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主に垂水教会内での情報

2020年5月10日 復活節第5主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年5月10日 復活節第5主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】使徒たちの宣教(使徒言行録6:1-7)

 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。
 こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

【第二朗読】使徒ペトロの手紙(一ペトロ2:4-9)

 〔愛する皆さん、〕主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。
 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」
従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、
 「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
のであり、また
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

【福音書】ヨハネによる福音(ヨハネ14:1-12)

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

【福音のメッセージ】

「あなたがたをわたしのもとに迎える」

担当司祭:林 和則

 本日の福音は葬儀ミサの福音朗読によく用いられている箇所です。カトリック中央協議会から出されている葬儀の儀式書では、この他にもいくつかの福音がふさわしい朗読箇所としてあげられていますが、私自身は必ず今日の福音を用います。信徒の方がたのみならず、葬儀のために参列された一般の方がたのためにも、今日の箇所はキリスト教が「死」をどのように考えているのかを説明しやすいからです。それで今回は聖書本文の解釈よりも、私たちキリスト者は「死」をどのように考えればよいのかを主体にして、皆さんと今日の福音を分かち合いたいと思います。

 キリスト教の信仰の文脈の中で「死」を考える時、ひとつの大切なポイントは「私たちは死ねばすぐに『天国』に行くことができる」という確信です。字数にも限りがありますので、今回はこの点にしぼって分かち合いたいと思います。

 けれどもこのように断言されると、多くの方がたは何か釈然としない、疑うというよりも、モノを食べる時に何かが喉につかえる、そんな感じがするのではないでしょうか。実は私自身がそうでした。私は二十歳の時に受洗し、それまではキリスト教的な文脈のない生活空間の中で育ちました。そのような私にとって「天国」また「極楽」はそう簡単には行けない世界であるような、「知識」というよりも「感覚」を身につけていました。
 その感覚の根っこにあるものは私たち人間の罪深さです。仏教で「業」と呼ばれているものでしょうか。その「罪深さ」をもっとも深く自覚しているのは自分自身です。人には見せられない、自分の中に渦巻くドロドロとした、憎悪や妬みなどの負の情念にどっぷり浸かっている自分がいるからです。そんな自分が死後に、すぐに、そんなに簡単に「天国」に行くことができるのか?これは誰もが抱く思いでしょう。
 
 実はそれは、私たちが「自分の力」で「天国」に行くということを前提としているから生じる「迷い」なのです。私たちは誰も「自分の力」で「天国」に行くことはできません。誰もどんなに努力しても「天国」に入るのにふさわしい「資格」を得ることはできません。
なぜなら私たちは皆、「不完全」であるからです。それは何かの「能力」「実績」という意味での「不完全」ではありません。キリスト教においては「愛すること」における「不完全」です。私たちにとって、父なる神が与えてくださった完全な愛のしるしこそがキリストの十字架です。十字架においてイエスは完全に自分を捧げ尽くされました。完全な愛とは自分をまったく無にして、相手に自分を捧げることであると思います。自分ではない、相手を中心に据えて生きることです。
 けれども私たちは人を愛する場合、どうしても「自分のために」というところがあって、その愛に「欠け」が生じてしまうのです。それは相手に「求める」というかたちであらわれます。それが満たされないがゆえに人間関係のトラブルが生じてしまうとも言えるでしょう。そのためにどんなに仲のよい間柄であっても、時に傷つけ合ってしまうのです。
 そんな私たちは完全な愛に向かって「努力」することはできても「完成」に達することはできないのです。「天国」に入れるような「資格」を自分の力では、けっして得ることができないのです。

 では、私たちが「天国」にすぐに行けるという確信はどこから来るのでしょうか?それがまさに今日の福音のイエスのことば、私たちへの約束に基づいているのです。
 「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える(3節)」
 「場所」これが「天国」です。私たちは自分の力で、自分の足で、「天国」に行くのではありません。私たちが死ねば、すぐにイエスが迎えに来てくださって、私たちの魂を御手に抱いてくださって「天国」へと連れて行ってくださる、これこそが私たちの確信なのです。それは、私たちに「資格」があるからではありません。なぜかはわかりません。神秘と言ってよいのですが、父なる神が、子であるキリスト・イエスが私たちを愛してくださっている、ただそれだけなのです。

