「垂水教会一般」カテゴリーアーカイブ

主に垂水教会内での情報

2025年12月7日 待降節第2主日(A年)のミサ 説教の要約

《 片 付 け 》
2nd Advent A
2025.12.7ミサ説教

私の子どものころの思い出です。ある日、父が仕事から帰ってきて家に入ったとたんに言いました。「汚い。何で物がめちゃくちゃに散乱しているんだ。」と。母をはじめ、姉と私はやっていることをやめて、家の中のものを片づけ始めました。父は汚い散らかった家が我慢できませんでした。見ると、すぐ不平を言い出しました。母は姉と私に、「朝、起きたら、まず、自分のベッドを片づけるように」と言いました。本当に、家庭、家族は子どもたちにとって、最初の学習環境です。

さて、垂水教会での、ある日の午後のことです。近所の子どもたちが教会のグランドで遊んでいるの見て、私は彼らの方に近づきました。すると、一人の男の子が友達にお菓子を配って、また、お菓子の紙を集めたのが見えました。日本人にとって、清潔さは大切です。それは幼い頃から教えられます。子どもたちは定期的に手を洗い、ゴミはゴミ箱に捨て、借りた場所を去る前に、そこをきれいにするように教えられます。

スポーツの試合が終わった後、あなた方がスタジアムを去る前に、自分の場所を掃除している姿を世界が何度も見ました。世界中の人々があなた方の行いを見、褒め、感銘を受けました。

兄弟姉妹の皆さん、くさい臭いがするので、私たちはきたない人たちから離れようとします。その人たちの臭いや見た目が我慢できません。

待降節の第二の日曜日の福音は洗礼者のヨハネについて語っています。

福音によりますと、彼は水のない場所、つまり、荒れ野に住んでいました。彼の服はラクダの毛と革のベルトで出来ていました。彼のライフスタイルは禁欲的でした。彼のメッセージは悔い改めだったということです。すなわち、「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と。予言者イザヤは彼についてこのように話しました。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために荒れ地に広い道を通せ。」と。彼の方に誰が勇気をもって近づくのかが私にはよくわかりません。

動物の皮で作った服を着て、水が不足している場所に住んでいる男性の臭いを嗅いでみますか。

もしも、洗礼者ヨハネの臭いや見た目が我慢できないとしても、彼のメッセージには耳を傾けるべきものです。洗礼者はこのように宣言しました。「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と。悔い改めることは彼の明確なメッセージでした。私たちは何度も繰り返しそれを聞きました。よくそれを知っています。しかし、今回は、悔い改めは二つの点で理解しましょう。まず、散らかった物を片づけなさい。自分の汚れは自分で掃除すると言う点で理解しましょう。罪を犯すと、人生がめちゃくちゃになります。罪はめちゃくちゃです。罪は乱れです。「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と洗礼者ヨハネは宣言した時に、それは回心し、魂を清め、正しい生活を送り、罪から自分を解放し、神の元に立ち帰るという意味です。自分の部屋を掃除するとき、私たちはごみをカーペットの下に隠すのではなく、むしろ、捨てます。というのは天の国は近づいたからです。主が来られるからです。私たちは主の来臨に備える必要があります。めちゃくちゃになったものを片づけると、他の物のためのスペースが出来ます。私たちは人々を家に迎え入れることが出来ます。悔い改めると、私たちは神に人生のスペース、場所、空間を与えています。神を歓迎します。第二朗読では、パウロは人々が調和して生きるよう促しています。彼は、クリスチャンが必ず皆同じではないことを知っています。文化、思い、宗教、性格、などという違いがあると認識しています。しかし、彼は彼らが一致して生き、一緒に神を賛美する声をあげるよう強く進めています。一致ということは、皆が同じだということではありません。一致は皆が互いに、歓迎し合い、許し合い、理解し合い、尊敬し合い、愛し合うことです。一致は相手に対して、心を開くというイエスの模範に倣い、従うことなのです。

兄弟姉妹の皆さん、このパウロの言葉・教えによって、私たちは悔い改めのもう一つの意味を学べます。それは他者を受け入れ、互いを認め、理解し、許し合い、温かく歓迎し、和解し、正しい関係に向かって、他者の方へ歩みよると意味します。主の降臨の準備をしながら、洗礼者ヨハネの声に耳を傾けましょう。

