「垂水教会一般」カテゴリーアーカイブ

主に垂水教会内での情報

2023年7月30日年間第17主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

先々週(16日)、先週(23日)、そして本日と三週にわたって主日の福音では「マタイによる福音第13章」が取り上げられてきました。これまでの説教の要約で説明してきましたように13章には「種まきのたとえ(3―23節)」から始まって「天の国のたとえ話」が七つ、集められています。

本日は残り三つのたとえ話とまとめとしての「天の国のことを学んだ学者たち(52節)」のたとえ話が語られています。

 

まず五つ目、六つ目の「宝のたとえ(44節)」と「良い真珠のたとえ(45―46節)」は同じ内容です。「天の国」を「宝」や「真珠」という宝玉にたとえて、それを見つけた人は「持ち物をすっかり売り払って」それを「買う」のです。

「天の国=神の国」は私たちの全てを差し出してでも手に入れるべきもの、それだけの価値のある真の「宝」であることがメッセージとして込められていると思います。

第一朗読「列王記」の「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく(11節)」がこのメッセージに対応しています。この世的な価値、成功やそれに伴う財産や地位ではなく、ただ「神の国」を求めることこそがまことの「知恵(11節)」なのです。私たちがこの世的な価値や快楽に惑わされずに「神の国」を求めることが「聞き分ける心(9節)」であるとも思います。逆にこの世的なものを追い求める生き方は、私たちを「神の国」から遠ざけてしまいます。この世的なものは「すっかり売り払って」しまいましょう。

*ちなみに「敵の命を求める」は本来「戦争における勝利」を指しているでしょうが「競争社会における勝利」として、みことばを味わえばいいと思います。

 

そして「天の国=神の国」は「畑(この世界)」に「隠されている(44節)」もので、私たちはそれを「探し(45節)」求め続ける必要があるのです。

 

七つ目のたとえ話は前半(47―48節)と後半(49―50節)に分けることができます。後半は、先々週の「種まきのたとえの説明(18―23)」、先週の「毒麦のたとえの説明(36―43節)」と同じようにイエスご自身の言葉ではなく、初代教会の解釈です。なぜなら内容は「毒麦のたとえの説明」の焼き直し、同じものであるといえるからです。

「世の終わりにもそうなる(40節⇔49節)」「天使たち(41節⇔49節)」

「燃え盛る炉の中に投げ込ませる(42節⇔50節)」

「そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう(42節⇔50節)」

ですから本来のイエスのたとえ話は前半の47―48節であったと考えられます。

そこに語られている情景は、当時のガリラヤ湖のほとりで見られた漁師たちの日々の営みの姿です。イエスがこのような民衆の日常的な生活をたとえに用いているのは、民衆に信仰を具体的に実感してもらうためという思いがあったと思います。また、このような民衆のささやかな日々の営みへのイエスの慈しみの眼ざしを感じて、あたたかい気持ちになります。

このたとえ話のポイントは以下の箇所だと思います。

「網が湖に投げおろされ、いろいろな魚を集める(47節)」

「網」が天の国で「いろいろな魚」が私たち人間であると考えられます。

「いろいろ」というのは「毒麦のたとえ」でいえば「良い麦」と「毒麦」が両方とも育っている状態であるといえます。メッセージも「毒麦のたとえ」と同じであると思います。「網」は「良い」「悪い」関係なく、全ての「魚」に開かれているのです。

「天の国=神の国」は人を選ばないのです。無条件に、全ての人に開かれているのです。こんなどうしようもない私でも、招いてくださっているのです。

だから「神の国」を生きるということは、私たちも全ての人に自分を開き、裁かず、切り捨てない姿勢で生きるように努力することであると思います。

 

最後にまとめとして、このようにイエスから「天の国のたとえ」を聞き、「わかりました」と答えた弟子たちが「天の国のことを学んだ学者(52節)」としてたとえられます。

「学者」は「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す(52節)」ようになります。「取り出す」は「より分ける」と考えてもいいでしょう。

「古いもの」と「新しいもの」、これらをより分ける基準が「キリスト」です。生ける神の子キリストがこの世に来たことによって、全てが新しくされたからです。

「古い契約」は「新しい契約」へ、「律法」は「福音」へ、復活を通して「死」から「命」へと、全ては新たに「過越」されたのです。

私たちもキリストの洗礼によって「過越」を受け、新たにされたのです。

この世的な価値観によって、富や地上的成功を求めて生きていた自分に死んで、神の子として新たにしていただきました。

けれどもまだ「完全」ではありません。絶えず「古いもの」に縛られてしまいます。そうならないように、いつも神に「聞き分ける心」を求めましょう。

 

2023年7月23日年間第16主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

本日の福音「マタイによる福音13章24―43節」は先週の福音「種まきのたとえ」の続きです。「別のたとえ」という導入句に続いて三つのたとえが語られますが、すべて「天の国」のたとえであることが明確に述べられています。「天の国」はマタイだけの表現で、他の三つの福音の「神の国」と全く同義です。

本日の福音でも、先週の福音のように「毒麦のたとえ」についてイエスご自身が弟子たちに説明しています(37―43節)。この説明も先週の「種まきのたとえ」の説明(18―23節)と同じように、初代教会の解釈と考えられています。そこでは「終末における裁き」のたとえとして解釈されています。

よい麦と毒麦が明確に区別されていて、よい麦は「父の国(天の国)で太陽のように輝く(43節)。」毒麦は「燃え盛る炉の中に投げ込ませる(42節)」というように裁きが行われます。この解釈には紀元80年代頃の初代教会が激しい迫害にさらされていた状況が影響していると考えられます。困難な状況にある信徒を励まし、勇気づけるための解釈であり、それはその時代の信徒にとっての「福音」であったと思います。