 その愛は「かわいそうだから、救ってやろうか」といった「上から目線」のようなものではありません。ただただ、私たちが愛おしい、だから私たちと共にいたい、からなのです。子どもをお持ちの方であれば、もしその子が家を離れて、ひとりぼっちでどこかをさまよっているとしたら、放っておくことができるでしょうか?思わず走って行って、わが子を抱きしめ、家に連れ帰ることでしょう。
(ぜひ、ルカによる福音書の15章11―32節の「放蕩息子のたとえ」をお読みください)
 「こうして、わたしのいるところに、あなたがたもいることになる(3節)」
 ここには神がわたしたちと共にいたいという切実なまでの「願い」がこめられているのです。
 私たちはつい何かを得るために「資格」のようなものが必要だと考えてしまいます。合理的に「計算」してしまうのです。これだけのお金もしくは能力がなければ、これを得ることができないというように。けれども神の愛はそのような合理性、足し算、引き算の世界ではないのです。神は私たちを愛するにあたって、私たちに何も求めません。それが「無償の愛」です。
 「天が地を高く超えているように 
  私の道は、あなたたちの道を
  わたしの思いは
  あなたたちの思いを、高く超えている(イザヤ55:9)」
 神の愛を、人間的な考え、合理性の枠の中に押し込めようとするのは、神にたいして失礼、まさに「冒とく」と言えるようなものでしょう。

 私たちが毎週ミサに与ったり、祈ったり、善行をしたりするのは、「天国」に「行きたい」からではありません。私たちが母の胎に宿った時から、もうすでに「天国」は「約束」されているのです。その私たちの理解をはるかに超える愛、その恵みに感謝して、それに「こたえる」ために、私たちはミサに与り、祈り、キリストの隣人愛にならおうとするのです。

 私たちの「天国」は神の「いる所(3節)」すなわち「父と子と聖霊の神の座」、「三位一体の神の愛の交わり」です。私たちはその愛の中に、死ねばすぐ、イエスに抱かれて、連れて行ってもらえることができるのです。

 ですから私たちは亡くなる時、こう宣言して、自らの信仰を人びとにあかししましょう。
 「私は天国に行きます。神が私を待っていてくださるからです。私を愛してくださっているからです」

緊急事態宣言の延長にともないミサの中止と教会施設閉鎖を継続

2020年5月6日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

緊急事態宣言の延長にともないミサの中止と教会施設閉鎖を継続

♰主の平和

昨日5日火曜日の夜、前田大司教様から第7次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られて参りました。以下に通達中の重要項目を抜粋、一部編集して掲載いたします。

ご存知の通り、全国一律での緊急事態宣言が5月31日まで延長され、大阪府と兵庫県は特定警戒都道府県とされています。このような状況に鑑みて、以下のようにお知らせいたします。

1. 5月31日(日)まで公開ミサは中止とします。ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。

2. 教区主催の5月・6月の行事に関しては以下といたします。

a)5月20日(水)司祭評議会および聖香油ミサ カテドラル大聖堂にて11時より、10時からの司祭評議会に出席する司祭のみで聖香油ミサ(非公開)を行います。なお、金祝等司祭のお祝いは、後日または来年に行います。

b)5月27日(水) 月修 甲山墓参ミサ:中止

f)6月28日(日) 教区宣教司牧評議会:中止

5.公開ミサ中止期間中、大阪教区のすべての信徒に主日のミサに与る義務を免除します。各自が家庭で、聖書を朗読し祈りを捧げたり、ロザリオの祈りをしたりする時を持つように勧めます。

7.緊急事態宣言の中止等状況が変わった場合は、改めてお知らせいたします。

上記の通達に従って、緊急事態宣言が発令されている間の週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を継続いたします。通達の全文は大阪教区のホームページ(http//www.osaka.catholic.jp)に数日中に掲載されますので、そちらをご覧ください。また主日のミサは大阪教区また東京教区(http//www.tokyo.catholic.jp)のネット中継ミサを通して与り、霊的聖体拝領をされることをお勧めします。