自分の家に帰ってきたら、散らかっているものを片づけて、イエスと他の人々のために、場所を空けましょう。

 

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12月のミサ予定

《12月ミサ予定》 主日10:00〜
December Mass Schedule Lord’s day 10:00〜 (Japanese)

12月7日(日) 待降節第2主日 Fr. アマド
2nd Sunday of Advent Fr.Amado

12月8日(月)  無原罪の聖母マリア Fr. アマド
Immaculate Conception of Mary Fr.Amado

12月14日(日)  待降節第3主日 Fr. 中川
3rd Sunday of Advent Fr.Nakagawa

12月21日(日)  待降節第4主日 Fr. アマド
4th Sunday of Advent Fr.Amado

14:00〜19:00頃 中高生会合同 クリスマスの集い 信徒会館にて
From 2:00 pm to 7:00 pm A Joint Christmas Gathering of Junior and Senior High School students organized by Kobe District and hosted by Tarumi Catholic Church.

12月24日(水) 
17:00 子どもたちによる聖劇
18:00 主の降誕 夜半のミサ Fr. アマド
ミサ後 信徒会館にて おぜんざい と ホットワインなどのお飲み物をご用意しています。

·5:00 p.m. – Play about the Nativity will be performed by Members of Kodomo Kai.
·6:00 p.m. – Christmas Vigil Mass Fr. Amado
·After the mass, zensai, hot wine and other beverages will be served at the parish hall.

12月25日(木)  
10:00 主の降誕 日中のミサ Fr.アマド
Christmas Mass Fr. Amado

12月28日(日)  聖家族 Fr. 中川
11:30  聖母マリアに捧げる感謝のコンサート
Feast of the Holy Family Fr.Nakagawa
11:30 a.m – A Thanksgiving Concert Dedicated to the Virgin Mary.

12月30日(火)
18:00 大学生と高校生とアマド神父様との集まり
6:00 p.m. – University and High Students’ Christmas Get-together.

12月31日(水)
18:00 タガログ語による感謝のミサ Fr. アマド
6:00 p.m. – Thanksgiving Mass in Tagalog. Fr. Amado

2026年 1月

1月1日(木)   神の母聖マリア Fr. アマド
Solemnity of Mary, Mother of God Fr. Amado

1月4日(日)  主の公現 Fr. アマド
ミサの中で二十歳の祝福式
The Epiphany of the Lord Fr. Amado

2025年11月16日 年間33主日(C年)のミサ 説教の要約

《 最後まで、忍耐をもって 》
33rd Sunday C
2025.11.16ミサ説教

ある日のことです。「大変ですね」と一人の信徒が言いました。「何のことですか」と私は答え尋ねました。「昨日の夜ニュースによると、スーパー台風があなたの国に上陸して、大雨と猛烈な風をもたらしました。高い波が多くの家屋を飲み込み、橋が崩落し、激しい洪水が家屋や建物の中に入り込んだということです。自然災害がつぎからつぎへと起こりました。」と信徒は言いました。その日のテレビで、信徒が話題にしていたニュースが何度も繰り返し放送されました。信徒の愛情深い言葉は、私にとって慰めになりました。フィリッピンで起こった多くの自然災害の被害者の人々が、本当にかわいそうです。
実際に、そのようなニュースは非常に恐ろしいです。皆さんは世界の終わりを恐れていますか。あるいは、この訊き方にしましょうか。あなたがたは、世界が崩落していると感じていますか。そして、神はどこにおられるのだろうと考えていますか。人々が神殿の素晴らしさや美しさを見て話していた時、イエスは神殿の完全な破壊について話しています。話の途中で、イエスは、戦争、迫害、暴力、そして、親しい関係の中で分裂や対立について話し始めています。これは本当に怖いです。このような状況下で、どうすれば普通の生活を送れるでしょうか。争いのために、自分の親しい人々と離ればなれになりたい人はいるでしょうか。これは本当にひどい
ことです。
災害や分裂は、私たちの命を脅かす可能性があります。それらは日常生活や習慣を乱し、私たちの土台を揺るがし、自分の限界や弱さを意識させます。また、心の安らぎや穏やかさを取り除いてしまうこともあります。
このような時、信仰を捨ててしまう人々がいます。残念なことです。信仰を守り生きるための戦いは、確かなことであり、大きな挑戦です。
兄弟姉妹の皆さん、人生の課題が重すぎると感じる時、命が脅かされているとき、諦めて課題に降伏したくなる時、このような時こそイエスの言葉を思い出すべきです。「あなた方の髪の毛の一本も決してなくならない 。忍耐によって、あなた方は命を勝ち取りなさい。」と。忍耐心によって 、永遠の命・救いを得るのです。

