「垂水教会一般」カテゴリーアーカイブ

主に垂水教会内での情報

4月末までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します

2020年4月1日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

4月末までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します
♰主の平和
本日午後、前田大司教様より、第5次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られて参りました。
通達の全文は大阪教区のホームページ(http//www.osaka.catholic.jp)に掲載されています。「更新情報」の中の「お知らせ(4月1日)」をクリックしてご覧ください。
ここでは、第5次の通達中、垂水教会が取るべき措置に関係する重要な通達を以下に列挙しておきます。

  • 1.大阪教区での公開ミサは、4月末まで中止とします。5月以降に関しては、4月23日(木)ごろをめどに、改めて通知します。
  • 2.ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。
  • 3.秘跡の授与(洗礼、聖体、ゆるしの秘跡、病者の塗油など)に関しては、小教区の責任司祭に一任します。
  • 5.公開ミサ中止期間中、大阪教区のすべての信徒に主日のミサに与る義務を免除します。各自が家庭で、聖書を朗読したり祈りを捧げたり、ロザリオの祈りをしたりする時を持つように勧めます。

上記の通達に従って、4月末日まで週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を延長いたします。
聖週間および復活祭については、大阪教区では聖なる三日間の典礼のインターネット中継を検討しています。また皆さんの霊的指導の責任を担う担当司祭としましても、一年間の典礼で最も大切な聖なる三日間、復活祭を聖堂での典礼のできない状況にあって、どのように過ごして頂けばよいのか、運営委員会とともに検討し、何らかの提案をしていきたいと考えております。ある意味、今の私たちはバビロンの捕囚時における神の民のような状況にあるのかも知れません。当時の神の民がその苦境を乗り越えたように、私たちも揺らぐことのない信仰をもって歩んで行きましょう。

3月29日のミサ(四旬節第5日)

4月8日(水)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。
今回も神父様の福音のメッセージが入っております。皆さんと共に早く収束する事をお祈りいたしましょう。

四旬節第5主日 A年 聖書と典礼 2020年3月29日

第一朗読

エゼキエルの預言(エゼキエル37・12-14)

 主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる。

第二朗読

使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ8・8-11)

 〔皆さん、〕肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

福音書

ヨハネによる福音(ヨハネ11・1-45)

 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

福音のメッセージ

「イエスは涙を流された」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 福音書では、イエスのことばとわざが伝えられていますが、そのことばを発した時、そのわざを行った時、イエスがどのような表情をされていたのか、どのような思い、また感情を抱かれていたのか、ほとんど伝えられていません。その中にあって、今日の福音はイエスの表情や思いが非常に生々しく記述されている箇所であるといえます。
「心に憤りを覚え、興奮して(11:33)」「涙を流された(11:35)」
「再び心に憤りを覚えて(11:38)」「大声で叫ばれた(11:43)」
 二度も繰り返して書かれている「心に憤りを覚え」ですが、皆さんの中にはなぜ「憤り」なのかと疑問に思われる方が多いのではないでしょうか。イエスはラザロの死を嘆き悲しむ人びとを目の前にしているのです。むしろ「悲しみ」こそがその場にふさわしい感情なのではないかと。この「憤り」については、イエスは「死」に対して憤りを覚えられたのだという解釈が一般的です。

「イエスが「心に憤りを覚えた対象」は、人間をやり場のない悲しみに突き落とす死だと考えられます(雨宮慧神父「主日の聖書解説〈A年〉」)」

「イエスはこういう死の事実、悪魔の支配の事実に対して怒りと興奮をもって臨んでおられるのであり、またその悪魔の支配の前になすすべをもたず、ただ嘆いている人々に対して憤りを覚え興奮しておられると解すべきであろう(松永希久夫牧師「新共同訳新約聖書注解Ⅰ486頁より」)」

