カトリック垂水教会担当司祭:林 和則
先々週(16日)、先週(23日)、そして本日と三週にわたって主日の福音では「マタイによる福音第13章」が取り上げられてきました。これまでの説教の要約で説明してきましたように13章には「種まきのたとえ(3―23節)」から始まって「天の国のたとえ話」が七つ、集められています。
本日は残り三つのたとえ話とまとめとしての「天の国のことを学んだ学者たち(52節)」のたとえ話が語られています。
まず五つ目、六つ目の「宝のたとえ(44節)」と「良い真珠のたとえ(45―46節)」は同じ内容です。「天の国」を「宝」や「真珠」という宝玉にたとえて、それを見つけた人は「持ち物をすっかり売り払って」それを「買う」のです。
「天の国=神の国」は私たちの全てを差し出してでも手に入れるべきもの、それだけの価値のある真の「宝」であることがメッセージとして込められていると思います。
第一朗読「列王記」の「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく(11節)」がこのメッセージに対応しています。この世的な価値、成功やそれに伴う財産や地位ではなく、ただ「神の国」を求めることこそがまことの「知恵(11節)」なのです。私たちがこの世的な価値や快楽に惑わされずに「神の国」を求めることが「聞き分ける心(9節)」であるとも思います。逆にこの世的なものを追い求める生き方は、私たちを「神の国」から遠ざけてしまいます。この世的なものは「すっかり売り払って」しまいましょう。
*ちなみに「敵の命を求める」は本来「戦争における勝利」を指しているでしょうが「競争社会における勝利」として、みことばを味わえばいいと思います。
そして「天の国=神の国」は「畑(この世界)」に「隠されている(44節)」もので、私たちはそれを「探し(45節)」求め続ける必要があるのです。
七つ目のたとえ話は前半(47―48節)と後半(49―50節)に分けることができます。後半は、先々週の「種まきのたとえの説明(18―23)」、先週の「毒麦のたとえの説明(36―43節)」と同じようにイエスご自身の言葉ではなく、初代教会の解釈です。なぜなら内容は「毒麦のたとえの説明」の焼き直し、同じものであるといえるからです。
「世の終わりにもそうなる(40節⇔49節)」「天使たち(41節⇔49節)」
「燃え盛る炉の中に投げ込ませる(42節⇔50節)」
「そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう(42節⇔50節)」
ですから本来のイエスのたとえ話は前半の47―48節であったと考えられます。
そこに語られている情景は、当時のガリラヤ湖のほとりで見られた漁師たちの日々の営みの姿です。イエスがこのような民衆の日常的な生活をたとえに用いているのは、民衆に信仰を具体的に実感してもらうためという思いがあったと思います。また、このような民衆のささやかな日々の営みへのイエスの慈しみの眼ざしを感じて、あたたかい気持ちになります。
このたとえ話のポイントは以下の箇所だと思います。
「網が湖に投げおろされ、いろいろな魚を集める(47節)」
「網」が天の国で「いろいろな魚」が私たち人間であると考えられます。
「いろいろ」というのは「毒麦のたとえ」でいえば「良い麦」と「毒麦」が両方とも育っている状態であるといえます。メッセージも「毒麦のたとえ」と同じであると思います。「網」は「良い」「悪い」関係なく、全ての「魚」に開かれているのです。
「天の国=神の国」は人を選ばないのです。無条件に、全ての人に開かれているのです。こんなどうしようもない私でも、招いてくださっているのです。
だから「神の国」を生きるということは、私たちも全ての人に自分を開き、裁かず、切り捨てない姿勢で生きるように努力することであると思います。
最後にまとめとして、このようにイエスから「天の国のたとえ」を聞き、「わかりました」と答えた弟子たちが「天の国のことを学んだ学者(52節)」としてたとえられます。
「学者」は「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す(52節)」ようになります。「取り出す」は「より分ける」と考えてもいいでしょう。
「古いもの」と「新しいもの」、これらをより分ける基準が「キリスト」です。生ける神の子キリストがこの世に来たことによって、全てが新しくされたからです。
「古い契約」は「新しい契約」へ、「律法」は「福音」へ、復活を通して「死」から「命」へと、全ては新たに「過越」されたのです。
私たちもキリストの洗礼によって「過越」を受け、新たにされたのです。
この世的な価値観によって、富や地上的成功を求めて生きていた自分に死んで、神の子として新たにしていただきました。
けれどもまだ「完全」ではありません。絶えず「古いもの」に縛られてしまいます。そうならないように、いつも神に「聞き分ける心」を求めましょう。