ある日曜日の朝、私は吹田教会へ向かう途中、ちょうど教会から出てき たばかりの年配の女性に会いました。立ち止まって挨拶をしました。明らかに、彼女は歩行に問題を抱えていました。足がむくんでいたのです。非 常に悪いです。彼女は私に、高齢と悪い足のせいで、教会から離れること になるかもしれないと話してくれました。でも、彼女はそうなることを望 んでいませんでした。だから、困難なときにさえ、毎週日曜日に、教会へ 行こうと精一杯努力していたのです。私は彼女の信仰に感心しています。

彼女の存在は、彼女の信仰と忍耐の証です。このような困難な時こそ、私 たちは世界や周りの人々に自分たちの信仰を示すことが出来ます。このような苦しい時、辛い時であっても、私たちが善行をし続けることを希望します。

 

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2025年11月2日 死者の日(C年)のミサ 説教の要約

《 神の手で 》

All Souls Day 2025
2025.11.2ミサ説教

このミサの中で、私たちはすでになくなられたすべての人々のために、特に、あの小さな箱の中の小さい紙に名前が書かれている人々のために、祈ります。

今日の典礼は、私たちがこの世を去った後に何が起こるかを思い起こさせます。

死後の世界についての私たちの祈りと黙想は、本日の第一朗読から取られています。葬儀のミサの時、この朗読が使われています。知恵の書の中には「神に従う人の魂は神の手でまもられ、もはやいかなる責め苦も受けることはない。自分たちからの離別は破滅に見えた。ところが彼らは平和の内にいる。」と書いてあります。この真理ついて考え、それに従って生きるように努めるのがよいでしょう。この朗読は何を言っていますか。

この朗読は、死についての揺るがない真理を語っていますが、私たちはその真理が当然のことだと考えています。結果として、死は私たちの多くにとって不安の原因となります。私たちみんな、あるいは多くが死を恐れています。どれくらいの人がそれについて公に話しますか。たまにしか話 さないでしょう。死についての理解は旅立ちであり、別れであり、辛いさよならです。それは旧約聖書の死についての理解と同じようです。「愚か 者たちの目には彼らは死んだものと映り、この世から旅立ちは災い、自分 たちからの離別は破滅に見えた。」死は旅立ちであり、完全な消滅です。死者はもはや現在の存在ではなく、過去の者になります。

それは死についての正しい理解ですが、完全ではありません。それは死 の一面に過ぎません。死者はこの世を去り、体は腐敗します。しかし、それは第一朗読が私たちに伝えたい真理ではありません。神に従う人がこの世を去って行っても、神の御手で守られ、平和の内にいると朗読は語っています。これこそが、私たちが死ぬときに経験したいことだと思います。 私たちは安からな死を望んでいます。神の御手が私たちと共にあってほしいと願っています。

私の親しい友達が、安らかな死を望んでいたアントニオという名前の弟について話してくれました。弟が長い間一人で暮らしていたと友達は言い ました。寝る前に、彼は聖ヨセフに捧げる「安らかな死のための祈り」を唱えました。それに加えて、彼は祈りと働きに参加する宗教的な共同体に入りました。祈りは叶えられました。アントニオさんは痛みに苛まれず、病院ではなく、平和の内に自分の家で、人生の幕を下ろしました。

兄弟姉妹の皆さん、第一朗読は私たちに、公正であり、神に喜ばれる生き方をするよう求めています。正しい者であるということは神の味方であると言うことです。正しい者は素直に神に従う者です。弱いのに、正しい人は力いっぱい神の掟を守ります。よく祈ります。