 私も上記のような解釈がヨハネのメッセージであろうと思います。ただ私はこの福音の箇所を解釈ではなく、黙想する時、もっと多くの人びとの嘆き、悲しみ、それは天地をゆるがす叫びとなるような慟哭の叫び、その中に立たれ、泣き、憤りを覚えておられるイエスの姿が立ち現れてくるのです。人類の歴史において数限りなく刻み込まれてきた、いわれもなき苦しみ、誰にどこに向かって怒りを向ければいいのかわからない苦しみ、突然、愛する人が理不尽に奪い去られるような苦しみ・・・。今、私がこの箇所を黙想するたびに眼前に立ちあがってくるのは、今月の11日に発生から9年をむかえた東日本大震災です。特に巨大な津波によって突然、愛する人を失われた方がたに思いが寄せられていきます。
 大切な人が突然、理不尽に亡くなった時、人はその理不尽さに耐えられません。意味もなく亡くなったということに耐えられないと思います。津波による死はまさにそうです。何のために、どうして・・・、と果てしない堂々巡りの思考の中に落ち込むそうです。そして同時に「憤り」に捉われるのだそうです。けれども「津波」では、その「憤り」をぶつける先が、相手がいないのです。相手がはっきりしていれば、その相手を追い詰めることでまだ少しでも気をまぎらわすことができるでしょう。相手に何らかの償いをさせることによって、亡くなった人に何かをしてやれたような思いになれるでしょう。けれども「津波」に対して「憤り」を覚えても、それは出口のないトンネルに閉じ込められていくようなものだそうです。
 もしそのような遺族の方がたの前にイエスが現われたならば、きっとその方がたは悲しみと怒りをイエスにぶつけて、マリアや人びとのようにイエスに訴えられることでしょう。

「主よ、もしあの時いてくださいましたら、わたしの愛する者は死ななかったでしょうに」
「盲人の目を開けたこの人も、津波で人が死なないようにはできなかったのか」

 そして、ラザロの時のように、津波で死んだ人びとが「洞穴」から出て来ることはありません。イエスはただ立ちつくしているだけです。けれども、私の黙想の中で、イエスは遺族の方がたとともに「涙を流され」「憤りを覚え、興奮して」大声で泣いているのです。

 今日の福音の奇跡はヨハネの福音ではイエスがなされた最後の奇跡とされています。ちなみに最初の奇跡は「カナの婚礼(2:1-11)」でのぶどう酒の奇跡です。ある意味、次の奇跡は「復活」です。実はラザロのよみがえりの奇跡は「復活」と対になっていて、「復活」の意味を明確にするためにあるといえます。
 ラザロのよみがえりはあくまでも「蘇生」であって、彼はそれまでの生活に「戻った」だけなのです。その生活はやはりやがて「死」を迎えるものでした。けれども「復活」は以前の生活ではなく、新たな生に向かって別の次元に開かれていくことなのです。それは天に向かって、すなわち父と子と聖霊の愛の交わりの無限の広がりに向かって開かれていくことです。これこそが私たちの天国です。
 そこにおいて、すべての人びとの目から涙がすべてぬぐい去られることを私は待ち望みます。私は黙想の中で、そこにおいて、イエスさまが大きな笑顔で人びとの中におられる姿を思い浮かべます。

 今日は聖書の解釈よりも、個人的な黙想のイメージを書かせていただきました。弁解させていただくと、それは今日の福音がイエスを取りまく情景をとてもリアルに描いていることが契機になっているといえます。

3月22日のミサ(四旬節第4主日)

3月31日(火)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

春の訪れとともに、早く収束する事を皆さんと共にお祈りいたしましょう。

四旬節第4主日 聖書と典礼 2020年3月22日

 

第一朗読

サムエル記(サムエル上16・1b、6-7、10-13a)

 〔その日、主はサムエルに言われた。〕 「角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
 彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。

 

第二朗読

使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ5・8-14)

 〔皆さん、〕あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。―――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―――何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。
 「眠りについている者、起きよ。
 死者の中から立ち上がれ。
 そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

 

福音書

ヨハネによる福音(ヨハネ9・1-41)

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
 人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全くの罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 

