「垂水教会一般」カテゴリーアーカイブ
主に垂水教会内での情報
ご復活、おめでとうございます
【2020年4月12日】
復活の主日
【第一朗読】
使徒たちの宣教(使徒言行録10・34a、37-43)
〔その日、〕ペトロは口を開きこう言った。「あなたがたは【このことを】ご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」
【第二朗読】
使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント5・6b-8)
〔皆さん、〕わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
【福音書】
ヨハネによる福音(ヨハネ20・1-9)
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
福音のメッセージ
「ご復活、おめでとうございます」
カトリック垂水教会担当司祭:林 和則
♰主の平和
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに(20:1)」
私たちの主イエス・キリストはまさに今朝、復活されました。今日の復活の主日典礼暦A年のヨハネの福音は今日、私たちの中に実現しました。それは「まだ暗いうちに」、完全に明けきらぬ、まだ世界が暗闇の中に捉われていた時にも関わらず、主は復活されたのです。今のこの世界も未知のウイルスの感染という暗闇に覆われていて、いつ終息するのかもわからない不安の中で私たちはおびえています。けれども、その暗い中にあっても、主の復活はすでに成し遂げられていることを信じて、希望を持ちましょう。
「墓から石が取りのけてあるのを見た(20:1)」
この「石」、生者の世界と死者の世界を隔てるこの石は人類の歴史が始まって以来、誰も取りのけることはできませんでした。どんなに泣いても、呼んでも、死者が生者の世界に戻ってくることはありません。その無言の巨大な石は厳然として人類の前に立ちはだかり、人類はその前にひざを屈するしかなかったのです。死によって全ては終わり、その先に道はないことを示していました。
マグダラのマリアとペトロたちもそのように全てを終わったこととして、あきらめていました。「石が取りのけられてある」のを見、また聞いたのにも関わらず、まだ「墓」にこだわるのです。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません(20:2)」
マリアはまだ「墓」の中にだけ、イエスをさがし求めています。「墓」に捉われ、イエスが予告されていた「復活」という新しい世界に開かれていくことができません。
「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った(20:3)」
ペトロもやはり、「墓」に走って行きます。「墓」の中にイエスをさがしに行くのです。ある意味、それはイエスの「死」という過去に捉われ、未来ではなく過去に向かって走っている姿であるのかも知れません。中に入ったペトロは「亜麻布が置いてあるのを見た(20:6)。」単にイエスの遺体が存在しないということを「見た」だけでした。けれども、先に着きながらも後から入ったもう一人の弟子は違います。
「見て、信じた(20:8)」
単に「見た」だけではなく「信じた」のです。何を信じたのか、「復活」を信じたとしか考えようがありません。けれども、そうだとすると「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである(20:9)」という記述に矛盾することになります。
これについてはこの「もう一人の弟子」が誰であったのかを考えることがカギになります。先に2節ではこの弟子を「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と表現していて、以前はこの弟子はヨハネであるとされていました。けれどもここでは説明を省略いたしますが、現在ではこの弟子はこの聖書を聞き、また読んでいる人が自分をこの「愛された弟子」にあてはめることによって、自分も登場人物のひとりになって、追体験するための「仕かけ」と考えられています。
ですから、この福音書が書かれた時代にあっては初代教会の人びと、現代にあっては私たち自身が、この「イエスに愛された弟子」であるのです。そうなると、私たちはすでにイエスの復活を知ったうえで福音の物語の中にいます。つまり物語の中にいながらも「枠外」にいて、物事を見ていることになります。ですから、私たちが「墓」に行くということは、ペトロ(福音の物語の枠の中にいます)と違って「イエスの遺体」をさがしに行くのではなく、「イエスの復活」を確認するために行くのです。
そして私たちは福音記者が証言するその場景を聞かされたことによって「見た」ことになり、そして信じるのです。
少し複雑になりますが、ヨハネの福音は過去と現在の読者との間を自由に行き来します。それで物語に整合性を持たせるために、ペトロだけでなく「二人は」というように表現していると考えるのです。
せっかくの復活のお祝いの日に理屈っぽいメッセージになってしまって、すみません。大切なことは私たちが今日のヨハネが福音書に書き残した復活体験を聞いて、「聞く」だけでなく「信じる」ことです。
イエスは誰も取りのけることのできなかった「死」という「石」を取りのけて、まったく新しい世界を開いてくれた、ということを信じることです。復活の朝、「永遠の命」という終わることのない、無限の可能性が私たちの命に与えられたのです。この世的な価値観のもたらす様々な負の面(失敗、挫折、格差、憎悪など)に束縛されることのない、傷つけられることのない、本当の自由と喜びが無限に広がる命です。それらはすべて、キリストの十字架の奉献によって達成されたのです。
物理的に集まることはできなくても、体は離れていても心をひとつにして、新しい過越、主イエス・キリストの死と復活を讃美し、感謝しましょう。
復活の主日 復活の聖なる徹夜祭
2020年4月11日
カトリック垂水教会 信徒の皆様
担当司祭:林 和則
復活の主日 復活の聖なる徹夜祭
♰主の平和
聖木曜日のメッセージの冒頭で「聖なる三日間の典礼」は一年間の典礼暦の頂点と言ってもよいとお伝えしましたが、その三日間の中での頂点が「復活の聖なる徹夜祭」の典礼です。
気をつけていただきたいのは、「復活の聖なる徹夜祭」は「聖土曜日の典礼」ではありません。カトリック中央協議会が発行している「聖週間の典礼」の儀式書では次のように書かれています。
「聖土曜日に教会は、主の墓のもとにとどまって、その受難と死をしのび、祭壇の飾りを取り除き、ミサもささげない(儀式書238頁より)」