兄弟姉妹の皆さん、今日の典礼は死についての真理を思い出させます。

私たちはそれをよく知っています。死ぬとき、魂は別の場所へ行くと私たちは信じています。その場所はまだわかりません。しかし、永遠の命が私たちの夢であり、また神の私たちへの御心でもあると私は確信しています。私たちは神が私たちに永遠の命を与え、御手で守られ、平和の内に生きることを望んでおられると信じていますが、第一朗読は「神に従う人の魂は神の御手で、守られる」と語っています。正しく生きることは私たちへの招きであり、挑戦なのです。

 

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11月のミサ予定

《11月ミサ予定》 主日10:00〜
November Mass Schedule Lord’s day 10:00〜 (Japanese)

 

11月1日(土)諸聖人 Fr. アマド
All Saints’Day Fr.Amado

11月2日(日) 死者の日 Fr. アマド
All Souls’Day Fr.Amado

11月9日(日)ラテラノ教会の献堂 Fr. アマド
Feast of St. John Lateran Basilica Fr.Amado

11月16日(日) 年間第33主日
子どもとともに捧げるミサ
七五三祝福式 (対象:赤ちゃん〜高校生 ) Fr. アマド
33th Ordinary Sunday Children’s mass
7-5-3 Children’s Blessing Ceremony (For Babies, Infants, Children and Teenagers) Fr.Amado

11月23日(日) 王であるキリスト Fr. 中川
Solemnity of Our Lord,Jesus Christ the King Fr. Nakagawa

11月30日(日) 待降節第1主日
待降節黙想会 共同回心式  Fr. 清川 Fr.高橋
1st Sunday of Advent
Advent Recollection: Penitential Rite and Confession Fr. Segawa Fr.Takahashi

2025年10月19日 年間第29主日(C年)のミサ 説教の要約

《 希望の宣教師 》

29th Sunday C
2025.10.19ミサ説教

今日は世界宣教の日です。私たちキリスト者は宣教師であり、全世界に行って、キリストを述べ伝えるために遣わされたという基本的な真理を、私たちの日曜日の典礼は強調しています。

録画されたビデオで、教皇レオ14世は私たち全員に、希望であるキリストを全世界に行って、教えるのを手伝うよう促しています。それから、教皇様は私たちに「キリスト者は絶望と不安に覆われた世界で希望を築く職人になる」という神からの呼びかけを思い起こさせています。彼は、すべての宣教師のために祈り、教会のすべての司牧的養成・キリスト教の教理教育を支援することを認める言葉で、メッセージを終えました。

兄弟姉妹の皆さん、宣教は元々ラテン語で、“mitere”、派遣されるという意味です。宣教師とは遣わされる人です。 イエスはご自身を「遣わされた者」で、御父を「遣わした方」と呼びました。 要するに、宣教師とは御父から遣わされた人です。

聖書を読んでみると、神と個人的に出会った人々は皆、遣わされていることに気づくでしょう。これに例外はありません。 例を挙げると、 モーセ、サムエル、ヨナ、使徒たち、マグダラのマリア、パウロ、そして何人かの婦人たちの名前があります。個人的な出会いによって、人は宣教師となり、文字通りにも、比喩的にも世に出ていきます。

先週の月曜日は祭日でしたが、何人かの子ども会のメンバーはリーダーたちと一緒に巡礼に出かけました。初めに姫路教会へ行き、聖堂で祈ったり、神父の話を聴いたり、楽しい時間を過ごしたりしました。そして、加古川教会にも寄りました。良い日だったと思いました。実は、この巡礼を特別なものにしたのは、鷹取教会から来た同じ信仰を持つ子どもたちと一緒に行われた霊的な行事です。

巡礼、祈り、神についての話、仲間の信者との交わりは、子どもたちが神に出会う機会です。そして、それは個人的な変化につながり、神とのより深い関係を育み、日常生活の中で神の存在を体験することができます。

