「垂水教会一般」カテゴリーアーカイブ

主に垂水教会内での情報

2024年11月17日 年間第33主日(B年)のミサ 説教の要約

終わりの日

33rd Sunday Year B

私たちはどのような結末・終わりを見たいですか? 私たちは皆、ハッピーエンドを望んでいます。 映画や物語の終わりに、「そして、彼らはその後ずっと幸せに暮らしています。」と言う言葉を読みたいのです。しかし、それは子ども向けです。現実の生活では必ずしもそのように起こるとは限りません。時には予期せぬ形で結末が訪れることもあります。良い結末・ハッピーエンドとはどのようなものでしょうか?

日本の映画「パーフェクト・デイズ」は、満足のいく深遠な結末を与えてくれます。 主人公の平山は、東京・渋谷区のトイレ清掃員です。最後のシーンは、良いハッピーエンドがどのようなものかを私たちに教えてくれます。それは、平山が初めて出会った男性にお酒を差し出し、楽しそうに話しているシーンでした。 翌朝、平山は早起きして仕事の支度をし、コーヒーを飲み、小さなバンを運転して仕事に向かう車の中で、お気に入りの音楽「Good Feeling」を聴きます。その顔は力強い感情が表れていました。彼が市のトイレを掃除しに行くと、太陽が明るく輝いています。そして、照明が消えます。

その映画は、主人公が仕事を始めるところでおわるが、今日の聖書朗読では結末について語られています。聖書朗読のテーマは、私たちが典礼歴の終わりに近づいているという理由で、非常に適切です。 福音は終わりの日について始まります。 暴力と悲劇があるため、良いニュースとは思えません。 福音書によると、終わりの日は太陽が暗くなり、月は光を与えません。星は空から落ち、天体は揺り動かされます。人の子は、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られます。その後、彼は天使たちを遣わし、彼の選ばれた人たちを呼び集めます。その言葉を聞くと、本当に恐ろしいことです。

福音書が伝える終りの日は、「パーフェクト・デイ」に見えないかもしれません。そこには暗闇、暴力、分裂、そして死があるからです。 一方、映画「パーフェクト・デイズ」では、平山は自分がしていることを楽しんでいます。彼は楽しく趣味をすることができます。福音書の中でイエスは、この世のすべては一時的なものだと教えています。言い換えれば、終わりは現実です。私は葬儀の時にいつもこの言葉を使います。「おそらく、人生で最も受け入れがたい現実は、私たちにとって貴重なものすべてが何らかの形で、最終的には奪われるという不変の事実です。」 私たちはこれを好まないかもしれませんが、それを変えるために私たちにできることは何もありません。 私たちはただ、終わりがあり、それは必ず来るという真実を受け入れるしかありません。準備はできていますか? そのために、私たちは何をしていますか? 少なくとも自分自身にとって答える必要があります。 今こそ、この世での生活を振り返り、沈黙のうちに考える時です。

福音書の中でイエスは言われました 、「気を付けて、目を覚ましていなさい。」と。 彼は、目を覚ますこと、信仰を強く保つことの重要性を強調しています。それは神だけが終わりの正確な時間を知っておられるからです。 注意深さ、警戒心とは、私たちがどのように生活し、自分の行動に気づいているかを意味します。 すべてが終わることを知っている人の行動は、善を行い、優しさを示し、他人、特に弱者、老人を親切にします。 その人は確かに他人を傷つけることを避けます。 そうすれば、その人の行動は終わりの日への良い準備をすることになります。 そして、終わりの時が来ると、その 人は 行く準備ができていることがわかります。

兄弟姉妹の皆さん、今日、私たちはこの感謝の祭儀で、七、五、三を祝います。子どもたちの健康や成長のために祈ります。子どもたちは私たちの後ろ姿を見ています。そして、私たちから何を見ても、それが正しいか間違っているかを問うことはないということを心に留めましょう。 彼らは単に私たち大人の姿を見て倣い、従っているだけです。 ですから、彼らに手本を示しましょう。