ただ、この解釈を読んで思うのは、人間をこうまで単純明快に「よい麦」と「毒麦」に区別してよいのだろうか?という疑問です。

ある意味、私たちはみんな「中途半端」な人間であると思うのです。「善」と「悪」の間を行ったり来たりしていて、どちらの側にも完全に達することができません。もちろん、私たちは「善」の方に、キリスト信徒である私たちにしてみれば「神の思い」「キリストのように生きる」方向に向かって歩んで行きたいと願っています。けれども自分の弱さのゆえに絶えず悪の方向に傾いて行ってしまうのです。

 

そんな情けない自分に思わずうめかずにはおれません。第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙」ではそんな私たちと一緒になって“霊”もうめいてくださる、「うめきをもって執り成してくださる(26節)」と語られています。この“霊”を「聖霊」ではなく「キリストの霊」すなわちイエス・キリストご自身であるとする解釈があります。本来うめく必要のないキリストが私たちを深く憐れむあまり、共にうめかれるのだと。大きな慰めを与えてくれる解釈です。

 

いずれにしましても勧善懲悪のドラマのように、簡単に「善」と「悪」というように分けることができないのが私たちであると思います。そんな私たちが人のことを「悪い」と裁くこと、決めつけることは間違っていると思います。

この世の裁判においても被告を「有罪」とするためには十分な証拠が必要とされます。もし証拠が不十分であれば、どんなにあやしく見えようとも「無罪」とされるのです。では、私たちは人を判断するにおいて、十分な「証拠」を持っているといえるでしょうか。多くの場合、自分と接しているときの「相手」しか知らないのです。その人が生まれてから今日に至るまでどのような人生を送ってきたのか、どんな家庭環境であったのか、なにより私たちには他者の心の中を知ることができないのです。決定的に「証拠不十分」です。私たちには他者を裁く資格も権利もないのです。裁けるのは神だけ、私たちの心の中までも全て知っておられる神だけなのです。

 

「よい麦」と「毒麦」のいずれかに完全に該当する人はいないのです。むしろ、私たちは誰もが「よい麦」と「毒麦」の両方の要素を持っています。時に「よい麦」であり、時に「毒麦」となるのです。

そう考えて本日のたとえを読むと、ポイントは次のことばだと思います。

「いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい(29節)」

ここには神の私たちにたいする寛容と忍耐深さが表現されているのです。

第一朗読「知恵の書」にも、こう書かれています。

「力を駆使されるあなたは、寛容をもって裁き、

大いなる慈悲をもってわたしたちを治められる(12章18節)」

神は私たちを簡単に「毒麦」と判断されないのです。私たちの全て、弱さをもご存じなのです。裁きではなく、深い慈しみを注いでくださいます。ですから、同じ過ちを何度も繰り返してしまう私たちの「罪」を見られるのではなく、それゆえの「うめき」に心をとめてくださるのです。

そして、忍耐強く、待っていてくださるのです。

こんな私たち、「毒麦」のような私たちがいつか「よい麦」となることを、待っていてくださるのです。だから「育つままにしておきなさい」と言われるのです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイ5章45節)」

これが「天の国」「神の国」なのです。簡単に人を裁かない、切り捨てない、慈しみをもって、弱い私たち、自分勝手な私たちを包み込んでくださる神の愛が満ち溢れる世界です。私たちも「神の国」をもたらすために、人を簡単に裁かず、切り捨てず、共に生きていく共同体を目指していきましょう。

2023年7月16日年間第15主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

本日の福音「マタイによる福音13章1―23節」は「種まきのたとえ」として、よく知られている箇所です。多くの人はこのたとえ話の「種」を「神のみことば」、「種」がまかれた「土地」を私たち自身の信仰のあり方として解釈されていると思います。なぜならそれは18節以下でイエスご自身が自ら語られている解釈に基づいているからです。

本日の第一朗読の「イザヤの預言」が「わたしの口から出るわたしの言葉(55章11節)」というように「神のみことば」に関する箇所が選ばれているのも、そのような解釈の流れに基づいてのことです。

けれども皆さん、この18節から23節のイエスご自身の口から出たものとされている解釈はイエスご自身のものではなく、実は「マタイによる福音」の書かれた時代(およそ紀元80年ごろ)の初代教会の解釈であるというのが、現代の聖書学の定説となっています。

まずたとえ話と比較してみると、たとえでは「種」がどのような運命をたどるのかに主眼が置かれています。鳥に食べられる、枯れてしまう、茨にふさがれて芽を出せない、実を結んだ、というように。

けれども18節からの解釈では「種」ではなく、まかれた「土地」に主眼が移されています。そしてその「土地」が「御国のことば(19節)」を聞いた人びとの受け止め方とそれがもたらす運命のたとえとされています。そもそもたとえ話では「種」が「御国のことば(神のことば)」であるとは言われていません。

それでは初代教会はイエスのたとえ話の間違った解釈をイエスの言葉として書き記す過ちを犯してしまっているのでしょうか?