この2番目のポイントは、最初のポイントと関係があります。 宣教とは、私たちの信仰を他の人に述べ伝えることで、ほとんどの場合、言葉を通して行われます。

兄弟姉妹の皆さん、自分の信仰について他の人に知らせるのが難しいという、受け入れにくい事実を認めましょう。それはなぜでしょうか。私たちは人々に、特に家族、友人、仲間、一緒に働く人々、親戚に、神について述べ伝える勇気がほとんどありません。 話すことが怖いですか。 私たちの話す能力は、聞く能力ととても近い関係があるのをご存知ですか。 特定の声を聞き続けると、それに慣れて、迷わずその指示に従うようになります。 誰の声に耳を傾けているのでしょうか。 多分、私たちはすでに多くの声に気を取られていて、本当に耳を傾けなければならない声が、ほとんど聞こえなくなっているかもしれません。 繰り返しになりますが、もう一度言わせてください、私たちは重要だと思う声に耳を傾けます。 もし私たちが神の言葉を述べ伝えないのなら、きっと、私たちは神の声に耳を傾けていないということでしょう。聖書によりますと、 聞くことが神の第一のおきてであると言っています。

私たちの心を祈りをもって神に聞き、神の御声に注意深く耳を傾けましょう。そうすれば、私たちは確信と熱意をもって神の御言葉を宣言することができるでしょう。

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2025年10月12日 年間第28主日(C年)のミサ 説教の要約

《 心を込めて感謝する 》

28th Sunday C
2025.10.12ミサ説教

「感謝ほど神の心を完全に勝ち取るものはありません。」と私の宣教会の創立者である聖ヴィンセンシオ・ア・パウロは言いました。

私たちは感謝する心を持つ人間ですか。 両親は私に、受け取ったものが何であれ、「ありがとう」と言葉で伝えることの大切さを教えてくれました。この社会的な礼儀は今でも私の身についています。 フィリピンでは、私たちカトリック信徒は、誕生日を祝い、試験に合格し、学校を卒業し、新しい仕事を見つけ、手術が無事に終わり、成功し、夢が叶ったときにミサを捧げます。 教会の多くのミサの意向は、感謝です。

私たちは信徒として、今日の聖書朗読から学ぶ模範のように、感謝の心を育むべきだと思います。本日の聖書朗読は、感謝について述べています。第一朗読では、ナアマンというシリアから来た人は、自分を癒してくれた預言者のしたことを当り前だとは考えていませんでした。 権力と権威のある人物だというのに、彼は謙遜を持って、自分に好意を示してくれた預言者に感謝しました。

兄弟姉妹の皆さん、ナアマンと同じように、私たちが、感謝の言葉を口にするときに、私たちの地位や権威に邪魔をさせてはいけません。親は子供たちに感謝します。先生は生徒に感謝します。 受け取った贈り物や好意は、贈り主の寛大さのしるしであり、それを贈られるのが私たちの当然の権利ではないという現実を心に留めておきましょう。このことは、忘れてはいけないと思います。

パウロの手紙は私たちに、イエス・キリストのことを思い起こすように促しています。もし、イエスを思い起こすなら、何が起こりますか。イエスを思い起こすことは、イエスの神秘、つまり、説教、受難、そして死への認識につながります。 思い起こすことは感謝につながります。 感謝することは、神からの贈り物に気づくことから来る気持です。私たちは贈り物を受け取った時、「ありがとう」と言います。感謝することと、心に留めておくことはまるで、夫婦のように、いつも一緒です。

確かに、福音は私たちに感謝の心を持つよう教えています。 サマリア人は、自分の病気を癒してくれたことに気づいたので、ありがとうと言うために、イエスのところに戻りました。 誰も彼にそうするように命令しませんでした。 サマリア人のように、私たちの感謝は自発的で、自由に伝えなければなりません。

兄弟姉妹の皆さん、感謝するとは、好意を示してくれた人のもとに立ち返り、感謝の言葉を伝えることです。わたしたちの場合は、神に感謝します。これは謙遜なしもべの態度です。感謝の心を持ちましょう。この社会的な礼儀は、人生に大きな喜びをもたらします。