これを読んで「でも、土曜日の夜に行われているじゃないか」と疑問に感じる方もおられるでしょう。実はこれはユダヤ教の一日の考え方に基づいています。ユダヤ教(つまりイエスもこのような生活のリズムの中で生きておられたのです)では、一日は前日の日没から始まり、当日の日没で終わるのです。そのため、聖土曜日もその日の日没で終わり、その夜から復活の主日が始まるという初代教会の考え方が伝統的に守られてきました。ただし、四つの福音書すべてが語っている通り、「復活」は復活の主日の朝に起こりました。古くから教会はその復活の朝を眠ることなく徹夜して待ち通すという伝統を持っていて、それが復活徹夜祭となっていったのです。
徹夜祭の開始において照明を落とした暗い聖堂の中で、手にしたろうそくに灯りをともして信徒が司祭の入堂を待つのはルカ12:35―40の「目を覚ましている僕」のたとえのイメージに基づいているといわれています。
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ(12:38)」
ですから、会衆は司祭が掲げる「復活のろうそく」に象徴されている「復活されたキリスト」を「ともし火をともして(12:35)」迎えるのです。
もちろん、現在の生活事情もあって、実際に徹夜をするわけではありませんが、大切なことは「目を覚ましている」ことです。それはこの世だけでなく、日々の生活において絶えず「信仰」に目覚めていることです。地上に生きる私たちは日常の生活の中に生きているうちに、目に見える地上的な価値観に流されて、信仰が鈍り、眠り込んでしまいがちです。ですから地上の生活にあっても、目に見えない世界、何よりも復活して今も生きているキリストを見つめる信仰にいつも目覚めていなければなりません。四旬節はいつの間にか眠り込んで惰性に陥っていた信仰の目を覚ます時であったとも言えます。「ともし火」は何よりも私たちの中の「信仰」であり、ろうそくと共にしっかりと復活の主に示しましょう。
そして徹夜祭における復活のろうそく、その光こそが復活のキリスト、今も私たちの中に生きておられ、光を輝かせているキリストのシンボルで、復活徹夜祭の中心です。その光は聖堂の中だけで輝いているのではありません。聖堂の壁を貫いて、全世界に輝いているのです。それは新しい天地創造であると言えます。
「光あれ(創世記1:3)」
神がこの世界を創造される際に最初に発したことば、それによって混沌の地に輝いた光、キリストはまさに復活によって、人類の混沌の歴史の中に新たな光、神の愛を輝かせ、世界を新たにされたのです。
それは今年、未知のウイルスの恐怖におびえ、先の見えない不安の中で暗闇のような状況にある今の世界にこそ、必要なのです。教会はそのような世界に向かって、復活のろうそくを高々と掲げ、「光あれ!」と希望を響かせるのです。
今年、私は垂水教会の聖堂ではそれをできませんが、今夜、愛徳カルメル会本部の修道院での復活の徹夜祭の典礼において復活のろうそくを掲げます。それは修道院のシスターの方がたのためだけでなく、垂水の地域に生きるすべての人びと(信徒だけでなく)のために掲げるのです(なお修道院のミサは院内のシスター方のためだけの「非公開」のミサとして司教様から許可されています。そのため皆さんの参加はできないことをご了解ください)。皆さんは垂水の地に復活のろうそくが、キリストの光が掲げられたことを喜び、そこに参加はできずとも、垂水の人びとのため、また全世界の人びとのためにお祈りください。また、可能な方は大阪教区もしくは東京教区のネットミサで復活のろうそくを仰ぎ、この世界にキリストの光が満ちあふれますようにと祈りを捧げてください。
復活の徹夜祭のことばの祭儀には九つの朗読があり、そのうち七つは旧約聖書から、二つは新約聖書(パウロの書簡と福音書)から取られたものです。
「創世記1:1~2:2」「創世記22:1~18」「出エジプト記14:15~15:1a」
「イザヤの預言54:5~14」「イザヤの預言55:1~11」
「バルクの預言3:9~15、32~4:4」「エゼキエルの預言36:16~17a、18~28」
「使徒パウロのローマの教会への手紙6:3~11」
「マタイによる福音28:1~10」
そこでは創世記の天地の創造から、新約の復活の出来事に至る、神の救いの歴史が俯瞰的に語られています。私たちはそれを通して、神が人類の歴史の始まりから共に歩んでくださって、キリストを通して私たちを救ってくださったという壮大な神の御手のわざを実感し、その中に自分の人生があることの恵みを感謝します。どんな人の人生もちっぽけなものではありません。時空を超えた神の計らいの中に置かれた、神にとっての宝なのです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた(申命記7:6)」
ぜひ、ご自宅で聖書を開いて、上記の朗読箇所を読まれて、神の救いの歴史を黙想してください。
このように神の救いの歴史を通して読むのは、ユダヤ教の過越の祭りに源流があります。過越の祭りの夜、家族がひとつに集い、過越のいけにえの子羊を共に食し、その後、父親が子どもたちに救いの歴史を語るのです。
「あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときには、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と(出エジプト記12:26~27)」
この時、父親は聖書に書かれてある出エジプトの出来事を語り、神がイスラエルの民を救われたことを子々孫々に語り継いでいくのです。
復活徹夜祭においても、教会は教会の子らに救いの歴史を年ごとに語り継ぎ、感謝して、心に刻み込むようにとしているのです。
今年は教会に集まれないので、過越の祭りの原形のように、家族の皆さんで朗読箇所を味わい、キリストを通して実現した新しい過越について語り合ってみるのは、いかがでしょうか。その際、小さなお子さんがいれば、お父さんお母さんは絵本を読み聞かせるように(聖書絵本があればそれをお使いください)、語ってあげてください。
復活徹夜祭は過越の祭りを原形としていて、同じように、「家族の祝い」なのです。まず大きな、教会の家族のお祝いです。ですから、この祝いに教会に集まって共に祝えないことは本当に残念なことです。ぜひ今夜、物理的に離れていても、心は共にあるという思いで、垂水の教会共同体、さらに全世界の教会共同体のためにお祈りください。
そして小さな、家庭としての家族のお祝いです。教会に集まれない分、今年は家庭での祈りを大切にしてください。家族でネット中継のミサに与る、聖書を朗読するなど、してみてください。
祈りのうちに
聖金曜日 主の受難
2020年4月9日
カトリック垂水教会 信徒の皆様