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2024年11月10日 年間第32主日(B年)のミサ 説教の要約

寛大さのための祈り

32nd Sunday B

「与えるものが何もないほど貧しい人はいない。」

ある時、マニラのスラム街で家庭訪問をしていたとき、突然、「神父様、入ってください」という声が聞こえました。周りを見回すと、その声は貧しい家庭の家から聞こえてきたことに気がつきました。 貧しくて小さな男の子が「神父様、昼食を一緒にしませんか」と言いました。家に入ると、家族全員がすでに食卓の周りに座って昼食をとっているところでした。 それに対して、私はこう答えました。「本当にありがとう。でも、家族が待っていて、昼食を用意してくれているんだ。」 しかし、この貧しい家族がともに食事をするように主張したので、 その家族と一緒に食事をすることにしました。 彼らは私に2匹の小さな魚と一杯のご飯を提供しました。 お母さんは「神父様、魚を召し上がってください」と言いました。「子どもたちが魚を食べずにスープだけを食べているのに、どうして私が魚を食べることができるだろう。そして、もし、私がこの魚を食べるとしたら、残り物は何もないだろう。多分、彼らの食べ物はこれだけかも」と自問しました。私が魚を食べているのを見ると彼らが喜ぶだろうと思ったので、しぶしぶ魚を取って食べました。 この経験から、貧しい人は寛大な心を持っていると思いました。 それは私たちがよく忘れてしまう真実だと思います。

今日の聖書朗読のメッセージは明確です。それは 貧しい人は寛大な心を持つことです。社会の疎外された一部の人々は、選ばれた人々の歴史において重要な役割を果たしました。 そして、彼らの行いのいくつかは聖書に書かれています。 運がよく、今日はそのうちの二つを聞く機会があります。

今日の第一朗読は、旧約聖書の中で私の気に入っている物語の一つです。 それはザレファテのやもめのことについて語っています。 彼女は貧しく、親切で謙虚な女性でした 。そして、エリヤという神の預言者を家に迎え入れました。 わずかに残されたものの中から、彼女は彼にパンと水をささげました。 そのため、自分と息子には何も残らなかったでしょう。 しかし、彼女の寛大さのおかげで、神は奇跡を行われ、彼女と息子は飢饉を生き延びました。

戦争あるいは、阪神淡路大震災を経験した皆さんは、預言者の気持ちや、貧しいやもめが預言者のためにパンを作ることに躊躇した気持ちが簡単に理解できます。 貧しさから、彼女は息子と自分のために残されたものを神に信頼し、寛大に分け与えました。 彼女は、神が彼らのために道を開いてくださる可能性に対してオープンでした。

福音書を見てみましょう。兄弟姉妹の皆さん、イエスがあなたのお金を見ていることを知っていますか。 彼はあなたがお金をどのように使うかをご存知ですよ。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」と福音書には書かれています。 イエスは言われました。「 はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。この人は、乏しい中から、自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れたからである。」 イエスにとって、貧しいやもめほど、寛大な人はいません。 これが寛大になる方法です。

今日の聖書朗読は私たちに寛大であるように呼びかけています。 けちで利己的であることは言い訳できません。なぜなら、二人の貧しいやもめでさえ寛大になることができたからです。 「与えるものが何もないほど貧しい人はいない。」という聖パウロの言葉を思い出しましょう。 神は私たちの寛大さをご覧です。 神はよく私たちの動機・モチベーションという、私たちが何かをする理由を知っておられます。

兄弟姉妹の皆さん、寛大さはすべての人にとって美徳です。 誰もが寛大になることができます。 寛大さは心の行いです。 それは愛の表現です。 それは、他の人々、特に貧しい人々や困っている人々のために、私たちにとって大切なものを手放したいという願望から湧き出ています。 誰もが寛大であれば、誰も食べ物で困る人はいません。 人々が買いだめをすると、多くの人が飢えで死にます。