違います。まず福音書の他のたとえ話を読んでわかることは、イエスはたとえ話を人びとに投げかけるだけで、その意味を語っていないということです。イエスの思いはたとえ話を聞いた一人ひとりが自分で「答え」を見出してほしいということにあったであろうと思います。なぜなら、一人ひとりの人格や状況の違いに応じて、たとえ話の意味も変わってくるからです。仮にどんなにすばらしい「解釈」であっても、それが自分の心に、人生に響かなければ、何の意味もないからです。

イエスのことばである「福音」は聞く人の人生を照らし、揺り動かし、導くのです。ですから「答え」はひとつではありません。一人ひとりが自分の人生を、現在の状況を照らし出してくれる「光」となる「答え」を見つけ出せばいいのです。それでこそ「たとえ話」は「わたしにとっての福音」となります。

18節からの解釈もまさに当時の初代教会の苛酷な状況を照らし出し、力を与える「光」だったのです。そのころ、ユダヤ教の中でイエスをキリストと信じ宣教するユダヤ教徒への迫害が激化していたからです。

「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる(マタイ10:17)」

「わたしの名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる(マタイ10:22)」

キリスト者は同胞であるユダヤ人から、時には家族からさえも迫害を受けていたのです。そのような状況の中にあって、キリストへの信仰に踏みとどまりなさい、「良い土地(23節)」になりなさいと励ますために、このたとえ話からこのような解釈、「光」を読み取ったのです。

私たちもこのように、自分の状況や社会の状況に応じて、たとえ話を、みことばを読み取っていくことが必要です。それはみことばを「過去」のものではなく「現在化」することです。みことばは絶えず新しい状況の中に受容され、解釈されることを通して、「生きた神のことば」として働き続けるのです。そのダイナミックは聖霊の働きによってもたらされます。私たちはみことばを単に読むのではなく、祈り、黙想の中で聖霊の光に照らされつつ、神のことばの中に浸されるのです。その中で「光」を見出すことができます。

ただ、この「種まき」のたとえ話が2000年ほど前のユダヤの国でイエスの口から語られた時の意味は何だったのか、それを聖書学的に追跡することはできます。

まず、13章にはほかにも六つのたとえ話がこのたとえ話の後に切れ目なく続けられていて、それらすべてが明確に「天の国」のたとえ話とされているのです。

たとえば24節からの「毒麦のたとえ話」では冒頭に「天の国は次のようにたとえられる(24節)」と書かれています。「天の国」は他の福音における「神の国」と同義で表現が違うだけです。

そうであるならば、この13章には「天の国」のたとえ話がまとめて収録されているとして、「種まきのたとえ話」も本来は「天の国」のたとえ話であったと考えるのが自然です。

そうなると「種」は「天の国(神の国)」のたとえとして考えられます。まく人はイエス、そしてその弟子である宣教者たちです。イエスの最初の宣教は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)」がテーマで、まさに「神の国(天の国)」をまくことであったといえます。

ここまでで、このたとえ話の本来の「外枠」が見出されたといえます。ここからはまた、私たち一人ひとりが、その「内側」の意味を探し求めていくのです。

たとえば、宣教活動がなかなかうまく実を結ばない現実です。イエスの時代もそうでしたが、今もそうです。

また、「神の国」はまく「土地」を選ばないということ。「神の国」はどこでも、誰にたいしても(こんな私にも)開かれているということです。

 

2023年7月9日年間第14主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

今日のことばの典礼のみことばに共通するテーマは「柔和」と「謙遜:へりくだり」でしょう。

第一朗読「ゼカリヤの預言」は紀元前520年代に成立したと考えられています。この時代の前にはユダヤの民が539年にバビロンの捕囚から解放されて故国に帰還し、復興が進められ、ついに515年には神殿の再建が完成を迎えました。その指導的役割を担ったのはダビデ王家の血を引くゼルバベル王と大祭司ヨシュアでした。ユダヤの民はダビデ王朝の再興が実現し、かつてのイスラエルの栄光が戻ることを夢見たでしょう。けれども依然としてペルシア帝国の支配下に置かれていた中で、詳しい事情はわかりませんが、ゼルバベル王は追放され、大祭司ヨシュアは失脚し、ユダヤはペルシアが直接支配する「ユーフラテス西方管区」に組み入れられてしまいます。

独立の夢が破れ、再び大国の支配下に置かれて絶望した民は、信仰ではなく現世的欲望に走り、その結果、富める者と貧しい者との格差が社会に生じてしまいます。このようなすさんだ状況の中で民は次第に人間の王ではない、メシアとしての王を待望し始めます。

その「王」は「高ぶることなく、ろばに乗って来る(9章9節)」のです。

それはこの世的な王とは真逆の姿です。当時の「王」は権威的で「高ぶり」、軍事と政治の権威の象徴である「馬」に乗って来るからです。「ろば」は庶民の生活の中に寄りそう存在であり「柔和」「へりくだり」「平和」の象徴でした。

その王の役割は神が成しとげた平和を告げ知らせることです。ゼカリヤを通して語られた10節の平和は心に沁みとおります。現在の世界の状況の中で、私には次のように聞こえます。

「わたしはウクライナから戦車を ロシアからミサイルを絶つ。

戦いの武器は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる」

「高ぶることなく、ろばに乗って来る王」はイエスによって実現されました。

そのイエスがこの世界に平和をもたらしてくださるように、このミサを通して祈り求めましょう。

 

第二朗読「使徒パウロのローマの教会への手紙」では「肉」と「霊」を対立するものとしていますが、それは「肉体」と「霊魂」の対立ではありません。ユダヤ教では人間の存在を「肉体」と「霊魂」というように分離する考え方はありませんでした。キリスト教における「からだの復活」も「肉体の復活」ではなく「人間存在の全ての復活」ともいうべきものです。

パウロのいう「肉」と「霊」とはどのように生きているかという「生き方」の問題です。「霊の支配下(9節)」とは神の思いに従っての生き方で、「肉に従って(13節)」とは人間的な思い、地上的な価値観に従っての生き方です。

人間的な地上的な価値観に従う生き方は自己中心的な生き方になります。それは人間の力を過信して、神よりも自分を中心にするからです。

「霊」に従って生きるためには、神の前にへりくだることが必要です。自己の弱さ、小ささを認める時に人は神に己をゆだねていくのです。

 