福音のメッセージ

「遣わされた者」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 福音書はイエスのことばとわざの単なる過去の記録ではありません。それは福音書を読む人びと、つまり教会共同体の置かれている状況の中で、その状況に今も生きたことばとして、共同体を導き、励まし、養成するために書かれています。そのため、しばしばイエスのことばと行いを共同体の現状に即したものとするために「編集」しています。だからこそ特にマタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書においては同じみことば、できごとが記述されていても、その文言や置かれている文脈が変わってくるのです。それは三つの福音が書かれた共同体の状況の違いから生じているといえます。
 ですからそれは、けっしてイエスのことばとわざの恣意的な「変更」ではありません。聖書を単に歴史学、文献学の研究の対象として考えるのであれば確かにそう言えるのかも知れません。しかし私たちにとって、福音書に限らず聖書は信仰の書なのです。
 それはまた、信仰共同体のための書であるということです。ひとことで言えば聖書は「今も生きて働く復活の主のことば」なのです。復活の主は初代教会の時も、現代の教会においてもなおも、キリストを信じる者たちの中に現存し、働かれ、福音を絶えず「生きたことば」として教会の中で信徒の働きを通して「現在化」されていかれるのです。福音書記者たちはその復活の主への信仰の視点から聖霊に導かれて書き、編集しているのです。何よりもそこには信仰共同体への深い思いがあり、それはまたイエスの思いでもあるのです。

 共観福音書とは取り扱うできごとも編集の視点にも大きな違いがあり、独特な立場から書かれているヨハネの福音には、その側面がもっとも強く表れています。今日の福音もまさにそのような箇所です。ここでは明らかに生まれつきの盲人のいやしという過去のイエスの奇跡のできごとが「初代教会の人びとの共同体の現代」とみごとに重ね合わせられています。そのキーワードとなるのが「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公けに言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである(9:22)」という説明です。実はこれはイエスの生存中にはけっして起こりえないことでした。イエスをメシアと信じる、ナザレ派という人びとが公けに現れてくるのは、イエスの復活後です。何よりも、その人びとを会堂から追い出すことがユダヤ教内で決定されたのは紀元90年代になってからのことだったのです。また、見えるようになった盲人を尋問する人びとの中に、イエスの在世当時、ユダヤ教の指導者層であった祭司たちやサドカイ派の人びとが登場しないことも考えられないことです。ファリサイ派の人びとがユダヤ教の指導者層になるのは70年以降のことです。それはローマ帝国によるエルサレム破壊の時に祭司たちやサドカイ派の人びとが壊滅した結果でした。
 これらのことから明らかにヨハネは福音書が書かれた時代(90年頃と考えられています)、今、自分たちが共に生きている信仰共同体の現代の中にこの奇跡のできごとを置き換えているのです。
 何のためでしょうか?それを解くカギは「シロアム」を「遣わされた者」という意味に変えていることにあります。「シロアム」はアラマイ語の「水道」を意味する「シロア」から派生しています。それは「エルサレムの北方にあるギホンの泉からエルサレムに供給する水やキドロンの谷の水を確保しようとして作られた水道ないし水道網のことを指す・・・水路は水を南のシロアの池に引き込み、そこは洗い場になっていた(新約聖書注解Ⅰ(日本基督教団出版局)469頁より)」
 「シロアム」は「水道」という意味で、「遣わされた者」という意味ではないのです。実は、ヨハネはそのような当時のユダヤ人の誰にでもわかるような「間違い」を意図的に行ったと考えられます。そこにこそヨハネのメッセージがあります。ヨハネは見えるようになった盲人に洗礼を受けた人の姿を投影したのだと思えるのです。それによって洗礼を受けることがどういうことなのか、またそれを受けた人がどのように生きるべきかをヨハネは信仰共同体に伝えたかったのです。
 「世の光(9:5)」といわれたキリストの洗礼を受けることは、闇の中にいた人が光の中に連れ出され、見えるようになることです。生まれつき、つまりそれまで人生の意味が見いだせずに生きてきた人がはじめて生きる意味を見い出したことといえるでしょう。そのあと、見えるようになった人は人びとの中であかしをしていくのです。けれども、見えるようになった人はいきなりすべてが見えるようになったわけではありません。最初の尋問においてイエスのいる所を聞かれても「知りません」としか答えられません。それが人びとにあかしを続けることによって、その人自身の信仰も成長していきます。最後には「あの方が神のもとから来られた(9:33)」と反対者たちに堂々とあかしするようになるのです。
 この受洗と信仰の成長の過程はまさにヨハネの信仰共同体に当てはまるものです。彼彼女らは受洗した後、たびたび会堂から追い出され、ファリサイ派の人びとから尋問されていました。そんな信仰の仲間にヨハネはその中でこそ、信仰は成長するのだと伝えたかったのでしょう。