私が寛大な人を説明するとしたら、彼らは次のようになります。 寛大な人は満足した生活を送っています。 何よりもまず感謝しています。自分が持っているものは何であれ、財産、才能、富、お金は神から受け取った贈り物であることを認識しています。 そして、神や人々に「ありがとう」と言います。 感謝の気持ちで、彼らは自分の持っているものの奴隷にはなりません。 それらを使用して、他の人の生活を向上させます。 第二に、寛大な人は奉仕をします。 生涯、奉仕をすることは、彼らが受け取った贈り物に対して感謝の気持ちを伝える方法です。 彼らは奉仕をすることに喜びを見出します。 一言で言えば、寛大な人は感謝し、良い仕事をし、喜びに満ちています。 私たちは皆、そのように生活がしたいと思います。そう思いませんか?

あなたの寛大さをどのように示しますか?

今日、この祈りを唱えましょう。 主よ、私に寛大であることを教えてください。あなたに値するようにあなたに仕えることを教えてください。見返りを求めずに与えることを教えてください。アーメン。

2024年10月20日 年間第31主日(B年)のミサ 説教の要約

神を愛する

31st Sunday B

愛についての教えはたくさんあります。 社会にはすでに愛についての出版されている本が数えきれないです。 ラブソングも、映画も、ドラマも、詩も、物語も、絵も、漫画もたくさんあります。きっと、これからも愛についての教えがもっと出てくることでしょう。 もし愛を定義するとしたら、あなたの経験に基づいて、あなたは何と言いますか?

今日の聖書朗読は、愛について何を教えてくれるのでしょうか? 聖書朗読は、愛を理解するための指針となります。 モーセは選ばれた民に、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛し、これらの言葉を心に留めるようにと教えました。 簡単に言えば、主を愛するということは、私たちの生活の中で主を第一に置くということです。

一方、福音書では、イエスは一人の律法学者の質問に応えて、シェマを唱えました。 “第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである。隣人を自分のように愛しなさい。この二つに勝る掟はほかにない。” ここでイエスは、思いで神を愛することを付け加えました。 私たちの心、私たちの思い、私たちの精神、そして力で愛することは、私たちがすべて神を愛することです。 神にすべてをささげることです。その後、すぐ、イエスに隣人愛について話されました。なぜなら、彼らにとって、隣人を愛することも同様に重要ですから。

ギリシャ人にとって、愛はアガペーです。 アガペーという言葉は、感情ではなく、行動することを意味します。 アガペーは行動を要求しています。 アガペーは具体的な表現をすることを求めます。 神を恐れる夫は、妻と子供たちに忠実です。 彼は決して妻をだましません。 道徳的な信者は、仲間に対して恨みや怒りを抱きません。許してあげます。

相手の理解、相手の立場から出来事を見ることに力を入れます。

神を愛し、隣人を愛することは、彼らに対して道徳的な感情を持つだけではありません。 真実の愛は感情を超えています。 周りの人々を愛することは、神を愛することの表現にすぎません。 隣人を憎んでいる人は、主を愛しているとは言えません。この人と一緒にいるのは耐えられません。 それは偽の神への愛にすぎません。

先月末、教皇フランシスコは「彼は私たちを愛しておられた」というタイトルの新しい回勅を私たちに与えてくださいました。 ラテン語では、Dilexit Nosと呼ばれます。 それはイエスの愛についてです。 ここで教皇は、愛の模範としてイエスの聖心というイメージを私たちに与えました。 おそらく、来年の養成に向けて、この回勅について一連の議論をすることができるでしょう。 教皇フランシスコは、神の愛に出会うことで、他の人々を兄弟姉妹として見る目が開かれ、母なる地球のために働くようになると強調しました。 簡単に言えば、彼は私たちに神を愛することには社会的な側面があると教えています。

兄弟姉妹の皆さん、シノドス的な教会についてのローマでの集会が無事に終わりました. 代表団はすでに自分の国に帰国しました。 シノダリティは、小教区として私たちに何を要求しているのでしょうか? 私たちはどのようにシノダリティを生きますか?