本日のマタイによる福音11章の前の10章で、イエスは12使徒を選び、宣教に派遣しました。本日の箇所は、使徒たちが帰ってきてイエスに報告した宣教の結果にたいしてのイエスのことばの後半に当たります。実は前半のイエスのことばには激しい怒りと落胆が込められているのです。

「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ・・・カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでもおもっているのか。陰府(よみ)にまで落とされるのだ。』(11章20―23節)」

コラジンやベトサイダ、カファルナウムの町々は使徒たちの宣教を受け入れなかったのです。宣教は失敗したのです。それはイエスにとって、ご自分の宣教計画の挫折でした。

けれども、それに続く今日の福音では一転して、イエスは神を賛美されるのです。私には宣教の失敗に激しくユダヤの民を責めて、思わずうずくまってしまったイエスが一転して、天を仰ぎ、両手を上げて神を賛美する姿が目に浮かびます。

宣教の失敗、ある意味、それはイエスの計画の失敗です。けれども、イエスはその失敗にも神の思いを見出すのです。イエスにあっては、自分の思い、計画の失敗に捉われることなく、どんな状況においても、それが神の計らいであると受け止めて行く、絶対的な父なる神への信頼があります。それはイエスが父なる神の前にへりくだり、全てをゆだねているからです。

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした(25節)」

「幼子のような者」ここにイエスは父なる神の思いを見出します。この「幼子のような者」が「柔和で謙遜な者(29節)」であると思えます。

イエスは「知恵あるものや賢い者」ではなく「幼子のような者」と共に生きる、しかも自らも「幼子のような者」になって共に生きる道にこそ、父なる神の思いを見出したのではないでしょうか。それは自ら弱者となって生きることでもあり、十字架につながる道であったのです。

 

2023年6月25日年間第12主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 第1朗読は「エレミヤの預言」です。エレミヤは紀元前6世紀から5世紀にかけて、ユダ王国において預言者として活動しました。その時期において最大の歴史的出来事は紀元前586年のバビロニア王国の侵略によって、首都エルサレムが陥落し、神殿も完全に破壊されたことです。このような国家存亡の危機において多くの預言者は神の介入による奇跡的な勝利を預言しました。けれどもエレミヤはユダ王国の敗北を預言し、その後の屈辱的な捕囚の辱めについても受け入れるように民に促しました。王や官僚たち、また民衆にとっても、エレミヤは敵に味方する「売国奴」のような存在に思われ、エレミヤを迫害しました。

 ユダの人びとのエレミヤへの迫害は次のような言葉で表現されています。

「彼は惑わされて、我々は勝つことができる(20章10節)」

 実はこの言葉は今日の朗読の箇所の直前の7節のエレミヤの神への祈りと「対」になっているのです。

「主よ、あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです(20章7節)」

 人びとを怒らせ迫害を招くような預言をするように命じて、エレミヤを困惑させたのは「神」です。また、勝ったのも「神」です。

 対して人びとはエレミヤは「悪霊」に惑わされて(だまされて)預言していると信じ、勝つのは「我々」だと豪語しています。

 この「対」からわかることは、神は民に対して容赦のない「現実」を突きつけることです。それを受け入れたくない人びとは神の思いを拒否するばかりでなく、自分たちにとって都合の良いように神のことばを捏造しようとさえします。

ですから「神の勝ち」ではなく「我々(人間)の勝ち」だと誇ることによって、自分たちが神の思いではなく、自分たちの思いを中心にして生きようとしていることを自らさらけ出してしまっているのです。

 それに対してエレミヤは自分の思い、また民の思いを超えた神の思いを理解できません。でも、「負け」を認めます。つまり自分の思いを中心にするのではなく、神の思いを中心にして、そこに自分をゆだねていくのです。

 わたしたちも自分にとって都合の悪い「現実」を受け止めないで、否定し、認めようとしない時があります。けれども、どのような「現実」であっても、それを受け止めて、祈りを通してそこに「神の思い」「神のことば」を見出していくことが大切であると思います。むしろ、そのような不都合と思える真実の中にこそ、私たちへの「神の思い」がはたらいていることが多いと思えます。

 先週のマタイによる福音9章36節から10章8節ではイエスが12使徒を選び出し、宣教に派遣します。10章5節からは派遣するに際して宣教者の心構えについて教える「派遣説教」が語られ、今日の箇所もその中の一部に当たります。

 10章20節から31節までのテーマは「恐れるな」です。それは32節から33節における信仰告白を言い表すための準備になっています。

「人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す(32節)」の「仲間であると言い表す」は新約聖書においては「イエスが主であることを公然と宣言する」という意味に用いられています。それはまた「イエスがメシア(キリスト)である」と宣言することでもありました。マタイの福音書の成立は80年頃と考えられています。その10年ほど後に成立したとされているヨハネの福音書には以下のような記述があります。

「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公然と言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである(9章22節)」

「既に」にはマタイの福音書の時代も含まれていると考えられます。「会堂からの追放」は「ユダヤ社会からの追放」も意味します。「イエスの仲間であると言い表す」ことはそのような危険、迫害を伴う宣言であったのです。

 イエスは12使徒にだけではなく、マタイによる福音書の時代のキリスト者に対しても「恐れるな」と呼びかけているのです。

 その根拠として、イエスはふたつのことを言われます。

 ひとつはキリスト者を迫害する人びとは「体を殺しても、魂を殺すことのできない者ども」であるからです。人は他者の体は殺せても、その霊魂を殺すことも、奪うこともできないのです。霊魂は神から来て神に帰る、神のものだからです。