 皆さんにも「シロアム」を「遣わされた者」と意味づけたヨハネの意図がわかってきたことと思います。「シロアム」当時「洗い」つまり「清め」の水場であった池は「洗礼」を表し、洗礼を受けた者はその場から、イエスによって「遣わされる者」となるのだ、ということです。しかも迫害の困難の中へと。けれどもその迫害こそが信仰を育てるのだということをヨハネは伝え、信仰共同体の仲間を励ましたかったのです。
 もしかしたら、ヨハネの共同体では当時の「シロアの池」で実際に洗礼を授けていたのかも知れません。だとしたら共同体の人びとはその池を「遣わされる者(受洗者)の池」と呼んでいたことでしょう。

3月15日のミサ(四旬節第3主日)

3月31日(火)までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します。今週も各自ご自宅などでお祈りいたしましょう。

第一朗読

出エジプト記(出エジプト17・3-7)

 〔その日、〕民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」

モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。

 「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」

 モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。

 

第二朗読

使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・1-2、5-8)

 〔皆さん、〕わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 

福音書

ヨハネによる福音(ヨハネ4・5-42)

 〔そのとき、イエスは、〕ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへとやって来た。

 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。

 

福音のメッセージ

「生きた水」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 ヨハネ福音書の特徴のひとつに、イエスと登場人物である個人や群衆また弟子たちとの間でのちぐはぐな会話があります。たとえば「イエスとニコデモ(3:1-21)」ではイエスが「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることができない(3:3)」と言ったのに対してニコデモは「もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか(3:4)」と問いかけ、明らかに会話がかみ合っていません。群衆との間では、ヨハネの聖体論ともいえる「命のパン」をめぐるイエスの教え(6:22-59)におけるイエスのことば「わたしは命のパンである(6:48)」に対して「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか(6:52)」と互いに激しく議論し始める始末にさえなります。

 弟子たちに至っても、ラザロの死についてイエスが「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く(11:11)」と言ったのに対して「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう(11:12)」ととんちんかんな答えを返しています。

 このようなヨハネ福音における会話の行き違いを、亡くなられたイエズス会の小林稔神父様は「登場人物がイエスの二重の意味を持った言葉を聞いて、(イエスが)意図されたのとは別の意味で解すること、そのような(ヨハネ)福音書の著者の描写は「誤解のモチーフ」と呼ばれ、著者が話を別の次元に展開するための契機になっている(岩波書店「ヨハネ福音書のイエス」93頁より)」と説明されています。この「誤解のモチーフ」がもっとも効果的に使用され、すばらしい救いの物語になっているのが、今日の「サマリアの女」と呼ばれている福音です。

 他の紹介した箇所では誤解によって生じたイエスと登場人物たちとの断絶は埋められることなく、「命のパン」の箇所における群衆では「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか(6:60)」と言って、決定的な決別に至ります。けれども「サマリアの女」では最初は食い違っていた会話が次第に近づいてきて、最終的には「この方がメシア(4:29)」という信仰宣言に至り、その後この女性は宣教者となって自分の町のサマリア人たちにそれをあかしして、多くの人を救いへと導くのです(6:28-42)。

 小林神父様が書かれている「話を別の次元に展開する」の「別の次元への展開」とは「地上的、この世的な次元」から、「天上的、霊的な次元」への展開であると思います。イエスと人びととの誤解の原因は「視点」の違いにあると思います。イエスが「霊的」な視点に立っているのに対して、人びとは「この世的、物質的」視点に立っているといえます。

 「サマリアの女」においてそのポイントとなる誤解は「生きた水」ということばです。「生きた水」ということばは当時のユダヤでは「溜まり水でない、流れている新鮮な水」を意味しました。それは川であり、また湧き出る泉のことです。イエスが「あなたに生きた水を与えたことであろう(4:10)」と言われたのに対してサマリアの女は「あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか(4:11)」「ここにくみに来なくてもいいように、その水をください(4:15)」と答えます。

 実は女は次のようなことを言っていたのです。私の意訳です。

 「この井戸は湧き出る泉ではありません。溜まり水です。ですから、くむ物がなければくめません。しかも深いので、くむのにたいへん手間がかかります。ですから、そんな手間がかからない、くみ上げる必要のない、湧き出ている泉の場所をご存じでしたら、教えてください。そこにくみに行かせてください」