担当司祭:林 和則
聖 金 曜 日 主 の 受 難
♰主の平和
明日の典礼はキリストの受難を記念します。今夜の聖木曜日の典礼の最後に行われる「聖体安置式」によって、キリストは私たちから取り去られ「不在」となります。そのために明日の典礼はミサではなく「ことばの祭儀」で行われます。ミサという食卓はキリストが主人であって、私たちを招いてくださることによってはじめて成立するからです。従って、主人が「不在」であっては食卓、ミサという宴を開くことはできません。
その「不在」を可視化するために祭壇には何も飾らず、十字架もろうそくも置かれず、祭壇布もかけられずに「裸」のままです。
なお、日本においては聖金曜日は平日ですので一般的には夜間に行われますが、本来は午後3時から行うようにと定められています。それはマタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書がイエスの死が午後3時ごろであったと記しているからです。
「主の受難」の典礼は「ことばの祭儀」「十字架の崇敬」および「聖体拝領(交わりの儀)」の三部から成っています。「および聖体拝領」と書きましたのはこれまでの説明でお察しされることと思いますが、キリストが「不在」であるがゆえにミサが行われないのですから「パンの聖別」ができないゆえに「聖体」も存在しないはずなのです。実際、カトリック教会(東方教会は別)では7世紀まで聖体拝領は行われず、16世紀にも聖体拝領は司祭だけとされた時期もありました。
聖金曜日の典礼における聖体拝領は司牧的配慮で行われる付加的なものであって、中心は「ことばの祭儀」における「受難の朗読」にこそあるのです。
「受難の朗読」の前に置かれているイザヤの預言は、なぜ神の子であるキリストが人の手によって十字架で殺されねばならなかったのかという、弟子たちを苦しめた大きな問いに対しての弟子たちの答えを求めての歩みを知るうえで、とても大切な箇所です。
現在の私たちはある意味、「十字架」に慣れてしまってはいないでしょうか。それを見ても、自分たちの信仰の対象、シンボルとして抵抗なく受け入れてしまってはいないでしょうか。けれども、十字架の神秘、そのはかり知れない恵みを感じるためには、当時のローマ世界のまた弟子たちにとっての「十字架」とはどのようなものであったのかを知る必要があり、それを「受難の朗読」を通して追体験するように聖金曜日の典礼は構成されています。
十字架は当時のローマ世界にあって、もっとも残酷で、屈辱的な刑でした。それは受刑者の人格を粉々に打ち砕き、その存在の痕跡さえも消し去ってしまうがごとき刑罰でした。まず十字架に架ける前に、拷問によって肉体を鞭で、精神を罵詈雑言で破壊していきます。そして十字架の木を担がせて(かなりの重量ですから現在では横木だけであったのでは、という説もあります)人びとの中をさらしものにして歩かせます。刑場につくと裸同然の姿にして十字架の上に寝かせて両手に一本ずつ、両足を交差させて一本の釘を打ち込みます。
そして立てます。磔にされた受刑者は次第に体が下がってきて喉がつまり、最後は窒息して死にます。それはまさに真綿で首を絞めていくように、徐々に息苦しさが増していくという非常な苦痛でした。死んだ後、原則的に死体は埋葬されずに架けられたままで残されます。やがて腐った死体は地に落ちて、鳥や獣によって食い尽くされていき、遺骨さえも残らないのです。そのことはローマ帝国内において数多く十字架刑が行われたのにも関わらず、その遺骨がほとんど残っていないことからもわかります。
この残酷さは、十字架刑がローマ帝国への反逆罪に課せられるものであり、いわば逆らえばこうなるという「見せしめの刑」であったからです。
当時の人びとにとって十字架刑は恐怖であり、哀れというよりも目を背けて関わり合いを拒みたくなるような、みじめで恥辱に満ちたものでした。最低、最悪の死に方として恐れられ、嫌悪されていたのです。
イエスが、神の子がそのような「十字架」に架けられて殺されてしまったのです。弟子たちの衝撃はどれほどのものであったのか、察するに余りあります。
出口のない闇の中をさまようにして弟子たちは苦しみ悶えながらも「なぜ、どうして」と問いつづけたことでしょう。そんな弟子たちにひと筋の光を与えてくれたのが、第一朗読のイザヤの預言でした。
「彼の姿は損なわれ、人とは見えず もはや人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる(52:14-15)」
「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた(53:8)」
「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った(53:11)」
「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった(53:12)」
この箇所は現代では「苦難の僕」と呼ばれています。弟子たちはここに預言されている「わたしの僕」の姿に十字架のキリストの姿を見出しました。それによって暗闇から抜け出し、この世的には敗北の象徴であった十字架を逆にキリストの勝利、栄光として崇めていくのです。それはまさにこの世的な価値観が逆転し、まったく新たな福音的価値観へと開かれていく、新しい世界の始まりだったのです。
十字架を担って生きることは、この世的な価値観ではなく、福音的価値観に従って生きていくことなのです。
そのためにキリストがどれほどの苦しきを過ぎ越さねばならなかったか、その苦しみを受難の朗読を通して深く心に刻み込まねばなりません。それがキリストの過越によって無償で救われた私たちの責任、キリストの愛に応えることになると思います。キリストの苦しみに共感していくのです。
それはまた全世界の人びとの苦しみに共感していくことになります。イエスが死ぬ前に大声で叫んだ「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(マタイ27:46)」はけっして個人的な絶望の叫びではありません。
「あの叫びの中で、歴史上のすべての磔刑者たちが叫んでいました。それは不正に対する憤り、抗議の叫びでした。同時に希望の叫びでもありました。初期のキリスト者たちは、このイエスの叫び声を決して忘れませんでした。すべての人の幸せを求めて排斥され、処刑されたこの人の叫びには、いのちの究極的な真理があります。この磔刑者の愛の中には、苦しむすべての人と一つになり、あらゆる時代の、あらゆる不正、虐待、暴行に反して叫ぶ神ご自身がおられます(パゴラ・エロルサ・ホセ・アントニオ神父「イエス あなたはいったい何者ですか」ドン・ボスコ社501頁より)」
