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キリスト教入門講座のご案内 

キリスト教入門講座のご案内 

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

カトリック垂水教会の敷地内の信徒会館におきまして、6月より、大阪教区司祭である林和則神父の指導によるキリスト教入門講座を開講いたします。この講座は、キリスト教の信徒でない方がたでも受講することができます。

キリスト教、また聖書に興味があるけれども、どこで学んだらよいのかわからない、また教会に行くにも信徒になることを勧誘されたりするのは困るというような方がた、ぜひ気軽にご参加ください。

この講座はキリスト教を少しでも知っていただくためにはじめる講座ですので、受講すると信徒にならなければいけない、教会の礼拝に行かないといけないなどといったご心配は無用です。ただ少しでもキリスト教を知っていただくだけで十分ですし、それ以上のことはご本人の判断にお任せいたします。

 

講座は6月3日の土曜日より(予定)開催いたします。基本的に毎月の第1,第2,第3の土曜日に行います。時間は朝10時より11時半までです。

ただし、毎回ひとつのセッションで終了いたしますので、何度か欠席されても問題はありません。また、何らかの事情で、途中で講座をやめられても構いません。

講座は二期にわかれ、一期は夏休みを含めて12月16日まででテーマは「キリストとの出会い」です。聖書を通して、そこに書かれているイエス・キリストと出会っていきます。

冬休みをはさんで第二期は1月15日からはじまり、テーマは「キリスト共同体との出会い」です。キリストを信じる人びとの共同体である教会を通して、現在にも働いているキリストと出会います。教会の歴史、そしてカトリックの教義、礼拝、また洗礼などの「秘跡」についても学びます。

3月23日に全講座を終える予定です。

 

私たち教会にとっての宝であるイエス・キリスト、そして聖書を少しでも知って頂きたいという思いから、この講座を開講いたします。受講を希望される方は下記の電話番号にお問い合わせください。

078―707―4434

*着信すると留守番電話に切り替わりますが、そこで言われる緊急連絡先におかけ直しください。

 

 

3月のミサ時間のお知らせ

3月より10時のミサ、1回のみとなします

5日(日) 四旬節 第2主日 10:00
12日(日) 四旬節 第3主日 10:00
19日(日) 四旬節 第4主日 10:00
26日(日) 四旬節 第5主日 10:00

今後の感染状況によっては変更する場合があり得ます。その時にはまた、一斉送信でご連絡いたします。

2月のミサ時間のお知らせ

 

5日(日) 年間 第5主日 9:00 舞子・垂水北・明舞南
11:00 垂水・塩屋・明舞北
12日(日) 年間 第6主日 9:00 舞子・垂水北・明舞南
11:00 垂水・塩屋・明舞北
19日(日) 年間 第7主日 9:00 舞子・垂水北・明舞南
11:00 垂水・塩屋・明舞北
22日(水) 灰の水曜日 10:00 フリー
26日(日) 四旬節 第1主日 9:00 舞子・垂水北・明舞南
11:00 垂水・塩屋・明舞北

今後の感染状況によっては変更する場合があり得ます。その時にはまた、一斉送信でご連絡いたします。

1月のミサ時間のお知らせ(1/7訂正)

 

典礼暦 ミサ時間 地区
1日(日) 神の母聖マリア 10:00 フリー
8日(日) 主の公現 9:00 垂水・塩屋・明舞北
11:00
※新成人のお祝い
舞子・垂水北・明舞南
15日(日) 年間 第2主日 9:00 垂水・塩屋・明舞北
11:00 舞子・垂水北・明舞南
22日(日) 年間 第3主日 9:00 垂水・塩屋・明舞北
11:00 舞子・垂水北・明舞南
29日(日) 年間 第4主日 9:00 垂水・塩屋・明舞北
11:00 舞子・垂水北・明舞南

今後の感染状況によっては変更する場合があり得ますので、その時にはまた、一斉送信でご連絡いたします。

12月のミサ時間のお知らせ(11/27変更)