 サマリアの女はあくまでも、地上的な、目に見える現実世界の「生きた水」を求めているのです。そんな女にイエスは彼女の素性を当ててみせます。女はそれによってイエスが「預言者」ではないかという考えに導かれます。そこから女は「礼拝」という宗教的次元に開かれていきます。

 サマリア人とは北イスラエル王国の生き残りの人びとの子孫です。紀元前931年、ダビデ王が打ち立てた王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂します。南ユダ王国はダビデの血統に属し、エルサレムを首都とし、その地にあった神殿での礼拝を続けました。北イスラエル王国は後にサマリアを首都とし、エルサレムの神殿に対抗してゲリジム山に聖所を置き、そこで礼拝を続けました。

 サマリアの女が言う「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しました(4:20)」の「この山」がゲリジム山です。そして女性は「預言者」に対してゲリジム山とエルサレムの神殿とを対比して、どちらが本当の礼拝の場所であるのかと問いかけるのです(4:19)。

 それに対してイエスは「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(4:21)」とユダヤ人とサマリア人の対立の原因である両方の聖所での礼拝を否定します。そして「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(4:24)」と新たな礼拝を指し示します。これによって女はイエスをメシアではないかと思い、イエスは「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と答えます。ここにおいて、サマリアの女とイエスの会話が断絶から一致へと転換し得たのです。

 ここからわかることはイエスが言われる「生きた水」とは、霊と真理による「真実の礼拝」であったことがわかります。それをはっきりと言われているのが、この後のエルサレムにおけるイエスのことばです。そこではイエスがエルサレムの人びとに対して「大声で言われた」と書かれています。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる(7:37b―38)」

 つまりイエスのところに行って、イエスを信じることを通して、真実の礼拝が可能になり、それこそが「生きた水」であるということになります。そこにおいては、礼拝する人が「飲む」だけでなしに、その人の内から生きた水、すなわち「泉」が湧き出て、その人だけでなく、周囲の人びとをも潤おすということになるのです。

 そのようなイエスのもとでのもっともすばらしい礼拝こそが「ミサ」です。ミサに与ることによって、私たちは生きた水の豊かな、あふれかえるような流れに心も体も浸し、そして内から湧き出てくる泉によって、日々の生活の中で出会う人びとに生きた水を分け与えていくのです。

 *「サマリアの女」は女性差別の問題など社会的側面においても幅が広く、信仰的側面においても深い内容を持っています。私のメッセージはその一部分を語ったにすぎません。どうぞネットで「サマリアの女」で検索してみてください。数多くの解説がありますので、そちらも読んでみてください。

3月31日(火)までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します

2020年3月12日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

3月31日(火)までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します

♰主の平和

本日午後、前田大司教様より、第3次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られて参りました。通達は以下の通りです。

3月15日(日)から3月31日(火)まで、小教区をはじめ、定期的に不特定多数の信徒が参集して主日ミサが行われている施設では、ミサを中止してください。

3月15日・22日・29日の日曜日は、大阪教区のすべての信徒に主日のミサに与る義務を免除します。各自が家庭で、聖書を朗読し祈りを捧げたり、ロザリオの祈りをしたりする時を持つように勧めます。なお、東京教区では、主日のミサのインターネット中継を行っています。教区ホームページ(http://tokyo.catholic.jp/)を参照ください。

上記1の期間中、週日のミサは、ごく小規模な参加者の場合を除いて、同様に中止してください。なお、修道院で、あるいは司祭が個人的に週日のミサを捧げる場合には、『ミサ典礼書』の種々の機会のミサの中の「困難の中で」を使用することを(典礼色は紫のままで)ことを許可いたします。

上記1の期間中、ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。結婚式や葬儀は、充分な感染対策をとった上で、通常通り行っていただいて結構です。

この期間中の教区主催行事・会議などについて、3月20日(金・祝)の「教区召命の日・助祭叙階式」は延期とします。

教区召命の日として、召命促進のためにお祈りください。クラレチアン会のニュ・イ神学生の助祭叙階式の日時は未定です。
*(イ)に書かれている、司祭の会議関係については省略いたします。