 もうひとつは私たちへの神の愛です。

「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている(31節)」

「まさっている」というのは、私たち人類の方が雀たちよりも生物として優れている、という意味ではありません。神は「命」に優劣をつけません。雀であっても「父のお許しがなければ、地に落ちることはない(29節)」というのは、雀の命にも心を配られ、その小さな命が意味もなく奪われることを許されないほどに、神が雀を愛しているということです。

 そしてその雀にたいするよりも「はるかにまさって」私たちを愛してくださっているのです。それほどまでに愛されていながら「恐れる」ことは神の愛を「信じていない」こと、神の愛に「背く」ことになります。

だからこそ宣教者パウロは「いつも喜んでいなさい(テサロニケの信徒への手紙一5章16節)」と命じるのです。その姿によって宣教者はどんな言葉よりも、神の愛を人びとに証しすることができるからです。

2023年6月18日年間第11主日(A年)のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

本日の三つの朗読に共通するテーマは「今」であるといえます。いつの「今」であるかというと「神の救いの業を見た『今』」です。

 

第一朗読の「出エジプト記」で神はモーセを通して民に語りかけます。

「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと

また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。

、もし私の声に聞き従い(19:4-5)」

この「今」において民が見た神の救いの業は「出エジプト」です。神が人類の歴史に介入されて、数々の奇跡を起こして、民をエジプトの奴隷状態からふるさとの自由の地へと「過越し」てくださったことです。その偉大な神の業によって救われた「今」だからこそ、民は神の声に「聞き従う」のです。それは神の救いにたいする応答であり感謝です。

神の声に聞き従う民は神にとって「わたしの宝(5節)」となります。それは世界中の民族の中にあって「イスラエル」を偏愛、「えこひいき」するということではありません。なぜならイスラエルは「祭司の王国(6節)」となるからです。

祭司の役割は「神と民を結ぶ仲介者」です。祭司が行うもっとも重要な儀式がいけにえを捧げることであってユダヤ教では「和解のいけにえ」と呼ばれます。罪を犯して神から離れてしまった民をいけにえを通して再び結びつけるのです。

ただ実はそれは神の側からの望みであるのです。神は祭司を自らの道具として、民をご自分のもとに立ち返らせるのです。それがイスラエルの民全体が祭司となって、全世界の民を神のもとに結びつけ、立ち返らせる役割を果たすことになります。そのような「道具」としての「宝」なのです。

 

第二朗読の「使徒パウロのローマの教会への手紙」ではパウロは次のように語ります。

「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされた(9節)」

「御子の死によって神と和解させていただいた・・・今は、御子の命によって救われる(10節)」

今やこのキリストを通して和解させていただいた(11節)」

パウロが「今」見た、体験した神の救いの業は新しい過越し、キリストの死と復活です。そのキリストの完全ないけにえを通して、私たちは神と完全に和解させていただいたのです。

しかもそれは、わたしたちが「弱かった、不信心な者(6節)」「まだ罪人(8節)」であったのに「キリストがわたしたちのために死んでくださった」のです。それによって「神はわたしたちに対する愛を示された」とパウロは語ります。

キリストを通しての神の救いは神からの一方的な救いであって、わたしたちの力ではないとパウロは力説します。その一方的な救いにパウロは神の偉大な業を見、神の愛を見るのです。その神の愛への感謝がキリストのことばに従って生きる道へと私たちを向かわせるのです。

 

さてそれではいよいよ福音朗読では、どこに「今」があるのか、探してみたくなるでしょう。ただ直接的には「今」は示されていません。

まず、今日の箇所の前には「山上の説教(5:1-7:29)」が語られていて、そこにおいて律法を超えるキリストの教えが語られたことが「今」といえるかも知れません。

また本日の箇所の冒頭「群衆が・・・打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(36節)」ことが「今」であったともいえるでしょう。この「深く憐れまれた」のギリシア語原文が「スプランクニゾマイ」です。「はらわた」を意味する名詞「スプランクノン」から派生した動詞で、直訳すれば「はらわたする」で、意訳すれば「はらわたが痛むほどの憐み」でしょうか。この「スプランクニゾマイ」こそがイエスを突き動かしていたのです。イエスの活動の原動力であったともいえると思います。

もうひとつ考えられる「今」は、十二使徒を選び出して宣教に向かわせたことです。ただ、使徒たちを送り出すに当たって次のように命令されます。

「異邦人の道に行ってはならない・・・イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい(5-6節)」

これだけを読めばイエスは異邦人への宣教を考えておられず、ただイスラエル(ユダヤ人)だけの救いを考えていた、としか思えません。これでは、メシアがユダヤをローマから解放し、さらには世界を支配する民となるという当時のユダヤ人の願望と同じような思いではないのか、というようにも思えます。

忘れてはならないのは、真のイエスの救いの「今」は第二朗読のパウロが語っているように「死と復活」によってもたらされたのです。ですから、その体験を経た弟子たちに向かっては「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい(28:19)」と全世界への宣教を命じられたのです。

今日の福音の段階の「今」では、イエスはイスラエルの民の「刷新」を目標にされていたのではないでしょうか。その刷新された民と共に異邦人への宣教に旅立つことを思い描いていたのではないでしょうか。

けれどもそのイエスの「夢」はかないませんでした。それによってイエスは十字架への歩みを決断されたのではないでしょうか。

 

2023年6月11日「キリストの聖体」の主日のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

*この日のミサは「子どもとともに捧げるミサ」として行いましたので、説教も子どもに向けて行いました。ミサの中で6人の子どもたちの初聖体式が行われました。 

 みなさん、今日は「キリストの聖体」、「ご聖体」のお祝い日です。

 最後の晩さんの中で、イエスさまはパンをご自分の体に、ぶどう酒をご自分の血とされました。それは私たちと、いつもいっしょにいるためでした。

 それは「そばにいてくださる」なんてものではありません。私たちがイエスさまのパンを食べることによって、私たちの「中にいっしょにいてくださる」ようになったのです。それは私たちとイエスさまが「ひとつ」になることです。