教会のリーダーたちは、私たちの時代に応じて神と隣人を愛する方法を人々や子供たちに教えるために、時間と資源を使うことになっています。 コミュニティとして、私たちは座ってオープンハートでお互いに耳を傾けあいます。誰も厳しく判断しません。 自分を分断するものをわきに置きます。 心に怒りや憎しみがある場合、それらを癒しと赦しのためにイエスに持って行きます。 そして最後に、私たちのコミュニティは包括的です。インクルーシブです。 すべての人を歓迎します。 他の人を収容するためにテントを拡大します。

もし私たちが心と思いと行いで隣人を愛するなら、イエスは「あなたは神の国から遠くない」と言われるでしょう。 神は私たちの内にとどまっています。 間違いなく、私たちはそのイエスのみ言葉を聞きたいでしょう。

祈りましょう;主よ、私をあなたの愛で満たしてください。私をあなたの親切さで満たしてください。そして、私をあなたの愛の担い手にしてください。アーメン。

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11月のミサの予定

〈11月のミサの予定 日曜10時〜〉

11月  1日(金) 諸聖人

11月  2日(土) 死者の日 追悼ミサ

11月  3日(日) 年間第31主日

11月10日(日) 年間第32主日

11月17日(日) 年間第33主日 七五三祝福式 (子どもとともに捧げるミサ)

11月24日(日) 王であるキリスト(中川神父)

 

・17日の七五三の祝福は、赤ちゃんから高校生までが対象です。

追悼ミサ、合同追悼祭、合同納骨式のご案内

<追悼ミサ>

11月2日(土)  10時〜

場所:カトリック垂水教会聖堂

 

<合同追悼祭、合同納骨式>

11月3日(日) 14時〜

場所:カトリック舞子共同納骨所(舞子墓園カトリック納骨所)

* お墓の花立はなくなりましたので、お供えのお花は、お持ち帰りくたさい。

* 納骨申込及び生前予約をご希望の方は、垂水教会事務所にご連絡ください。

2024年10月20日年間第29主日(B年)のミサ 説教の要約

「仕える人になる」

選挙戦はすでに始まっています。来週の日曜日、皆さんは日本を明るい、より良い未来へと導くにふさわしいと考える候補者を選ぶため、投票に行きます。候補者は自分の主張を大いに喧伝します。彼らは名誉と地位が欲しいし、力あるものとの親しい交流を望んでいます。そのため、彼らはあらゆる約束をします。ある候補者は、日本をかつての繁栄の時代に戻すといい、ある候補者は今の時代により良い改革の実践を明言し、ある候補者は所得の増加と暮らしの安定を差し出します。でも、彼らの主張は単なる言葉に過ぎません。この選挙で入選した人々が、真のリーダーとは国民に奉仕する者であることを理解し、自分たちのために名誉や栄光を望むことではないことを分かって欲しいと願います。

福音書では、 二人の兄弟、ヤコブとヨハネはイエスに願いを言いました。 その願いは、イエスが栄光を受ける時、自分たちがイエスと並んで右と左に座ることです。 彼らはイエスに高い地位、つまり、力を求めました。 実は、彼らは自分たちが何を求めているのか、分かっていませんでした。 そして、イエスはその意味を説明してくださいました。 (杯を飲むこと、洗礼を受けること、苦しみに浸ること) と言うエルサレムで行われる出来事を、イエスはほのめかしました。 それに対して、ヤコブとヨハネはイエスに、「はい」と答えました。 イエスは彼らに、ご自分の苦しみを受ける事が出来るのを約束されました。 イエスは彼らに、偉大さは他の人に仕えることによってもたらされることを教え、彼らにご自分の模範を示しました。 人の子は仕えるために、また、自分の命を与えるために来た、とイエスは説明しました。