以上の通達に基づいて、3月2日(月)よりすでに実施されている週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を引き続き3月31日(火)まで実施いたします。

皆様にはご不便をおかけしますが、現代の世情を鑑みてもやむを得ない措置と思えますので、ご理解とご協力、そしてお祈りをお願いいたします。

3月8日のミサ(四旬節第2主日)

3月14日(土)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

第一朗読

創世記(創世記12・1-4a)

[その日、]主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷

父の家を離れて

わたしが示す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の源となるように。

あなたを祝福する人をわたしは祝福し

あなたを呪う者をわたしは呪う。

地上の氏族はすべて

あなたによって祝福に入る。」

アブラムは、主の言葉に従って旅立った。

 

第二朗読

使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ1・8b-10)

[愛する者よ、]神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。

 

福音書

マタイによる福音(マタイ17・1-9)

[そのとき、]イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

 

福音のメッセージ

「父と子の愛の交わりの輝き」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

毎年、四旬節第二主日の福音はマタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書がともに書き記している「主の変容」と呼ばれている出来事が朗読されます。A年ではマタイが用いられています。ちなみにB年ではマルコ、C年ではルカです。

イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて、高い山に登った時、弟子たちの目の前でイエスの顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなり、そこにモーセとエリヤが現われて共に語り合われたという、まことに輝かしい、栄光に満ちたイエスの姿がそこにはあります。しかしながら、このすぐ前の16章でイエスは弟子たちに最初の受難予告をしているのです。栄光どころではなく、権力者たちから苦しめられて殺されることが語られています。メシヤをこの世的な王と考えていた弟子たちはイエスがユダヤの王になるどころか、祭司長たちによって捕らえられ、殺されるということばに驚き、激しく動揺します。ペトロにいたっては、イエスを脇へお連れしていさめ始めたとまで書かれています。動揺する弟子たちにはイエスの逮捕と処刑だけが耳に残って「三日目に復活する」ということばはまったく頭に入っていません。また復活を理解することもできなかったのでしょう。彼らにとってまだ、死は全ての終わりであったからです。

そんな弟子たちの動揺を少しでも抑え、力づけるためにイエスは復活の栄光の姿をお見せになったのが「主の変容」であるという解釈が一般的です。また当時は旧約聖書は「律法の書」「預言の書」と呼ばれていて、モーセは「律法の書」を、エリヤは「預言の書」をそれぞれ象徴し、そこにイエスに象徴される「新約の書」が加わることによって、神のことばが完成したことが表されているとも考えられています。いずれにしても目のくらむような神々しい、まさに勝利の王としてのイエスの姿がそこにはあります。

けれども変容の場面を、イエスの逮捕の前のゲッセマネの園と類似している、共鳴し合っていると考える解釈があります。栄光に満ちた変容と、闇と苦しみに満ちたゲッセマネでは正反対ではないか、どこが似ているんだと思われる方が多いでしょう。この解釈のカギはルカの並行箇所にあります。マタイとマルコではイエスがモーセとエリヤと「語り合っていた」としか書かれていませんが、ルカは「エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた(9:31)」と書かれています。カギはこの「最期」にあります。この言葉はギリシャ語原文では「エクソドス」です。それはギリシャ語訳の旧約聖書の出エジプト記のギリシャ語書名の「エクソドス」から取られています。「エクソドス」の本来の意味は「旅立ち」「国を出る」です。そのためにエジプトからの脱出、旅立ちとして、この言葉が選ばれたのでしょう。聖書の神学用語で言い換えれば、それは「過越」です。神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態からふるさとの地での自由へと過ぎ越してくださったことをいいます。イエスとモーセとエリヤはイエスのエルサレムでの受難、つまり新たな「エクソドス」、言い換えれば新たな過越であるイエスの死と復活について語り合っていたといえます。