この叫びが受難の朗読全編を貫いています。イエスの苦しみ、この叫びに共感することは、私たちも現代の世界にあって苦しみ叫ぶ人びとと共に叫び、その人々の痛みに共感することです。イエスの受難を黙想することが閉鎖的なセンチメンタルなものに終わるだけでは足りないと思います。
第二部の「十字架の崇敬」におきましても、どうぞ全世界の苦しむ人びとともにおられるキリストの姿として、十字架を礼拝してください。今年は、典礼のネット中継を通してか、黙想の中において礼拝してください。
祈りのうちに
*明日、主の受難を思うべき日の日中に「復活の徹夜祭」についてのメッセージを出すことは典礼暦的に相応しくないので、明後日の午前中に発信いたします。
聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ
2020年4月8日
カトリック垂水教会 信徒の皆様
担当司祭:林 和則
聖木曜日 主の晩さんの夕べのミサ
♰主の平和
皆さん、いよいよ明日から、一年間の典礼暦でもっとも大切な典礼、典礼暦の頂点と言ってもよい「聖なる三日間の典礼」が始まります。誠に心が痛みますがご承知の通り、今年は教会聖堂における「聖なる三日間の典礼」に与って頂くことができません。だからといって、この三日間を無為に過ごすことは、キリストがご自分の命を捧げてまで与えてくださった大きな恵みに応えないことで、あってはなりません。6日に皆さんに発信いたしました「聖なる三日間および復活祭への対応について」の中での勧めを参考にして頂き、よき「聖なる三日間」を過ごして頂けることをお祈りしております。
「聖なる三日間」は旧約の「出エジプト」に替わる新たな過越である「キリストの死と復活」を記念するための典礼です。新約聖書が書かれた言葉であるギリシア語の「記念」を意味する「アナムネーシス」は単に出来事を「思い起こす」だけでなく、その出来事がまた「現存化」するという意味が含まれています。ですから「聖なる三日間」の典礼を執り行うことによって、「キリストの死と復活」が私たちの現在の教会の中に再起し現存するのです。「聖なる三日間」の典礼は少しでも私たちが過去に起こったキリストの死と復活の出来事を追体験し、それによって実現した救いと恵みを、今まさに実現している恵みとして受けることができるように、とてもよく考えられている、すばらしい典礼です。
明日、聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」は、いわゆる「最後の晩さん」を記念する典礼です。ヨハネの福音書はその出来事の始めを次のように書き出しています。
「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた(13:1)」
「この上なく」つまり最上級の、最高の愛をもってということです。最後の晩さんの行われた広間には、このイエスの弟子たちへの「この上ない愛」が満ち満ちていました。最後の晩さんの時間は最初から最後までイエスの「この上ない愛」に包まれていました。それを記念する聖木曜日のミサもまた、私たちへのイエスの「この上もない愛」に包まれているのです。
その愛を具体的に行動によって示されたのが、弟子たちの足を洗う行為でした。この日の福音はその箇所が朗読されます(ヨハネ13:1―15)。
足を洗うという行為は当時の世界にあっては使用人、多くは奴隷の行う、いわば「汚れ仕事」でした。ペトロにいたっては驚きあわてて「わたしの足など、けっして洗わないでください(13:8)」と自分の師であるイエスに訴えます。イエスは弟子たちの足を洗った後、「師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない(13:14)」と言われます。これは弟子たちにというよりも、私たち教会にたいして命じられたことばとして受け止めなければなりません。教会はこの世的な組織とはまったく逆の構造を有しているのです。国家や会社は少数の支配者が多くの人びとを支配するという、いわゆるピラミッド型の構造です。けれども教会は逆ピラミッドなのです。上に立つ人ほど、人びとに仕える者とならなければならない、下って(へりくだって)行かなければならない、それが教会なのだと。互いに仕え合うのが教会共同体であると、イエスは身をもって模範を示されたのです。
「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである(13:15)」
このイエスの教えを聖木曜日の典礼では説教の後に「洗足式」を行うことで具体的に表現し、会衆に実体験してもらいます。その際に留意しておくべき点は、イエスはユダの足をも洗われたということです。洗われた後で「しようとしていることを、今すぐ、しなさい(13:27)」とユダを外に出すのです。私たちは自分を裏切ろうとしている、また自分を憎んでいる人の足を洗うこと、その人の前でへりくだることができるでしょうか。イエスはそれをも模範として示されたのです。「洗足式」に与る時、もし今の自分にとってそのような人がいるのであれば、イエスのようにその人たちにも仕えることができるための助けを願いましょう。
最後の晩さんにおいてイエスは聖体の秘跡の制定をされて、私たちに「ミサ」という最大の恵みを残してくださいました。この「聖体」は最後の晩さんを包み込んでいた弟子たち、私たちへの「この上ない愛」が結晶化したものであるといえます。私たちはミサを通して、聖体を通して、今もイエスの「この上ない愛」を実感し、頂くことができるのです。
「聖体の秘跡」の制定は、毎週のミサの中でも奉献文を通して記念していますが、「主の晩さんの夕べのミサ」では特にそれを強く思い起こし、改めて記念、感謝する典礼です。また改めて、これからの一年を聖体の秘跡と共に信仰生活を送ることを決意しつつ、心をこめてパンとぶどう酒の聖別、聖体拝領に与ります。
聖木曜日の典礼では最後に「聖体安置式」が行われます。いつもは聖堂内の聖櫃に安置されている聖体を聖堂外の他の場所に運ぶ式です。これによって、最後の晩さんの後、ユダによって率いられてきた大勢の群衆によってイエスが逮捕されたことを記念します。それはこの世的な思いと力によって、私たちからイエスが奪い取られたことを意味します。そのために聖堂の「外」に聖体が運び出されます。イエスは「不在」になります。
その「不在」の間、イエスは弟子たちからも見放され、孤独になって不当な裁判また残酷な拷問を受けていることを、安置所の仮祭壇の前で私たちは黙想します。聖堂の祭壇から覆いを取り外し、祭壇を「裸」にするのも、イエスの不在とともにイエスが全てを奪われて苦しめられている姿を可視化するためです。
また最後の晩さんの後、逮捕の前のゲッセマネの園での苦しみも福音書を読んで黙想しましょう。