 そしてミサに参加しているお友だち、おじさん、おばさんといっしょに同じイエスさまのパンを食べることで、イエスさまを通して、みんなも「ひとつ」になります。それは垂水教会だけではありません。今日の主の日に、世界中の教会で時間と場所はちがっていてもミサが行われていて、同じ聖書の箇所を読み、同じイエスさまのお体をいただいているのです。

 今日、私たちはミサを通して、イエスさまの体、ご聖体を通して、世界中の人たちとひとつになるのです。

 そして、ご聖体は私たちがイエスさまのように生きるための力です。イエスさまのように、どんな人でも愛して、どんなひどいことをされても許してあげるというのは、とてもむずかしいことです。自分の力だけではむりです。だからイエスさまのお力をいただいて、イエスさまといっしょにがんばるのです。

 さて、みなさん、イエスさまによく似ている、みんながよく知っているテレビアニメのヒーロー、正義の味方がいます。だれでしょう?
はい、それはアンパンマンです!(アンパンマンの人形を出す)

 えっ、似ていないって?

 たしかに姿かたちは似ていません。

 似ているのは、アンパンマンも自分の体、パンをみんなに食べさせることなんです。アンパンマンは目の前に、おなかのすいている人、泣いている人を見るとほうっておけないんです。思わず「ぼくを食べて、元気になって!」と自分の頭をちぎって、そのパンをあげるんです。

 頭をちぎるんですよ、本当はとってもとっても、痛いと思いますよ。イエスさまもご自分の体をパンにするために、ことばだけではなく、次の日に十字架のすごい痛みと苦しみを受けなければいけなかったんです。ご聖体は「いけにえ」でもあったからです。でも、どんなに痛くても、苦しくても、私たちを助けてあげたい、救ってあげたいという思いでいっぱいだったんです。アンパンマンもそうだと思うんです。イエスさまに似ているでしょう?

「アンパンマン」の作者のやなせたかしさんが50年ほど前、「アンパンマン」のマンガの連載を雑誌ではじめた時に「アンパンマン」を書こうと思いたった理由を書いた文章()があります。

 そのころ「ウルトラマン」がとても人気があって、やなせさんも夢中になって見ていたそうです。でもだんだん、やなせさんは「ウルトラマンは本当に正義の味方なんだろうか?」と疑いはじめたそうです。ウルトラマンは怪獣をやっつけるためだけれど、大あばれして、ビルや家をめちゃめちゃにこわしてしまう。でも、こわされた人たちに謝らないじゃないか・・・と。

 そして私たちが本当に助けてほしいのは、怪獣じゃなくて、失恋して死にそうな時、おなかがすいてたおれそうな時、お金がなくなった時なんだ、そういう細かいところに気がつく、やさしさをもっているのが本当の「正義の味方」じゃないか・・・、と思ったそうです。

 それが「アンパン」とつながったのは、やなせさんがちいさな子どもだった時、遠くの町へ遊びに行って、財布を落としてしまった時の思い出からだそうです。電車のキップを買うお金もなくて12キロばかり離れた自分の家まで線路を歩いて帰ることにしたそうです。たくさんの人がいたそうですが、それは全く自分とは無関係で、知らん顔をしていて、ことばさえ通じない外国をひとりぼっちで歩いているようなさみしさを感じたそうです。日もどんどん暮れて暗くなってきて、おなかも減ってきます。涙もポロポロ落ちてきます。

 その時、「やなせ君!」と呼ぶ声がしたそうです。見ると、友だちのKくんとお母さんが一緒に立っていて、やなせさんは「地獄に仏!」と思い、ふたりの姿がキラキラとバラ色に輝いているように見えたそうです。

 Kくんのお母さんはキップとアンパンを買ってくれたそうです。

「その夜・・・帰りの電車の中で食べたアンパンほどおいしい食べ物をぼくは知りません」とやなせさんは書いています。きっとそれは、アンパンの味だけでなく、Kくんのお母さんのやさしさがいっぱい詰まっていたからだと思います。やなせさんは本当の正義の味方は「ほんのささやかな親切を惜しまない人だ」と考えて「アンパンマン」が生まれたそうです。

 イエスさまもまさに「ほんのささやかな親切を惜しまない」、本当の正義の味方です。ご聖体にはイエスさまの愛がいっぱい詰まっています。ご聖体を食べる時、私たちはイエスさまの愛に包みこまれるのです。

注:「アンパンマン雑記帳」:「詩とメルヘン(サンリオ)」1976年6月号掲載

2023年6月4日「三位一体の主日」のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

 

本日は「三位一体」のお祝いの主日です。

私たちがいつも唱えているように、キリスト教の神の御名は「父と子と聖霊の神」です。この呼び方はユダヤ教においては、きわめて異質なものでした。

ユダヤ教の神は「唯一絶対」の神であって、ただおひとりで、他の神の存在を許さないからです。それを「父である神」「子である神」「聖霊である神」と複数の神とするような信仰は「異端」とされるべきものであったでしょう。初代教会が立ち上がった当初、まだ「自分たちをユダヤ教徒である」と認識していたペトロや使徒たちからこのような呼び名が生じたということも考えられません。

ですから、この呼び名はイエスご自身に由来しているとしか考えられないのです。使徒たちにしてみると、何度もイエスがこのように神に呼びかけていたので、理解できないながらもこの呼び名を踏襲していたと考えるのがもっとも妥当な解釈でしょう。