典礼暦 ミサ時間 地区
4日(日) 待降節 第2主日 9:00 舞子・垂水北・明舞南
11:00 垂水・塩屋・明舞北
11日(日) 待降節 第3主日 9:00 舞子・垂水北・明舞南
11:00 垂水・塩屋・明舞北
18日(日) 待降節 第4主日 9:00 舞子・垂水北・明舞南
11:00 垂水・塩屋・明舞北
24日(土) 主の降誕 夜半ミサ 17:00 フリー
19:00 フリー
25日(日) 主の降誕 9:00 フリー
10:00 フリー(11/27変更)
11:00 フリー
14:00 (子どもミサ)フリー

※12/24、12/25のミサは密集を避けるために、垂水教会の信者に限定させていただきます。

今後の感染状況によっては変更する場合があり得ますので、その時にはまた、一斉送信でご連絡いたします。

復活の主日 復活の聖なる徹夜祭

2020年4月11日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

復活の主日 復活の聖なる徹夜祭

♰主の平和
 聖木曜日のメッセージの冒頭で「聖なる三日間の典礼」は一年間の典礼暦の頂点と言ってもよいとお伝えしましたが、その三日間の中での頂点が「復活の聖なる徹夜祭」の典礼です。
 気をつけていただきたいのは、「復活の聖なる徹夜祭」は「聖土曜日の典礼」ではありません。カトリック中央協議会が発行している「聖週間の典礼」の儀式書では次のように書かれています。
「聖土曜日に教会は、主の墓のもとにとどまって、その受難と死をしのび、祭壇の飾りを取り除き、ミサもささげない(儀式書238頁より)」
 これを読んで「でも、土曜日の夜に行われているじゃないか」と疑問に感じる方もおられるでしょう。実はこれはユダヤ教の一日の考え方に基づいています。ユダヤ教(つまりイエスもこのような生活のリズムの中で生きておられたのです)では、一日は前日の日没から始まり、当日の日没で終わるのです。そのため、聖土曜日もその日の日没で終わり、その夜から復活の主日が始まるという初代教会の考え方が伝統的に守られてきました。ただし、四つの福音書すべてが語っている通り、「復活」は復活の主日の朝に起こりました。古くから教会はその復活の朝を眠ることなく徹夜して待ち通すという伝統を持っていて、それが復活徹夜祭となっていったのです。
 徹夜祭の開始において照明を落とした暗い聖堂の中で、手にしたろうそくに灯りをともして信徒が司祭の入堂を待つのはルカ12:35―40の「目を覚ましている僕」のたとえのイメージに基づいているといわれています。
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ(12:38)」
 ですから、会衆は司祭が掲げる「復活のろうそく」に象徴されている「復活されたキリスト」を「ともし火をともして(12:35)」迎えるのです。
もちろん、現在の生活事情もあって、実際に徹夜をするわけではありませんが、大切なことは「目を覚ましている」ことです。それはこの世だけでなく、日々の生活において絶えず「信仰」に目覚めていることです。地上に生きる私たちは日常の生活の中に生きているうちに、目に見える地上的な価値観に流されて、信仰が鈍り、眠り込んでしまいがちです。ですから地上の生活にあっても、目に見えない世界、何よりも復活して今も生きているキリストを見つめる信仰にいつも目覚めていなければなりません。四旬節はいつの間にか眠り込んで惰性に陥っていた信仰の目を覚ます時であったとも言えます。「ともし火」は何よりも私たちの中の「信仰」であり、ろうそくと共にしっかりと復活の主に示しましょう。