「主の晩さんの夕べのミサ」はイエスの愛に包まれた晩さん、聖体の秘跡の制定による、光に満ちたような喜びが、聖体安置式によって一気に暗闇と悲嘆の中に突き落とされていくような典礼です。
けれども、その暗闇の中にあっても、イエスの「この上のない愛」はけっして消えることなく、人びとを、自分を訴え拷問する人びとをも包み込んでいたのです。どんなに拒否されても、イエスの「この上のない愛」は全ての人に向かって輝き続けていたのです。それが「十字架」に結晶して行きます。
聖体の秘跡の制定を特別に記念する「主の晩さんの夕べのミサ」は確かにミサに参加してこそ、その意義を深く味わえると言えます。ですからぜひ、可能な方は大阪教区、東京教区が中継するユーチューブでの聖木曜日のミサに与ってください。特にパンとぶどう酒の聖別をいつもよりもよく見つめ、最後の晩さんを黙想してください。そして霊的聖体拝領をしてください。
また各福音書に記述されている最後の晩さんからイエスの逮捕の出来事を読んで、黙想してください。
祈りのうちに
今の状況にあって聖なる三日間と復活祭を迎えるために
2020年4月7日
カトリック垂水教会 信徒の皆様
担当司祭:林 和則
今の状況にあって聖なる三日間と復活祭を迎えるために
♰主の平和
本日、政府は新型コロナウイルスの感染拡大に備えるため、兵庫県を含めた7都府県に緊急事態宣言を発令することを決定しました。いよいよ外出を含めたさまざまな通常の日々の営みが制限されていきます。その中にあって、大阪教区が聖なる三日間と復活祭において公開ミサを中止したことは適切な措置であったといえます。この日々を単に「耐える」のではなく「すべてのいのちを守るため」に教皇様また全世界の教会とともにキリストの心をもって、積極的に私たちの生活を捧げていくようにいたしましょう。
けれどもやはり、皆さんにとって聖なる三日間と復活祭の典礼をこれまで毎年、通い続けてきた垂水教会の聖堂で祝えないことは、大きな痛みでしょう。私は今月1日の書面において「今の私たちはバビロンの捕囚時における神の民のような状況」と書きました。この連想を深めていきたいと思います。
紀元前6世紀初めからバビロニア帝国が南ユダ王国を圧迫し、たびたび攻撃をして来ました。ユダの王たちはバビロニアに屈従しますが、王国最後の王となったゼデキヤが反抗しようとしたことによって、紀元前586年、バビロニアはエルサレムを徹底的に神殿もろとも破壊し、王国を滅ぼしました。そして占領政策として王族、家臣団、知識階級であった祭司たちを主とする多くの人びとを捕囚として首都バビロンに連行し、以後47年間、ユダヤの人びとはバビロンでの捕囚生活を送ることになったのです。
それは民族として、またユダヤ教徒として、大きなアイデンティティの危機でした。まず大きく信仰が揺らぎました。当時の戦争は民と民の戦いだけでなく、それぞれの民が信じる神と神との戦いでした。ですからユダがバビロニアに敗れたということはユダヤ教の神がバビロニアの神々に負けたことになるのです。しかもユダヤ人にしてみると唯一絶対の万能の神が、ライオンの姿を持ったような偶像の神々に負けてしまったのです。「はたして私たちの神はまことの神であったのか」そのような疑問をさえ、ユダヤの人びとは抱き、自分たちのこれまでの信仰生活がすべて否定されたような絶望と虚無に陥ったのです。
またそれまでのユダヤ教は神殿が中心でした。神殿が聖なる場所であって、もっとも大切な礼拝は神殿でのいけにえの儀式でした。それによって民は神と和解し、つながりを保ち続けることができると考えていました。それらが全て、奪い去られてしまったのです。しかもユダヤ人にとって異国の地は異教の地であって「汚れた土地」でした。神殿で礼拝することができず、異国の地にあってユダヤの民はどのように信仰を守ればよいのか、途方に暮れていました。このままでは、ユダヤの民も信仰もアイデンティティを失い、バビロニアの民族と宗教の中に埋没してしまいかねません(それがバビロニアの占領政策でした)。神の民の歴史の中で最大の災厄であり、存続の危機を目前にしても為すすべもなく、人びとは打ちのめされ、無力感と神から見放されたような絶望感の中に沈み込んでいました。
けれども結果的に、このバビロンの捕囚がユダヤ教を刷新し、また旧約聖書の編集を最終的な完成へと導いていったのです。それはユダヤの民とユダヤ教を存続させようとして、絶望せずに神に祈り求め続けた祭司たちの働きが大きな力になりました。
祭司たちの努力のもっとも優れた実りは「安息日」の制度をユダヤ教に導入したことでした。それによって、どのような場所にいようとも関係なく、時間を、生活そのものを聖化することを可能にしました。安息日によって信仰生活にリズムを作りました。バビロンにおける、この世的な価値観に支配された日常に流されないために、安息日には労働をやすみ、俗事の煩いを離れて、神のことばを聴き、黙想の時間を持つ。神のことばによって日々の生活を振り返り絶えず刷新することによって、神殿はなくとも、異国の地にあっても、神と共に生きる生活が可能になったのです。
今、私たちはそのかつての「安息日」に替わる「主日」に聖堂でのミサに与っての信仰生活を送ることができません。間違いなくミサは私たちにとって、最高の礼拝であり、信仰生活の中心、信仰を生きるための命の泉です。
けれども、そのミサを豊かにするのは日々の生活の場での祈りであり、黙想なのです。もちろんミサ自体は他の何ものによっても代えられることのできない恵みですが、その恵みをより深く自分の内に豊かにするためには、日々の祈りが必要であり、また信仰を自分のものとし、人生と結びつけるために黙想が必要です。昨日の運営委員会の報告でも触れましたが、どこかで私たちはミサに出ていればそれでいいと、黙想の努力を怠ってはいなかったでしょうか。もっとも、それは私たち司祭の霊的指導が不十分であったためでもあり、皆さんだけの責任ではありません。
この時を利用して、各自の家庭においてみことばを味わい、それを自分の生活に照らし合わせて黙想することに更なる努力を傾けてみてはいかがでしょうか。それによって、バビロンの捕囚にあった神の民のように、この災厄の時を信仰のための恵みの時とすることができるのではないでしょうか。
また私たちは日本の教会の民として次のことも忘れず心に銘記すべきです。江戸の禁教令の時代、潜伏キリシタンの人びとは過酷な迫害の中でミサを待ち望みながら、約230年もの間、信仰を守り抜いたことを。
またユダヤ人は捕囚の前、いつの間にか儀式と礼拝を惰性的に行い、信仰が生活から乖離(かいり)してしまっていました。それを預言者たちは何度も警告しましたが、民は耳を傾けようとはしませんでした。そんなユダヤ人にとって、捕囚の時期は自分たちの信仰をゆっくりと見直す時にもなったのです。
私たちも今、自分の信仰生活を見直す時であるのかも知れません。