そしてこの三位の神が「ひとつ」であるということ、これもイエスからでしょう。特に「ヨハネによる福音」の最後の晩さんの告別説教(13:31-17:26)において何度も「父とわたしはひとつ」と言われ「弁護者」と呼ばれている聖霊も父のもとから来るというように言われているからです。

ではなぜ、三位の神が「ひとつの神」なのか。これを「どのようにしてそれはあるのか」という存在論的に考えると誤ってしまうと思います。その三位の神の「関係性」という視点から考えるのです。

ひとことで言ってしまえば、それは「愛し合う」関係なのです。しかも完全に愛し合っています。完全な愛とは、完全に自分を相手に与えてしまうことです。イエスはその愛を十字架を通して具体的に示してくださいました。三位の神はそれぞれがそれぞれにたいして「己」を完全に与え尽くしているので「己」が消滅することによって、完全に「ひとつ」になっているのです。

「三位一体の神」の座とは「完全な愛の交わり」の座なのです。

 

本日の三つの朗読も「交わり」がテーマになっています。

第一朗読「出エジプト記」では神がモーセにたいしてご自分のことを次のように宣言されます。

「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者(34:6)」

「主、主」という繰り返しは奇妙に思えるかも知れません。実はこの箇所は同書の先の「燃える柴」の箇所においてモーセに言われたご自分の名を踏まえているのです。

「わたしはある、わたしはあるという者だ(3:14)」

「わたしはある」というのは単に「わたし(神)は存在する」ということだけではなくて、「わたしはあなたと共にある」と私たちとの交わりの中にこそ「ある神」であると言われているのです。そして34:6の後につづく言葉は、まるで私たち人間にたいしての自己アピールであるかのようです。

そうです、神は私たち人間にたいして求愛、「プロポーズ」されているのです。

神の方から私たちに「交わり」を求められているのです。

 

第二朗読「使徒パウロのコリントの教会への手紙二」では「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように(13:13)」とパウロは書き送っています。この言葉がミサの開祭の時の司祭の会衆へのあいさつの言葉として使われています。語尾は「皆さんとともに」になっていますが表現の違いだけで、意味は同じです。

「父と子と聖霊の神」と私たちとの最高の愛の交わりの場であるミサに、司祭が皆さんを招いているのです。

 

福音朗読「ヨハネによる福音」では「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された(3:16)」と書かれています。

「父である神」が「子である神」を私たち人間の生きている場である「世」に送ってくださったのは、「父と子と聖霊の愛の交わり」の座に私たちを招くためであったのです。いわば、人間イエスとなった神の子は、「父である神」からの生きた「招待状」であったと言えるのです。

何という恵みでしょうか!私たちからではなく、神のがわから先に呼びかけてくださったのです。人間の男女の関係にたとえれば、神の方から私たちに「つき合ってください」と手が差し出されたのです。このたとえが旧約聖書では「雅歌」として描かれています。そこでもやはり、乙女であるイスラエルに神の方から求愛しているのです。

この神から差し出された手を、私たちが握り返すか、振り払うか、その選択を神は強制することなく、私たちに委ねてくださっているのです。あくまでも人間の自由意思を、言い換えれば、私たちの人格を尊重してくださるのです。

神から差し出された「手」であるイエスを受け止めましょう。

それはイエスに従って生きて行くことです。

イエスの十字架を担って生きて行くことです。

イエスの福音を生きて行くことです。

そうして私たちは「父と子と聖霊の愛の交わり」の中で生きて行くことができるようになるのです。

 

 

2023年5月28日「聖霊降臨の主日」のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

「一同が一つになって集まっていると」

――――第一朗読:使徒たちの宣教2章1節

本日は「聖霊降臨の主日」です。主イエスが「天(三位一体の神の座)」に戻られたことによって、聖霊が降臨してくださったことを祝う主日です。「降臨」といいましても、天地創造の時から聖霊は神の思いを実現するために絶えず地上に降臨し、地上世界の中を吹きわたり、働き続けてこられました。

今日の「降臨」とは私たち一人ひとりの中に聖霊が降って来てくださった「降臨」なのです。それによって聖霊が、私たちの霊のそばにいつも共にいてくださるようになったのです。それはまた最後の晩さんにおけるイエスの弟子たちへの次の約束が実現することでした。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる(ヨハネ14:16)」

そして本日はまた、教会が誕生した日でもあります。

イエスが昇天してから10日が過ぎた五旬祭の日、弟子たちやマリア様や女性らに聖霊がくだりました。それは彼彼女らがキリストの洗礼を受けたことでもあり、それによって新約の神の民の集いである「教会」が誕生しました。「建物」ではありません。キリストによって新たにされた「神の民の集い(ギリシア語でエクレシア)」です。

大切なことは上記のように「一同が一つになって集まっていると」と前置きされていることです。聖霊が降るためには、その共同体が「一つになっている」必要があるということをルカは強調したかったのだと思います。逆に言えば、メンバーがそれぞれ自己中心的になって、他者を思い合うことのないような共同体では、聖霊は降りにくい、降っても働きにくいということです。

聖書の中で聖霊は2節にあるように「風」というシンボルでよく表現されています。「風」がいくら吹いても一人ひとりが心を閉ざし、他者に、また外に向かって開かれていない「閉ざされた共同体」では、窓や扉が開いていない家のようなもので、風がいくらその周囲を吹きめぐっていても家の中に入ることはできないのです。

私たちの教会も「開かれた教会」になっていなければ、降臨した聖霊という「風」は閉じ込められ、よどんでしまって、自由に吹きわたることはできません。聖霊の働きが活性化しないで沈滞してしまうのです。