「聖書と典礼」を持ち帰って頂くための方法についてのお知らせ

教区の通達の5.に於きまして家庭において「聖書を朗読し祈りを捧げたり」とあり、これはこれまでの通達に於きましても毎回、勧められている大切なことです。
これをして頂くために毎週の主日のミサで配布される「聖書と典礼」はとても役に立ちます。聖書朗読箇所だけでなく、その注釈、また集会祈願などの各祈願文、共同祈願などが掲載されていて、ミサの流れに沿った祈りを捧げていくこともできるからです。ただ、皆さんがミサに来ることのできない状況では、それを配布することができません。
それで、評議会会長、典礼委員会と話し合い、以下の方法によって、可能な方々には「聖書と典礼」を持ち帰っていただくことにいたしました。

1. 教会聖堂の入り口前に4月、5月分の「聖書と典礼」を机の上に置きます。

2. 「聖書と典礼」は4月分と5月分に分けてホッチキスで綴じて、袋詰めにして箱の中に置いてあります。

3.コロナウイルス感染に配慮して、バスや電車、タクシーなどの交通機関を使用されずに、車のみにて来られる方に限定いたします。

4.駐車場が使用できませんので、車は教会入口にエンジンを切らずに停車させ、聖堂前の「聖書と典礼」を取られた後はすみやかに車に戻られて、発車させてください。

5.「聖書と典礼」の聖堂前での設置は明日7日(木)朝9時より行います。

なお、「聖書と典礼」は一部を取り置いておいて、緊急事態宣言解除後、公開ミサが始まってからも入手できるようにいたしますので、無理をしてまで取りに来られないようにお願いいたします。

毎週土曜日に発信しております聖書の朗読箇所と私の「福音のメッセージ」も続けますので、そちらも合わせて皆さんの信仰生活のためにお使いください。

以上

2020年5月3日復活節第4主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年5月3日復活節第4主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】

使徒たちの宣教(使徒言行録2:14a, 36-41)

 〔五旬祭の日、〕ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話した。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使途たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

【第二朗読】

使徒ペトロの手紙(一ペトロ2:20b-25)

 〔愛する皆さん、〕善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
「この方は、罪を犯したことがなく、
その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

【福音書】

ヨハネによる福音(ヨハネ10:1-10)

 〔そのとき、イエスは言われた。〕「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

【福音のメッセージ】

「わたしは羊の門である」

担当司祭:林 和則

 今日の福音のたとえ話で「たとえ」に用いられているものは「羊の囲い」「羊飼い」「門番」「羊の門」でしょう。それぞれ何をたとえているのかを考えてみますと「羊飼い」と「羊の門」についてはイエスが「私は~である」というように前置きして言われているのでイエスご自身をたとえています。
 
 「羊の囲い」の「囲い」というギリシア語原文の言葉は、ギリシア語に訳された旧約聖書(七十人訳と呼ばれます)では、たびたび「神殿の中庭」を指す言葉として用いられています。つまり「神殿に囲まれた場」ということです。ただこの「神殿」を、イエスが生きていた頃にあったエルサレムの神殿と考えるべきではないと思います。なぜなら福音では、その神殿は旧約の契約を象徴するものであるから、新たにされねばならないと考えられているからです。ヨハネでは、ゲリジム山の聖所で礼拝しているサマリアの女性にイエスは「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る(4:21)」と言われて、エルサレムの神殿での礼拝に替わる新たな礼拝の場所の到来を告げています。この新たな礼拝の場所こそが、ここで言われている「囲い」でしょう。その場所は単純に考えれば、キリストの死と復活を通して打ち立てられたキリストの「教会」と言えます。
 ただ「教会」と考えた場合に大切な視点は、イエスが「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる(16節)」と言われていることです。「その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」ともありますように、「教会」の「囲い」の中にいる人だけが「羊」であると考えてはいけないということです。過去に日本のカトリック教会において次のような考え方があったと聞いたことがあります。(あくまでもこれは「事実」ではない「うわさ」です)
「特に宣教をする必要はない。信徒の夫婦がたくさん子どもを生めば、それで信徒は増えていく。」
もし、このような考え方に立てば「囲い」が教会と世界とを隔てる「壁」になってしまいます。「羊」は「洗礼を受けて教会に通う私たちだけ」となってしまいます。イエスは、「囲いに入っていない」つまり「囲い」の外にも「羊」がいると言われます。つまり、教会の枠だけに捉われない、この世界の人びと全てがイエスにとっては「羊」なのです。このイエスの視点を大切にして、私たちは「開かれた教会」を絶えず意識しなければならないと思います。
 「門番は羊飼いには門を開き(3節)」とあるように、教会の「囲い」の門はこの世界に向かって「門番」によって開かれるのです。この「門番」は「父である神」であると思えます。神は教会の門を開きますが、あくまでも「羊飼い」であるイエスを通してです。私たちが門を通って世界に出て行くのは、自分の思いや力によってではありません。いつもイエスの声(福音)を聞き、それに従うことによって世界に向かっての宣教に開かれていくことができるのです。