教皇フランシスコは3月27日、バチカンで無人のサン・ピエトロ広場の前で「ウルビ・エト・オルビ(ローマと全世界へ)」の祝福を祈る前に、神に向かって次のように語りかけられました。
「今はあなたの時ではなく、私たちが見極める時です。大切なことと過ぎ去ることを見分け、必要なこととそうでないことを区別する時です。私たちの生き方を立て直し、主よ、あなたと他者に向かわせる時です(カトリック新聞2020年4月5日発行第4526号一面記事より抜粋)」
この「見極め」「立て直し」は信仰生活はもちろん、私たち人類全体の今のあり方についても必要であるような気がします。ひとつには今の私たちの際限もなく膨張し、歯止めの利かない消費文化です。そのために地球環境、人間関係が犠牲にされていっていると思います。
この三日間と復活祭をぜひ、ご家庭でのみことばを通しての祈りと黙想の日々、それを通しての信仰生活の刷新の日々、また全世界の人びとを思い、共に歩む日々として頂きたいと思います。
この世界を新たにするためであった、キリストの死と復活、新たな過ぎ越しを生きるためにふさわしい過ごし方として、皆さんにこのような祈りと黙想の日々をお勧めしたいと思います。
祈りのうちに
聖なる三日間および復活祭への対応について
2020年4月6日
カトリック垂水教会 信徒の皆様
担当司祭:林 和則
聖なる三日間および復活祭への対応について
♰主の平和
4月1日の教区からの通達を連絡する書面におきまして「聖なる三日間、復活祭を聖堂での典礼のできない状況にあって、どのように過ごして頂けばよいのか、運営委員会とともに検討し、何らかの提案をしていきたい」とお伝えしました。そのために昨日5日に臨時運営委員会を開催いたし、委員とともに検討いたしましたので、その内容を以下にご報告いたします。
まず上記の4日間(9日~12日)の間、地区別に時間枠を設けて聖堂での聖体訪問と黙想の時間を行うという可能性を考えました。これについては「先に聖堂閉鎖を伝えたばかりなので皆さんの中に混乱や誤解が生じる恐れがある」「一般企業のビルや事務室に入るのでさえ体温の測定がなされている現状の社会の共通認識に照らしてみて不適当ではないか」という疑問が出されました。何よりも「日本の教会では個人としての黙想、観想という祈りの習慣があまりできていないと思える。むしろ今、ミサに与れないこの時期こそ、黙想や観想を通して神と対話する大切さを感じることができるのではないか」という意見に私も委員も大きく心を動かされ、聖堂で何かを行うのではなく、信徒の方がたがご自分の家庭において個人で、また家族でできることを考えて行こうということになり、結果、以下のように決定いたしました。
- 現在の状況における聖なる三日間と復活祭を迎えるための霊的な勧め、また聖なる三日間と復活祭をよく迎えて頂くためにそれぞれの典礼の意義についての司祭からのメッセージを、一斉送信とホームページを通して発信します。
- 復活祭の当日の朝9時、物理的には離れていても、垂水教会の共同体がひとつになって主の復活を讃えるために「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」「栄光唱(栄光は父と子と聖霊に、初めのように、今も、いつも、アーメン)」を各自のいる場所で唱えることをお願いいたします。
- 聖なる三日間と復活祭の典礼は大阪教区または東京教区がユーチューブを通して中継される予定ですので、それを見て参加し、ご聖体の霊的拝領をすることをお勧めします。くわしくは各教区のホームページをご覧ください。
大阪教区ホームページ http://www.osaka.catholic.jp
東京教区ホームページ http://www.tokyo.catholic.jp
1. につきましては明日7日に「聖なる三日間と復活祭を迎えるための霊的勧
め」を、8日に聖木曜日、9日に聖金曜日、10日に復活徹夜祭、11日に復活祭のそれぞれの典礼の意義についてのメッセージを送信していきます。
2. につきましては強制ではありません。あくまでも共同体の皆さんへの呼び
かけです。
聖なる三日間と復活祭の典礼を教会で与れないということは、皆さんにとって大きな心の痛みであることでしょう。けれども、大阪教区や他の教区が決定したこの措置はキリストの隣人愛に基づいているのです。
「こうして公開の形での主日ミサを取りやめているのも、何度も強調してきましたが、自分の身を守るためというよりも、無症状のままで感染源になる可能性があるという今回のウイルス感染の特徴のため、知らないうちに自分が感染源となって、他の人たちを巻き込んでしまうことを避けるためです」
(中 略)
「コロナウィルス感染症の蔓延は、わたしたちに、すべてのいのちを守るためには、自分の身を守ることだけではなく、同時に他者のいのちにも心を配る思いやりが必要なのだということを思い起こさせています。すなわち、すべてのいのちを守るための行動は、社会の中での連帯と思いやりを必要としています」
3月29日四旬節第5主日の東京教区ネット中継ミサでの菊池大司教様の説教です。全文は東京教区のホームページに掲載されています。
昨年11月の教皇フランシスコの訪日のテーマは「すべてのいのちを守るため」でした。今まさに、私たち教会はこの状況の中でそれが問われているのです。
以上
4月5日のミサ(受難の主日)
4月末日までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。
受難の主日(枝の主日)聖書と典礼 2020年4月5日
※ 受難の朗読(マタイによる福音 27章 11-54節)は省略いたしました。お手持ちの聖書でお読みください。
入城の福音
マタイによる福音(マタイ21・1-11)
〔イエスの〕一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
第一朗読
イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。
第二朗読
使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
〔イエス・〕キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
福音のメッセージ
「子ろばに乗って」
*今日は「受難の朗読」ではなく「入城の福音」からのメッセージを皆さんにお届けします。
カトリック垂水教会担当司祭:林 和則
本日の典礼は聖週間の初日にあたり、主がついにエルサレムに入城されたことを記念します。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書では、イエスの宣教活動中におけるエルサレム入城はただ一度、その最期の日々に果たされたとされています。それによって、エルサレム入城が同時に十字架の死へ向かう最後の一歩であったことを意味しています。ちなみにヨハネではイエスは5回、エルサレムに上ったとされています。