聖霊降臨の日の使徒たちとマリア様を中心とした人びとは祈りのうちに「ひとつ」になっていました。それを喜ぶかのように「風」は激しく吹きわたりました。「家中に響いた(2節)」というのは、聖霊が教会の誕生を祝って舞い踊っていたからかも知れません。

そして聖霊は彼彼女らを「宣教」へと突き動かして行きます。

その時、弟子たちは「ほかの国々の言葉(4節)」で語り出します。

教会の伝統では聖霊降臨の奇跡として「言葉がひとつになった」とされてきました。旧約の創世記のバベルの塔の物語(11:1-9)において散らされた人類の言葉が再び「ひとつ」になったのだと。けれども誤解してはいけません。言葉がひとつに「統一」されたわけではないのです。「めいめいが生まれた故郷の言葉(8節)」を人びとは聞いたのです。神の言葉がそれぞれの国の言葉によって語られたということです。

「言葉」はその国の文化を体現するものです。神はけっしてそれぞれの国の文化を単一化しようとはされないのです。神は「単一性」ではなく「多様性」を喜ばれるからです。ですからある国やある民族が自分たちの文化を絶対化して他の文化を否定すること、また自己の文化を強制することをお許しになりません。それが「バベルの塔」の物語のメッセージだったのです。

この最初の宣教は、神の言葉をそれぞれの国の言葉で、「文化」で語りなさいということを教会に教えているのです。いわゆる「インカルチュレーション(文化的受肉)」です。いろんな国があっていい、いろんな文化があっていい、それでも第二朗読「コリントの教会への手紙」でパウロが語るように「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです(13節)。」

キリストにおける一致は「多様性の一致」であり、皆が同じものになることではなく、それぞれがありのままの自分で、互いに違いを認め合って、キリストにおいてひとつになることなのです。

 

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」

――――福音朗読:ヨハネ20章23節

本日の福音は「ヨハネによる福音」における「聖霊降臨」の箇所です。この箇所は復活節第2主日の福音にも用いられていて、その説教の要約も皆さんにお渡ししましたので、そちらを参考にしてください。ヨハネにおいては聖霊降臨は宣教への派遣と強く結びつけられています。これはルカでもそうでしたが、聖霊は何よりも「宣教」へと私たちを促し、そのための力を与えてくれるのです。

そしてヨハネではイエスは弟子たちを宣教に派遣するに当たって「だれの罪でも赦しなさい」という命令を与えます。宣教は「ゆるし」から始まるのです。

言い換えれば、宣教者はことばを語り、わざを行う以前に、「ゆるす人」でなければならないということです。

 

2023年5月21日「主の昇天(A年)」のミサ 説教の要約

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

*この日のミサは「子どもとともにささげるミサ」として行われましたので、説教も子ども向きにいたしました。

 

みなさん、今日は「主の昇天」のお祝い日です。

「主」はイエスさまです。「昇天」の「昇」は「のぼる」です。ですから、「イエスさまが天にのぼられた」ことをお祝いする日です。

「天」といっても「お空」のことではありません。聖書では、神さまがおられる場所を「天」といいます。

わたしたちの神さまは「父と子と聖霊の神」さまです。わたしたちが祈る時や、ミサの最初に「父と子と聖霊のみなによって」といいますね。「みな」は「御名」で「名まえ」のことです。ですからわたしたちはお祈りやミサをはじめる時に、神さまに呼びかけて言います。

「これからわたしたちは『父と子と聖霊の神』というお名まえの神さまに向かって祈ります」

それは「父である神さま」「子である神さま」「聖霊である神さま」というように三つの神さまなのですが、おたがいに深く、深く愛し合っているために、ひとつの神さまになっておられるのです。

その中の神さまのひとりである「子である神さま」がわたしたちの世界に来てくださって「イエス」という人間になってくださいました。

イエスさまはわたしたちに神さまがどういう方であるかを教えてくださいました。それは口で語ることだけではありません。弟子たちや出会う人びとを本当にたいせつにし、愛して、ゆるすという、生き方そのものによって、神さまがわたしたちを愛してくださっていることを教えてくださいました。

最後は十字架で亡くなることによって、ご自分のすべてをわたしたちにささげてくださいました。

そして復活されて、やがて「天」にのぼって行かれました。それは「のぼった」というよりも、もといた「神の子」の所に戻られたことだったのです。

でも、そこには大きなちがいができました。

「神の子」が人間イエスさまになるまでは、そこには「神である神の子」だけがいました。ですから「父と子と聖霊の神」のおられる場所は「神さま」だけの世界で、「人間」が入って行ける所はありませんでした。

それが神の子が「神の子の場所」に戻る時に「人間イエス」を身につけたままで戻ってくださったのです。

「父と子と聖霊の神」の「子である神」の所に「人間」が入ったのです。それによって「人間」が「父と子と聖霊の神」の場所に入るための「道」が開けたのです。

わたしたちはやがて、その「人間」である神の子、イエスさまを通って「父と子と聖霊の神」さまの所に入って行けるのです。すばらしい愛の世界に入って行けるのです。

もうひとつ、「天」に帰ってしまったイエスさまは、わたしたちの住む世界とは別のちがう世界に行ってしまわれたのでしょうか。

いいえ、今でもわたしたちの世界にいてくださいます。

「お空」はどこから、はじまるのでしょう?

頭の上からですか?屋根の上からですか?飛行機のとぶ所ですか?

いいえ、実は「お空」は高いところから、わたしたちのいる地上まで、すべて包みこんでいるのです。

神さまのいる「天」もわたしたちを包みこんでくださっていて、いつも一緒にいてくださるのです。ただ、見えないだけです。

イエスさまは「神の子」の場所からいつもわたしたちを見まもり、いつも呼びかけてくださっています。

「わたしのいる所においで。父と子と聖霊のすばらしい愛の世界においで」