 そして徹夜祭における復活のろうそく、その光こそが復活のキリスト、今も私たちの中に生きておられ、光を輝かせているキリストのシンボルで、復活徹夜祭の中心です。その光は聖堂の中だけで輝いているのではありません。聖堂の壁を貫いて、全世界に輝いているのです。それは新しい天地創造であると言えます。
「光あれ(創世記1:3)」
 神がこの世界を創造される際に最初に発したことば、それによって混沌の地に輝いた光、キリストはまさに復活によって、人類の混沌の歴史の中に新たな光、神の愛を輝かせ、世界を新たにされたのです。
 それは今年、未知のウイルスの恐怖におびえ、先の見えない不安の中で暗闇のような状況にある今の世界にこそ、必要なのです。教会はそのような世界に向かって、復活のろうそくを高々と掲げ、「光あれ!」と希望を響かせるのです。
 今年、私は垂水教会の聖堂ではそれをできませんが、今夜、愛徳カルメル会本部の修道院での復活の徹夜祭の典礼において復活のろうそくを掲げます。それは修道院のシスターの方がたのためだけでなく、垂水の地域に生きるすべての人びと(信徒だけでなく)のために掲げるのです(なお修道院のミサは院内のシスター方のためだけの「非公開」のミサとして司教様から許可されています。そのため皆さんの参加はできないことをご了解ください)。皆さんは垂水の地に復活のろうそくが、キリストの光が掲げられたことを喜び、そこに参加はできずとも、垂水の人びとのため、また全世界の人びとのためにお祈りください。また、可能な方は大阪教区もしくは東京教区のネットミサで復活のろうそくを仰ぎ、この世界にキリストの光が満ちあふれますようにと祈りを捧げてください。

 復活の徹夜祭のことばの祭儀には九つの朗読があり、そのうち七つは旧約聖書から、二つは新約聖書(パウロの書簡と福音書)から取られたものです。

「創世記1:1~2:2」「創世記22:1~18」「出エジプト記14:15~15:1a」
「イザヤの預言54:5~14」「イザヤの預言55:1~11」
「バルクの預言3:9~15、32~4:4」「エゼキエルの預言36:16~17a、18~28」
「使徒パウロのローマの教会への手紙6:3~11」
「マタイによる福音28:1~10」

 そこでは創世記の天地の創造から、新約の復活の出来事に至る、神の救いの歴史が俯瞰的に語られています。私たちはそれを通して、神が人類の歴史の始まりから共に歩んでくださって、キリストを通して私たちを救ってくださったという壮大な神の御手のわざを実感し、その中に自分の人生があることの恵みを感謝します。どんな人の人生もちっぽけなものではありません。時空を超えた神の計らいの中に置かれた、神にとっての宝なのです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた(申命記7:6)」
 ぜひ、ご自宅で聖書を開いて、上記の朗読箇所を読まれて、神の救いの歴史を黙想してください。

 このように神の救いの歴史を通して読むのは、ユダヤ教の過越の祭りに源流があります。過越の祭りの夜、家族がひとつに集い、過越のいけにえの子羊を共に食し、その後、父親が子どもたちに救いの歴史を語るのです。
「あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときには、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と(出エジプト記12:26~27)」
 この時、父親は聖書に書かれてある出エジプトの出来事を語り、神がイスラエルの民を救われたことを子々孫々に語り継いでいくのです。
 復活徹夜祭においても、教会は教会の子らに救いの歴史を年ごとに語り継ぎ、感謝して、心に刻み込むようにとしているのです。
 今年は教会に集まれないので、過越の祭りの原形のように、家族の皆さんで朗読箇所を味わい、キリストを通して実現した新しい過越について語り合ってみるのは、いかがでしょうか。その際、小さなお子さんがいれば、お父さんお母さんは絵本を読み聞かせるように(聖書絵本があればそれをお使いください)、語ってあげてください。
 復活徹夜祭は過越の祭りを原形としていて、同じように、「家族の祝い」なのです。まず大きな、教会の家族のお祝いです。ですから、この祝いに教会に集まって共に祝えないことは本当に残念なことです。ぜひ今夜、物理的に離れていても、心は共にあるという思いで、垂水の教会共同体、さらに全世界の教会共同体のためにお祈りください。
 そして小さな、家庭としての家族のお祝いです。教会に集まれない分、今年は家庭での祈りを大切にしてください。家族でネット中継のミサに与る、聖書を朗読するなど、してみてください。

