言葉によって生きる」とイエスは言われます。食べ物は肉体を養いますが、心を養うのは神のことばであるのです。人間は心と体によって生きています。いくら体が健康であっても、もしも心が満たされていなければ、自ら体の命を絶つことさえあるのです。宣教とは心を養うことをまず第一とするべきです。

ふたつ目。

「さあ、この高い屋根から飛び降りてごらんなさい。父なる神が大あわてで、天使たちを飛んで来させますよ。そのものすごい奇跡を見せたら、人びとは拍手喝采、あなたはアイドルになって、大人気。みんな、ついて来ますよ」

けれどもイエスは「神である主を試してはならない」と言われます。わたしたちは頑張れば頑張るほど、どこかで認めてほしい、それをかたちで現わしてほしいと願います。宣教もがんばれば、きっと神さまは目に見える結果をくださるだろうと。たとえば、信者の数が増えるとか。もちろん、信徒が増えることは悪いことではありません。でもそれが第一の目標になってはいけないと思うのです。本当に福音が伝わる、人びとが救われる、そこについてきた結果であればいいのです。数だけを求めれば、大航海時代の教会のようにアメリカ大陸の現地の人びとに水をぶっかけて強制的に洗礼を授けるようなことになりかねません。

また、イエスは奇跡を行った際には必ず「このことを誰にも言ってはいけない」と命じています。イエスは奇跡という圧倒的な「力」で人びとをひれ伏させるような、強権的な宣教を望んではいなかったのです。

みっつ目。

「実はこの世界の権力、繁栄というものは、私に任されていまして、悪魔が与えたいと思う人に与えられるんです。あなたが私を拝むなら、全部、あなたにあげましょう。さあ、あなたは世界の王だ。人間は王に逆らうことはできず、皆、簡単にあなたの前にひれ伏して、何でもいうことを聞きます。これで宣教は大成功、間違いなし!」

これはわかりやすいですね。つまり、権力によって、人びとを従わせなさいということです。これは人類の歴史が始まって以来、今でも使われ続けている方法です。自分の考え、意見を通すために、権力を握ろうとする、行使しようとする。

けれどもイエスは言われます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」

この悪魔とイエスとのやりとりから、大切なことがわかります。この世界の権力は実は悪魔のものであって、悪魔を拝むことによって、与えられているのだと。では現代の各国の権力者たちは悪魔を拝んでいるのでしょうか?もちろん、権力者たちは直接、悪魔の像を拝む、などということはしていません。でも、権力欲、物欲など自己中心的に行動する時、人は知らず知らずの内に悪魔の思いに従っていて、間接的に悪魔を拝んでいることになるのです。宣教も自分の名誉心や何らかの欲望で行うならば、そうなります。宣教は自分をただ神の道具として、神の国の実現のために行うものです。

イエスの宣教は出会った人、一人ひとりの幸せ、救いを求めての旅であったと思います。その宣教の在り方をイエスは悪魔を拒否することによって確立したのです。

2月29日(土)から3月14日(土)までミサを中止いたします

2020年2月28日

カトリック垂水教会の信徒の皆様

担当司祭 林和則

2月29日(土)から3月14日(土)までミサを中止いたします

♰主の平和
本日朝、前田大司教様より、「新型コロナウィルス感染症にともなう措置(第2次)」のFAXが全小教区に配信されました。そこに書かれていた通達は以下の通りです。

  1. 2月29日(土)から3月14日(土)までの2週間、小教区をはじめ、定期的に不特定多数の信徒が参集して主日ミサが行われている施設では、公開のミサを中止してください。
  2. 3月1日と8日の日曜日は、大阪教区のすべての信徒に主日のミサに与かる義務を免除します。各自が家庭で、聖書を朗読し祈りを捧げたり、ロザリオの祈りをしたりする時を持つように勧めます。
  3. 上記1の期間中、週日のミサは、ごく小規模な参加者の場合を除いて、同様に中止してください。
  4. 同様に、上記1の期間中、ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。
  5. 結婚式や葬儀は、充分な感染対策をとった上で、通常通り行っていただいて結構です。

以上の通達に基づき、垂水教会におきましても、2月29日(土)から3月14日(土)までの週日、主日のミサを中止いたします。
※行事や講座などの中止に関しましては、明後日、開催される運営委員会に於いて検討いたしますので、また追って連絡いたします。

この通達を周知徹底するために、ご近所の方でメールをされていない、わからないという方がおられれば、口頭で連絡をして頂くようにお願いいたします。

今後も、状況の推移を見極めながら、教区から必要な措置が発表されていくと思います。その都度、皆様にはご連絡していきます。
どうぞ皆様、お体、くれぐれもご自愛ください。この災禍の1日も早い終息のために祈りましょう。