最後に、感謝の気持ちは神の心だけでなく、周りの人々の心も勝ち取ります。 感謝の心はコミュニティや人間関係を良好に築きます。 家族やコミュニティにおいて、恩知らずで、誇りの高すぎる人とはかかわりたくないものです。 これらの人々は自分自身を高く評価し、他人が自分のために多くのことをしてくれることを期待し、他人から受け取るものを当然のこととして受ける権利があると考えています。 他人に好意を寄せることは必ずしも義務ではありません。 自由な好意です。

有名な中世の神秘家マイスター・エックハルトはこう言いました。 「もし、あなたが人生でただ一度の祈りとして、“ありがとう”というだけであったとしても、それで十分である。」と。

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2025年10月5日 年間第27主日(C年)のミサ 説教の要約

《 私どもの信仰を増してください 》
27th Sunday C
2025.10.5 ミサ説教

この日曜日の聖書朗読は、信仰について語っています。私たち一人一人が、同じ方法で、この信仰を受けました。それは洗礼です。信仰を通して、私たちは目に見えない神を信じ、私たちよりもはるかに優れた存在だと考えます。

「わたしどもの信仰を増してください」 と、使徒たちは福音の中で、イエスに願いました。彼らは、私たちが日曜日に教会に来て、毎日神に祈り、生きた神の言葉を勉強した、その理由を、言葉で話しました。 信仰を増すのに、私たちはこれらすべてをしています。

いつものように使徒たちの質問に応じて、イエスは明確で直接的には応えませんでした。しかし、彼は、からし種のような小さな信仰が、偉大なことをすることができると教えられました。 「もしあなた方にからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、抜け出して海に根を下ろせと言っても、いうことを聞くであろう。」 つまり、信仰の大きさは関係なく、大事なのは、私たちがそれを持ち、それに従って生きるということです。

2つの方法で、私たちの信仰は増し、成長します。本日の第一朗読の中で、預言者ハバククは恐ろしくて、怖いビジョン・幻を見ました。その幻は、困難な時、試練の時、苦しみと痛みの時について語ります。 その幻を見て、預言者ハバククはただこう言いました。 「主よ、私が助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。」と。預言者ハバククは神の無関心さに対して、がっかりしていました。

兄弟姉妹の皆さん、預言者ハバククのように、私たちは皆、危機と痛みと不安の時を経験します。そうなると、 神の不在をより強く感じます。私たちは弱くなり、自分の限界と無力さが胸に思い浮かびます。 神は私たちの叫びに耳を傾けず、無関心であるように見えます。この頃になると、「神に従う人は信仰によって生きる、」 という人である預言者ハバククの模範に、私たちは習い従います。信仰は私たちをキリストにつなぎ留めます。 危機や困難の時、信仰を持つ人は待つことを知っています。 希望を持って待っています。 彼らは神が助けに来てくださり、困難を見抜く恵みを与えてくださると信頼しています。

沈黙のうちに、今の人生に私たちを悩ませていることは何かを考えてみましょう。 私たちの信仰は、自分たちの問題に立ち向かうのに、どのような助けを与えますか?

福音の中で、イエスは使徒たちに、主人に畑で働くように言われたしもべについてのたとえをなさいました。 これは、イエスが使徒たちにも私たちにも、神のご計画における私たちの本当の位置、つまり私たちが神のしもべであることを知るように告げる方法です。 神のしもべは何でしょうか。神のしもべとしての私たちにはこの世に使命を持っています。洗礼の秘跡を受けたときに、私たちはこの使命を受けとりました。 私たちはまさにキリストの使命に参加します。 司祭として、教会のすべてのメンバーのために、祈ります。王として、お互いに責任があります。 預言者として、真理を宣言し、それを守ります。 何をするにしても、名声や賞賛、そして、おせじを求めてはなりません。 私たちは単に義務を果たしているだけであることを心に留めています。

兄弟姉妹の皆さん、 信仰を増すことは、報酬を期待せずに使命を果たすことです。 イエスと人々に仕え、私たちの使命を果たすことは特権であると同時に、私たちの主であるイエスの使命そのものに参加し、私たちのために常に働いてくださるイエスの模範に倣い従うことです。本当に大きな恵みです。それはすでに報酬です。 信仰を増すことは、自分自身を完全に神に捧げることです。そして、 私たちは、ただひたすらに神なる主の御心のままで、まるで、主人の手の中のしもべのようです。

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