簡単に言いますと、今日の福音は、天国で最も偉大な者は仕える者だということについて語っています。 私たちは、キリストの弟子として、名誉ある席に座ることではなく、僕になることに注意を向けるべきです。

兄弟姉妹の皆、一般的に言えば、私たちの多くは、特に困っている人、弱い人、援助を必要としている人を助け、奉仕したいと考えています。 そして、私たちは、受け取るよりも与える方が幸いであり、そのほうがはるかに簡単であることを十分に知っています。しかし、多くの場合、それは私たちの都合に合わせています。 いつ、どのように行うかは、私たちが決めます。 もしそうなら、それは私たちのクリスチャンの奉仕の理解の意味に反します。

私たちの教会と教区共同体を見ると、奉仕の機会がたくさんあることに気づくでしょう。 満たすべき多くのニーズがあります。 毎週土曜日に教会を掃除し、美化してくださる方々に感謝しています。しかし、彼らはまだ助けの手が必要です。 また、ミサの後に飲み物を配り、集いの場を作ってくれる教区民にも感謝します。 彼らは、この小さなジェスチャーを通じて、私たちのコミュニティが生き生きとし、数が増えることを望んでいます。 私たちの教会は、まだ聖歌隊を組織している最中です。 私たちの教会は、若者にも大人にもカテキズムを教えることができる人々も必要としています。 他の国の兄弟姉妹には、どのように関わることができるでしょうか。 彼らに教会の戸を開きましょう。 まず、私たちは彼らを見て、その存在を認識する必要があります。

兄弟姉妹の皆、私たちの教会はあなたを必要としています。 私は、教会の中での自分の適切な位置を特定し、他の教区民と調和するように、一人一人を招いています。 他の人に仕え、助けることこそが、キリスト者、キリストに従う者としての充実感を見出すのです。

今日、教会が呼びかけている「世界宣教の日曜日」についてお話しさせてください。 私たちは、自分の国を離れて日本のような外国に行った宣教師たちを思い出して、彼らのために祈りましょう。 これはまた、宣教の意味と、あなた方がまだ自分たちの国にいるという事実にもかかわらず、どのように宣教師になることができるかを真剣に考える機会でもあります。 宣教は、孤独で、弱く、病気で、老いるという理由で苦しんでいる人々を含む、周辺に住んでいる人々に手を差し伸べています。 宣教とは、ただ良い知らせを説教したり、宣べ伝えたりすることだけではありません。 それはまた、他の人の話を聴いて、判断せずに、黙って、耳と心を持ち、思いやりのあるイエスを証しすることでもあります。

私たちが自分たちのいる場所で、人々への宣教師になりますように。

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2024年10月13日年間第28主日(B年)のミサ 説教の要約

永遠の命を受け継ぐのでしょうか? 
28th Sunday Year B

同じ会の神父が、こんな話をしてくれました。 ある時、彼は年配の愛徳姉妹会のシスターと話しをしました。 彼はそのシスターに、日本語を学ぶのが難しいと言うことを話しました。 すると、シスターは答えました、 「神父様、日本語がわからなくても大丈夫ですよ。天国に行けば大丈夫です」 彼は冗談めかしてシスターにききました。「 では、どうすれば、永遠の命をうけつげるのでしょう?” 死ななきゃダメですか?」

今日の福音の中に、こういう話があります。ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?」

その質問はとても良い質問です。 私たちは皆、永遠の命を受け継ぐために、何をしなければならないのかを、心から理解しようと努力するべきです。 私たちの年配の兄弟姉妹は、すでに永遠の命を得ることを考えていると思いますが、そうでない場合は、今から始めないとだめですよ。 その若者は、オープンで、誠実にその質問をしたのだと思います。 その若者は良いものを持っていました。 イエスが彼に掟について尋ねられたとき、彼は答えていました、 「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」 彼は掟を力いっぱい果たしてきました。 彼はひかえめに言ってもとても良い人でした。