モーセはそのかつての過越を導いた人物です。エリヤは紀元前9世紀、北イスラエル王国のアハブ王の時代に活躍した預言者です。アハブ王は王妃イゼベルの国の神、バールの信仰を北イスラエルに広くもたらしました。エリヤはそれを激しく非難し、バールの預言者たちと祈りでもって戦い、打ち負かしました。そのためイゼベルはエリヤを殺害する命令を下し、エリヤは絶えず命の危険にさらされて逃亡の日々を送り、疲れ果てて「主よ、もう十分です。私の命を取ってください(列王記上19章4節)」と神に死を願いさえもします。エリヤもまた「苦しむ神の僕」でした。このふたりがイエスとイエスの過ぎ越しについて語り合ったのは、これから受難の旅、新たな過越に向かおうとされるイエスを励まし、勇気を与えるためだったと考えられないでしょうか。

ゲッセマネの園でイエスは血の汗を流すほどまでに苦しみ悶えられます(ルカ22:44)。であれば、イエスは弟子たちに平然として受難予告をされたのではなく、自らもその恐怖に苦しんでいたはずです。ルカは「祈るために山に登られた(9:28)」と書いています。その祈りとはゲッセマネの園の時のように来たるべき受難を思っての血の汗を流すような祈りではなかったでしょうか。ペトロと弟子たちがひどく眠くなってしまうのも、ゲッセマネの時と同じです。それを見た父なる神が我が子を励ますために、よき理解者、相談者としてモーセとエリヤを送ったのだと考えられるのです。

こうなると「主の変容」は弟子たちのためというよりも、父なる神が子であるイエスを力づけるためのものであったといえます。だからこそ神は最後に「これはわたしの子」と言われたのです。そこには「おまえは私の子だ。いつも、おまえのそばにいる。だから、恐れるな。心配するな」というように、父である神の、子であるイエスに対する深い愛がこめられています。変容の輝きはその父の愛を受けたイエスの喜びが満ちあふれた輝きであったと考えることができるのです。

私たちも苦しみもだえ、闇の中にいるような思いの時も、父である神がともにいてくださることを忘れないようにしましょう。

3月1日のミサ(四旬節第1主日)

本日から3月14日(土)までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

 

四旬節第1主日(A年) 聖書と典礼 2020年3月1日

 

第一朗読

創世記(創世記27-931-7

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形作った人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

主なる神が作られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

 

第二朗読

使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ512-19、または5・12、17-19

〔皆さん、〕一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

《律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来たるべき方を前もって表すものだったのです。

しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵が働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。》

一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 

福音

マタイによる福音(マタイ41-11

〔そのとき、〕イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜の断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

 

福音のメッセージ

「宣教に対しての誘惑」

カトリック垂水教会担当司祭 林 和則

典礼歴A年の四旬節第一主日の福音では、悪魔がイエスを誘惑する出来事が描かれています。けれども、その誘惑は私たちに対してのような罪を犯すことへの誘惑ではありません。神の子であるイエスは罪への傾き、いわゆる「原罪」に捉われてはいないからです。それは「宣教」に対しての誘惑だったのです。

イエスの荒れ野での四十日間の修行も、これからどのように宣教を行えばよいのか、まことの神の思いに適った方法を探し求めるためであったと考えられます。

悪魔は、宣教が成功するためのアドバイスを与えに来たふりをして近づいてきますが、実はイエスの宣教を内側から破壊するためでした。悪魔の誘惑を私なりに意訳してみたいと思います。

ひとつ目。

「イエス様、あなたは神の子。どうぞ、この石をパンに変えてみてください。人間にとって食べることというのは、生きていくためにもっとも大切なことです。その食糧問題を立ちどころに解決してみせるんです。どこにでもいくらでも、ころがっている石ころをパンに変えて見せれば、人間はあなたのもとに押し寄せてきて、あなたの言うことを何でも聞くようになりますよ」

これはモノを与えて宣教を行いなさいという誘惑です。確かに人間にとって食べ物、またお金などは必要なものです。イエスは答えます。

「人はパンだけで生きるものではない」「だけで」と言われているように、その必要性は認めています。けれども、それだけではない、「神の言葉によって生きる」とイエスは言われます。食べ物は肉体を養いますが、心を養うのは神のことばであるのです。人間は心と体によって生きています。いくら体が健康であっても、もしも心が満たされていなければ、自ら体の命を絶つことさえあるのです。宣教とは心を養うことをまず第一とするべきです。

ふたつ目。

「さあ、この高い屋根から飛び降りてごらんなさい。父なる神が大あわてで、天使たちを飛んで来させますよ。そのものすごい奇跡を見せたら、人びとは拍手喝采、あなたはアイドルになって、大人気。みんな、ついて来ますよ」