けれども今日の福音にあるように、その入城の様子は十字架の死とはまったく逆の勝利と栄光に満ちたものでした。大勢の群衆が王を迎える時のようにその進む道に自らの服や木の枝を敷き詰め、イエスの前後を取りまいて「ダビデの子にホサナ」と歓呼の声をあげます。そう群衆はまさにイエスが彼らの待ち望んでいた真の王であるメシアとしての行動を開始するためにエルサレムに来られたのだという期待に熱狂していたのです。
群衆のこの熱狂を理解するためには、当時のユダヤがメシアを待ち望む運動、いわゆるメシア主義(メシアニズム)にいかに沸騰していたかに思いを馳せる必要があります。それは福音書全編の背景を思い描くためにも欠かすことのできない視点です。その運動は同時にローマ帝国からの独立運動、民族主義的な熱情と一体化していました。ユダヤ人はローマ帝国から民族を解放してくれる政治的、軍事的な王としてのメシアを待望していました。
私たちはしばしばそれを神の救いをもたらす真のメシアを理解できずに地上的な栄光を求めていた愚かなユダヤ人として蔑視しがちです。また今日の受難の朗読また聖なる三日間の福音朗読においてユダヤの祭司たちや民衆を、イエスを十字架の死に追い詰めた「悪役」として捉えがちです。けれども皆さんに気をつけて頂きたいのは、そのような視点をもって福音を読もうとすることです。そのような視点が欧米におけるカトリック教会を中心としての反ユダヤ主義の温床となったのです。
何世紀にもわたって大国の支配や侵略に虐げられてきた弱小民族が解放と独立を切望するのは当然のことです。むしろそのような「人間的な見方」を超えた神の思いに開かれていくことはきわめて困難なことで、おそらくどの民族にあってもそれは同じで、私はイエスがどの民族に生まれていても、やはり死刑にされていたと思います。何よりもイエスがそれをもっとも理解されていたことでしょう。それでもなお神の民であるユダヤ人を愛されていたことが大切です。だからこそイエスはエルサレムを思って涙を流されたのです。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛(ひな)をその羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか(マタイ23:37)」
まさにイエスは母親が幼いわが子を腕の中に抱きしめるようにして、ユダヤの民を愛されていたのです。ここから言えることは、イエスの十字架の苦しみは肉体的なものだけでなく、弟子たちの裏切りがそれ以上の苦しみであったとよく言われますが、それと同様に愛する民から見放されて、憎まれ、さらに殺されるという大きな苦しみがあったのです。
今日のエルサレム入城で歓呼する群衆にもイエスは真のメシアを理解してもらおうとして必死に訴えています。それが「子ろばに乗って」入城する姿です。イメージしてみてください。人びとが立ち上がってイエスを讃えている、けれどもイエスは低い子ろばに乗っているために人びとの視線より下にいて、人びとを見上げています。人びとはイエスを見下ろしています。何という奇妙で、ちぐはぐな光景でしょうか。この光景にふさわしい姿は馬に乗って来る姿だったのです。馬に乗れば人びとを見下ろし、人びとは見上げることになります。だからこそ馬は権力者と軍人の乗り物でした。まさにそれは「政治」と「軍事」の象徴で、人びともそのような姿こそをメシアに、イエスに求めていました。
だからこそ、イエスはろば、しかも子ろばに乗ってきたのです。ろばは庶民が運搬また乗用に生活のために使用するものでした。それは「仕えること」と「平和」の象徴でした。イエスにとってメシアであるということは「仕える」ためであり「平和」をもたらすことでした。それが人びとに理解できないのは、イエスは単に「人間的な見方」によってではなく、それを超える「神の愛の視点」から実現しようとされていたからです。
ですから、群衆の歓呼が響き渡るような輝かしい今日の福音には、実はイエスと群衆の思いの深い断絶がすでに表れていて、受難の序曲ともいうべきものであるのです。
繰り返しますが、受難の福音を黙想する時にはイエスのユダヤ人の愛を想起してください。そして私たちも福音のユダヤ人のようにイエスが何度も何度もご自分の腕の中に私たちを抱き迎えようとしてくださっているのに、そこから逃れて、この世的な価値や快楽に走っていることを。「エルサレムよ、エルサレムよ」と嘆かれ涙を流されたように、新しいエルサレムであるキリストの教会の子らである私たちのために嘆かれ涙を流されていることを。
お知らせ:
大阪大司教区、東京大司教区等で、YouTubeを利用したミサのLIVE配信を行っています。下記記載のURLよりYouTubeをご覧になれる環境をお持ちの方はぜひご活用ください。
大坂大司教区 4月5日 10:00
http://www.osaka.catholic.jp/c_oshirase_bun2020.html#200319
東京大司教区 4月5日 10:00
https://www.youtube.com/watch?v=eRc_PYecgvY
4月末までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します
2020年4月1日
カトリック垂水教会 信徒の皆様
担当司祭:林 和則
4月末までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します
♰主の平和
本日午後、前田大司教様より、第5次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られて参りました。
通達の全文は大阪教区のホームページ(http//www.osaka.catholic.jp)に掲載されています。「更新情報」の中の「お知らせ(4月1日)」をクリックしてご覧ください。
ここでは、第5次の通達中、垂水教会が取るべき措置に関係する重要な通達を以下に列挙しておきます。
- 1.大阪教区での公開ミサは、4月末まで中止とします。5月以降に関しては、4月23日(木)ごろをめどに、改めて通知します。
- 2.ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。
- 3.秘跡の授与(洗礼、聖体、ゆるしの秘跡、病者の塗油など)に関しては、小教区の責任司祭に一任します。
- 5.公開ミサ中止期間中、大阪教区のすべての信徒に主日のミサに与る義務を免除します。各自が家庭で、聖書を朗読したり祈りを捧げたり、ロザリオの祈りをしたりする時を持つように勧めます。