祈りのうちに

4月5日のミサ(受難の主日)

4月末日までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

受難の主日(枝の主日)聖書と典礼 2020年4月5日

※ 受難の朗読(マタイによる福音 27章 11-54節)は省略いたしました。お手持ちの聖書でお読みください。

入城の福音

マタイによる福音(マタイ21・1-11)

 〔イエスの〕一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 「シオンの娘に告げよ。
 『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
 柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
 「ダビデの子にホサナ。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように。
 いと高きところにホサナ。」
 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

第一朗読

イザヤの預言(イザヤ50・4-7)

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。

第二朗読

使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)

 〔イエス・〕キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

福音のメッセージ

「子ろばに乗って」

*今日は「受難の朗読」ではなく「入城の福音」からのメッセージを皆さんにお届けします。

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 本日の典礼は聖週間の初日にあたり、主がついにエルサレムに入城されたことを記念します。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書では、イエスの宣教活動中におけるエルサレム入城はただ一度、その最期の日々に果たされたとされています。それによって、エルサレム入城が同時に十字架の死へ向かう最後の一歩であったことを意味しています。ちなみにヨハネではイエスは5回、エルサレムに上ったとされています。

 けれども今日の福音にあるように、その入城の様子は十字架の死とはまったく逆の勝利と栄光に満ちたものでした。大勢の群衆が王を迎える時のようにその進む道に自らの服や木の枝を敷き詰め、イエスの前後を取りまいて「ダビデの子にホサナ」と歓呼の声をあげます。そう群衆はまさにイエスが彼らの待ち望んでいた真の王であるメシアとしての行動を開始するためにエルサレムに来られたのだという期待に熱狂していたのです。

 群衆のこの熱狂を理解するためには、当時のユダヤがメシアを待ち望む運動、いわゆるメシア主義(メシアニズム)にいかに沸騰していたかに思いを馳せる必要があります。それは福音書全編の背景を思い描くためにも欠かすことのできない視点です。その運動は同時にローマ帝国からの独立運動、民族主義的な熱情と一体化していました。ユダヤ人はローマ帝国から民族を解放してくれる政治的、軍事的な王としてのメシアを待望していました。

 私たちはしばしばそれを神の救いをもたらす真のメシアを理解できずに地上的な栄光を求めていた愚かなユダヤ人として蔑視しがちです。また今日の受難の朗読また聖なる三日間の福音朗読においてユダヤの祭司たちや民衆を、イエスを十字架の死に追い詰めた「悪役」として捉えがちです。けれども皆さんに気をつけて頂きたいのは、そのような視点をもって福音を読もうとすることです。そのような視点が欧米におけるカトリック教会を中心としての反ユダヤ主義の温床となったのです。

 何世紀にもわたって大国の支配や侵略に虐げられてきた弱小民族が解放と独立を切望するのは当然のことです。むしろそのような「人間的な見方」を超えた神の思いに開かれていくことはきわめて困難なことで、おそらくどの民族にあってもそれは同じで、私はイエスがどの民族に生まれていても、やはり死刑にされていたと思います。何よりもイエスがそれをもっとも理解されていたことでしょう。それでもなお神の民であるユダヤ人を愛されていたことが大切です。だからこそイエスはエルサレムを思って涙を流されたのです。

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛(ひな)をその羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか(マタイ23:37)」

 まさにイエスは母親が幼いわが子を腕の中に抱きしめるようにして、ユダヤの民を愛されていたのです。ここから言えることは、イエスの十字架の苦しみは肉体的なものだけでなく、弟子たちの裏切りがそれ以上の苦しみであったとよく言われますが、それと同様に愛する民から見放されて、憎まれ、さらに殺されるという大きな苦しみがあったのです。