けれどもイエスは「神である主を試してはならない」と言われます。わたしたちは頑張れば頑張るほど、どこかで認めてほしい、それをかたちで現わしてほしいと願います。宣教もがんばれば、きっと神さまは目に見える結果をくださるだろうと。たとえば、信者の数が増えるとか。もちろん、信徒が増えることは悪いことではありません。でもそれが第一の目標になってはいけないと思うのです。本当に福音が伝わる、人びとが救われる、そこについてきた結果であればいいのです。数だけを求めれば、大航海時代の教会のようにアメリカ大陸の現地の人びとに水をぶっかけて強制的に洗礼を授けるようなことになりかねません。

また、イエスは奇跡を行った際には必ず「このことを誰にも言ってはいけない」と命じています。イエスは奇跡という圧倒的な「力」で人びとをひれ伏させるような、強権的な宣教を望んではいなかったのです。

みっつ目。

「実はこの世界の権力、繁栄というものは、私に任されていまして、悪魔が与えたいと思う人に与えられるんです。あなたが私を拝むなら、全部、あなたにあげましょう。さあ、あなたは世界の王だ。人間は王に逆らうことはできず、皆、簡単にあなたの前にひれ伏して、何でもいうことを聞きます。これで宣教は大成功、間違いなし!」

これはわかりやすいですね。つまり、権力によって、人びとを従わせなさいということです。これは人類の歴史が始まって以来、今でも使われ続けている方法です。自分の考え、意見を通すために、権力を握ろうとする、行使しようとする。

けれどもイエスは言われます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」

この悪魔とイエスとのやりとりから、大切なことがわかります。この世界の権力は実は悪魔のものであって、悪魔を拝むことによって、与えられているのだと。では現代の各国の権力者たちは悪魔を拝んでいるのでしょうか?もちろん、権力者たちは直接、悪魔の像を拝む、などということはしていません。でも、権力欲、物欲など自己中心的に行動する時、人は知らず知らずの内に悪魔の思いに従っていて、間接的に悪魔を拝んでいることになるのです。宣教も自分の名誉心や何らかの欲望で行うならば、そうなります。宣教は自分をただ神の道具として、神の国の実現のために行うものです。

イエスの宣教は出会った人、一人ひとりの幸せ、救いを求めての旅であったと思います。その宣教の在り方をイエスは悪魔を拒否することによって確立したのです。

2月29日(土)から3月14日(土)までミサを中止いたします

2020年2月28日

カトリック垂水教会の信徒の皆様

担当司祭 林和則

2月29日(土)から3月14日(土)までミサを中止いたします

♰主の平和
本日朝、前田大司教様より、「新型コロナウィルス感染症にともなう措置(第2次)」のFAXが全小教区に配信されました。そこに書かれていた通達は以下の通りです。

  1. 2月29日(土)から3月14日(土)までの2週間、小教区をはじめ、定期的に不特定多数の信徒が参集して主日ミサが行われている施設では、公開のミサを中止してください。
  2. 3月1日と8日の日曜日は、大阪教区のすべての信徒に主日のミサに与かる義務を免除します。各自が家庭で、聖書を朗読し祈りを捧げたり、ロザリオの祈りをしたりする時を持つように勧めます。
  3. 上記1の期間中、週日のミサは、ごく小規模な参加者の場合を除いて、同様に中止してください。
  4. 同様に、上記1の期間中、ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。
  5. 結婚式や葬儀は、充分な感染対策をとった上で、通常通り行っていただいて結構です。

以上の通達に基づき、垂水教会におきましても、2月29日(土)から3月14日(土)までの週日、主日のミサを中止いたします。
※行事や講座などの中止に関しましては、明後日、開催される運営委員会に於いて検討いたしますので、また追って連絡いたします。

この通達を周知徹底するために、ご近所の方でメールをされていない、わからないという方がおられれば、口頭で連絡をして頂くようにお願いいたします。

今後も、状況の推移を見極めながら、教区から必要な措置が発表されていくと思います。その都度、皆様にはご連絡していきます。
どうぞ皆様、お体、くれぐれもご自愛ください。この災禍の1日も早い終息のために祈りましょう。