もしかしたら、その若者は、やるべきことはそれだけでいいと言われることを期待していたのかもしれません。 私たちはみんな、おそらく同じ間違いに陥っているでしょう。 私たちは、努力すれば永遠の命を得ることができると考えています。ですから、 私たちは真面目に責任を負っています。 掟を力いっぱい守っています。私たちは完璧であろうと努力しています。そして、罪の告白する前、それとも、夜寝る前に心を見つめるとき、私たちは自分ができなかったことや、自分に欠けているのは何かに焦点を当てます。 私たちは胸を打ち、自分が嘘をついたことを認め、ミサに与ることが出来なくて、学校でカンニングをし、妻と喧嘩し、怒りのあまり、子供たちに向かって怒鳴りました。 そして、許しの秘跡を受けるとき、私たちは、人々が私たちの罪によって、どのように影響を受けるかではなく、自分の失敗や犯した罪について司祭に告解します。

しかし、その若者は間違いを犯しました。 彼はイエスから何を聞くことになるか予想していませんでした。 イエスは彼を見つめ、彼を愛し、言われました、 「あなたに欠けているものが一つある。行って、持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい、そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。」と。イエスは、その若者をじっと見つめられました。 彼に憐れみを示し、彼とより深い関係に築き、招待しました。 “私の元に来て、私に従いなさい。” とイエスは言われました。私に従いなさいと言う呼びかけは、信頼と自信に基づく関係です。 彼は従順で善良だったから召されたのではなく、むしろイエスが彼を愛したから召されました。

イエスは語りながら、永遠の命は純粋に掟に従うという行動によって得られるという若者の誤解を解いていたのです。真実は、永遠の命は神からの贈り物であり、人々は感謝と驚きを持って、受け取ることができるということです。 神は無条件の愛をもって、私たちに来てくださっています。 神は私たちとの交わりと親密さを望んでおられます。 永遠のいのちとは、神と共にいることです。 それは神の存在であり、それは私たちが決して得ることも返すこともできない贈り物です。 すべての贈り物のように、受け取らなければなりません。 そうなると、それは自分の仕事となり、私たちのすべての能力が要求されます。 その理由は、神は私たちの協力と参加を必要としており、私たちを通して、神は他の人々に手を差し伸べることができるからです。

兄弟姉妹の皆、私たちは、永遠の命はただ私たちの努力、つまり、掟に従うことだけ、または私たちの達成によって得られると考える誘惑を避けなければなりません。 これは私たちの多くが抱く誘惑です。永遠の命は今でも神の働きであり、神の私たちへの贈り物です。 しかし、神は私たちがそれを得るために何かをすることを望んでおられます。
世話をした人々が、道で亡くなる人々の、ほんの一部にすぎないカルカッタでのマザー・テレサの使命に対する、圧倒的な事実にどのように立ち向かうことができるか尋ねられたとき、マザー・テレサは答えました。 「善良な主は、自分の思いを遂げるために、私をカルカッタの街に送りだしてのではなく、私がこれらの人々に示す愛の中で、人間の苦しみの真っ只中に存在する主の愛を、私が忠実にこれらの人々に証しするためにでした。」

 

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10月のミサの予定

〈10月のミサの予定 日曜10時〜〉

10月   6日(日) 年間27主日(子どもとともに捧げるミサ)

10月13日(日) 年間28主日

10月20日(日) 年間29主日

10月27日(日) 年間30主日 (中川神父様)

 

10月はロザリオの月です。

10,月の主日は9時40分からロザリオを1連、マリア様にお捧げしますので、ロザリオをご持参ください。

9月のミサの予定

〈9月のミサの予定 日曜10時〜〉

9月   1日(日) 年間22主日(アルマンド神父様)

9月   8日(日) 年間23主日

9月15日(日) 年間24主日(子どもとともに捧げるミサ・敬老祝福式)
※ミサ後園遊会

9月22日(日) 年間25主日 (中川神父様)
※ミサ後園遊会

9月29日(日) 年間26主日(高橋神父様)