 今日のエルサレム入城で歓呼する群衆にもイエスは真のメシアを理解してもらおうとして必死に訴えています。それが「子ろばに乗って」入城する姿です。イメージしてみてください。人びとが立ち上がってイエスを讃えている、けれどもイエスは低い子ろばに乗っているために人びとの視線より下にいて、人びとを見上げています。人びとはイエスを見下ろしています。何という奇妙で、ちぐはぐな光景でしょうか。この光景にふさわしい姿は馬に乗って来る姿だったのです。馬に乗れば人びとを見下ろし、人びとは見上げることになります。だからこそ馬は権力者と軍人の乗り物でした。まさにそれは「政治」と「軍事」の象徴で、人びともそのような姿こそをメシアに、イエスに求めていました。

 だからこそ、イエスはろば、しかも子ろばに乗ってきたのです。ろばは庶民が運搬また乗用に生活のために使用するものでした。それは「仕えること」と「平和」の象徴でした。イエスにとってメシアであるということは「仕える」ためであり「平和」をもたらすことでした。それが人びとに理解できないのは、イエスは単に「人間的な見方」によってではなく、それを超える「神の愛の視点」から実現しようとされていたからです。

 ですから、群衆の歓呼が響き渡るような輝かしい今日の福音には、実はイエスと群衆の思いの深い断絶がすでに表れていて、受難の序曲ともいうべきものであるのです。

 繰り返しますが、受難の福音を黙想する時にはイエスのユダヤ人の愛を想起してください。そして私たちも福音のユダヤ人のようにイエスが何度も何度もご自分の腕の中に私たちを抱き迎えようとしてくださっているのに、そこから逃れて、この世的な価値や快楽に走っていることを。「エルサレムよ、エルサレムよ」と嘆かれ涙を流されたように、新しいエルサレムであるキリストの教会の子らである私たちのために嘆かれ涙を流されていることを。

お知らせ:

大阪大司教区、東京大司教区等で、YouTubeを利用したミサのLIVE配信を行っています。下記記載のURLよりYouTubeをご覧になれる環境をお持ちの方はぜひご活用ください。

大坂大司教区 4月5日 10:00
http://www.osaka.catholic.jp/c_oshirase_bun2020.html#200319

東京大司教区 4月5日 10:00
https://www.youtube.com/watch?v=eRc_PYecgvY

4月末までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します

2020年4月1日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

4月末までミサの中止および教会施設の閉鎖を延長します
♰主の平和
本日午後、前田大司教様より、第5次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られて参りました。
通達の全文は大阪教区のホームページ(http//www.osaka.catholic.jp)に掲載されています。「更新情報」の中の「お知らせ(4月1日)」をクリックしてご覧ください。
ここでは、第5次の通達中、垂水教会が取るべき措置に関係する重要な通達を以下に列挙しておきます。

  • 1.大阪教区での公開ミサは、4月末まで中止とします。5月以降に関しては、4月23日(木)ごろをめどに、改めて通知します。
  • 2.ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。
  • 3.秘跡の授与(洗礼、聖体、ゆるしの秘跡、病者の塗油など)に関しては、小教区の責任司祭に一任します。
  • 5.公開ミサ中止期間中、大阪教区のすべての信徒に主日のミサに与る義務を免除します。各自が家庭で、聖書を朗読したり祈りを捧げたり、ロザリオの祈りをしたりする時を持つように勧めます。

上記の通達に従って、4月末日まで週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を延長いたします。
聖週間および復活祭については、大阪教区では聖なる三日間の典礼のインターネット中継を検討しています。また皆さんの霊的指導の責任を担う担当司祭としましても、一年間の典礼で最も大切な聖なる三日間、復活祭を聖堂での典礼のできない状況にあって、どのように過ごして頂けばよいのか、運営委員会とともに検討し、何らかの提案をしていきたいと考えております。ある意味、今の私たちはバビロンの捕囚時における神の民のような状況にあるのかも知れません。当時の神の民がその苦境を乗り越えたように、私たちも揺らぐことのない信仰をもって歩んで行きましょう。