上記の通達に従って、4月末日まで週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を延長いたします。
聖週間および復活祭については、大阪教区では聖なる三日間の典礼のインターネット中継を検討しています。また皆さんの霊的指導の責任を担う担当司祭としましても、一年間の典礼で最も大切な聖なる三日間、復活祭を聖堂での典礼のできない状況にあって、どのように過ごして頂けばよいのか、運営委員会とともに検討し、何らかの提案をしていきたいと考えております。ある意味、今の私たちはバビロンの捕囚時における神の民のような状況にあるのかも知れません。当時の神の民がその苦境を乗り越えたように、私たちも揺らぐことのない信仰をもって歩んで行きましょう。
3月29日のミサ(四旬節第5日)
4月8日(水)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。
今回も神父様の福音のメッセージが入っております。皆さんと共に早く収束する事をお祈りいたしましょう。
四旬節第5主日 A年 聖書と典礼 2020年3月29日
第一朗読
エゼキエルの預言(エゼキエル37・12-14)
主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。
第二朗読
使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・8-11)
〔皆さん、〕肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
福音書
ヨハネによる福音(ヨハネ11・1-45)
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
福音のメッセージ
「イエスは涙を流された」
カトリック垂水教会担当司祭:林 和則
福音書では、イエスのことばとわざが伝えられていますが、そのことばを発した時、そのわざを行った時、イエスがどのような表情をされていたのか、どのような思い、また感情を抱かれていたのか、ほとんど伝えられていません。その中にあって、今日の福音はイエスの表情や思いが非常に生々しく記述されている箇所であるといえます。
「心に憤りを覚え、興奮して(11:33)」「涙を流された(11:35)」
「再び心に憤りを覚えて(11:38)」「大声で叫ばれた(11:43)」
二度も繰り返して書かれている「心に憤りを覚え」ですが、皆さんの中にはなぜ「憤り」なのかと疑問に思われる方が多いのではないでしょうか。イエスはラザロの死を嘆き悲しむ人びとを目の前にしているのです。むしろ「悲しみ」こそがその場にふさわしい感情なのではないかと。この「憤り」については、イエスは「死」に対して憤りを覚えられたのだという解釈が一般的です。
「イエスが「心に憤りを覚えた対象」は、人間をやり場のない悲しみに突き落とす死だと考えられます(雨宮慧神父「主日の聖書解説〈A年〉」)」
「イエスはこういう死の事実、悪魔の支配の事実に対して怒りと興奮をもって臨んでおられるのであり、またその悪魔の支配の前になすすべをもたず、ただ嘆いている人々に対して憤りを覚え興奮しておられると解すべきであろう(松永希久夫牧師「新共同訳新約聖書注解Ⅰ486頁より」)」
私も上記のような解釈がヨハネのメッセージであろうと思います。ただ私はこの福音の箇所を解釈ではなく、黙想する時、もっと多くの人びとの嘆き、悲しみ、それは天地をゆるがす叫びとなるような慟哭の叫び、その中に立たれ、泣き、憤りを覚えておられるイエスの姿が立ち現れてくるのです。人類の歴史において数限りなく刻み込まれてきた、いわれもなき苦しみ、誰にどこに向かって怒りを向ければいいのかわからない苦しみ、突然、愛する人が理不尽に奪い去られるような苦しみ・・・。今、私がこの箇所を黙想するたびに眼前に立ちあがってくるのは、今月の11日に発生から9年をむかえた東日本大震災です。特に巨大な津波によって突然、愛する人を失われた方がたに思いが寄せられていきます。
大切な人が突然、理不尽に亡くなった時、人はその理不尽さに耐えられません。意味もなく亡くなったということに耐えられないと思います。津波による死はまさにそうです。何のために、どうして・・・、と果てしない堂々巡りの思考の中に落ち込むそうです。そして同時に「憤り」に捉われるのだそうです。けれども「津波」では、その「憤り」をぶつける先が、相手がいないのです。相手がはっきりしていれば、その相手を追い詰めることでまだ少しでも気をまぎらわすことができるでしょう。相手に何らかの償いをさせることによって、亡くなった人に何かをしてやれたような思いになれるでしょう。けれども「津波」に対して「憤り」を覚えても、それは出口のないトンネルに閉じ込められていくようなものだそうです。
もしそのような遺族の方がたの前にイエスが現われたならば、きっとその方がたは悲しみと怒りをイエスにぶつけて、マリアや人びとのようにイエスに訴えられることでしょう。
「主よ、もしあの時いてくださいましたら、わたしの愛する者は死ななかったでしょうに」
「盲人の目を開けたこの人も、津波で人が死なないようにはできなかったのか」
そして、ラザロの時のように、津波で死んだ人びとが「洞穴」から出て来ることはありません。イエスはただ立ちつくしているだけです。けれども、私の黙想の中で、イエスは遺族の方がたとともに「涙を流され」「憤りを覚え、興奮して」大声で泣いているのです。
今日の福音の奇跡はヨハネの福音ではイエスがなされた最後の奇跡とされています。ちなみに最初の奇跡は「カナの婚礼(2:1-11)」でのぶどう酒の奇跡です。ある意味、次の奇跡は「復活」です。実はラザロのよみがえりの奇跡は「復活」と対になっていて、「復活」の意味を明確にするためにあるといえます。
ラザロのよみがえりはあくまでも「蘇生」であって、彼はそれまでの生活に「戻った」だけなのです。その生活はやはりやがて「死」を迎えるものでした。けれども「復活」は以前の生活ではなく、新たな生に向かって別の次元に開かれていくことなのです。それは天に向かって、すなわち父と子と聖霊の愛の交わりの無限の広がりに向かって開かれていくことです。これこそが私たちの天国です。
そこにおいて、すべての人びとの目から涙がすべてぬぐい去られることを私は待ち望みます。私は黙想の中で、そこにおいて、イエスさまが大きな笑顔で人びとの中におられる姿を思い浮かべます。
今日は聖書の解釈よりも、個人的な黙想のイメージを書かせていただきました。弁解させていただくと、それは今日の福音がイエスを取りまく情景をとてもリアルに描いていることが契機になっているといえます。