イエスが「羊飼い」であるというたとえは教会の中でよく使われてきて、皆さんにとっても親しみのある、好ましいイエスの代表的なイメージでしょう。イエスは私たちを導くにあたって、団体旅行のツアーガイドのように「はい、皆さん、こちらにおいでください」というように私たちを「集団」として見ません。
「羊飼いは羊の名を呼んで連れ出す(3節)」というように、一人ひとり名指しして、その人だけが持つ個性、人格を見つめて、一対一で向き合って、大切にしてくださるのです。一人ひとりの人生に寄りそって、共同体を導いてくださるのです。私はこんなふうに思います。
「神さまは私たち一人ひとりそれぞれを『えこひいき』してくださっている。」 

 イエスはご自分を「羊の門」であると言われます。この門は「天」に向かって開かれています。ヨハネの福音における最初の弟子たちの召命物語の中で、イエスはフィリポとナタナエルに向かって次のように言われます。
「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる(1:51)」
 この言葉は旧約聖書の創世記のヤコブ物語を背景としています。ヤコブが父イサクをだまして兄エサウの長子権を奪い取ってしまったために、エサウは激怒します。身の危険を感じたヤコブは、母リベカの兄である伯父のラバンのもとへと逃亡します。その逃避行のある夜、野宿をするヤコブは夢を見ます。
「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた(28:12)」
 夢からさめたヤコブは言います。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ(28:17)」
 イエスはフィリポとナタナエルに自分こそが真の「天の門」であると言われているのです。新約聖書では「天」とは「父と子と聖霊の神」の座、三位一体の愛の交わりを指します。その交わりが「開け」神の子が人間イエスとなって世に来られたのは、私たちを「天」である「父と子と聖霊の愛の交わり」に招くためでした。私たちはイエスを通して、その交わりの中に入って行けるのです。これこそが私たちの「天国」です。真の「神の家」です。

 最後に「羊の門」について、どうしても皆さんにお話しし、分かち合いたいことがあります。
 今からもう15年ほど前になりますが、私の担当していたブロックの待降節黙想会の指導司祭に釜ヶ崎の「ふるさとの家」の本田哲郎神父様をお招きしたことがあります。本田神父様は講話の中で「羊の門」を取り上げられ、自分はエルサレムに行って本物の「羊の門」を見た時に初めて、このたとえがわかったと言われました。
羊の門は低い囲いの中にあるために大人の腰のあたりまでしかないほどに低く、小さな木造の門であって、その門柱は汚れまくっていたそうです。なぜなら、羊たちは外から帰って来ると外で着いた汚れを門柱にごしごしとこすりつけて落とすそうです。だから泥やさまざまな野外の汚れがしみついてしまっているのです。「羊の門」は小さくてみすぼらしい、羊たちの汚れにまみれた「門」だったのです。普通だったら、こんな「門」が「私である」とは言わないものだと本田神父様は思われ、そして、涙が出そうになったそうです。
 どうぞ、皆さんもこの「門」を黙想しつつ、イエス様のイメージに重ね合わせてみてください。

2020年4月26日 復活節第3主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

2020年4月26日 復活節第3主日A年 み言葉と林神父様のメッセージ

【第一朗読】

使徒たちの宣教(使徒言行録2:14, 22-33)

  〔五旬祭の日、〕ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。
  ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。
 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
 主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。
 体も希望のうちに生きるであろう。
 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
 あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
 あなたは、命に至る道をわたしに示し、
 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
  兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、
 『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』
と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」

【第二朗読】

使徒ペトロの手紙(一ペトロ1:17-21)

  〔愛する皆さん、〕あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。

【福音書】

ルカによる福音(ルカ24:13-35)

  この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
  一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

【福音のメッセージ】

「イエスは生きておられる」

担当司祭:林 和則

 新約聖書はギリシア語で書かれています。今日の「エマオへの旅人」と呼ばれているルカによる福音書の24章13節から35節までのギリシア語原文では、23節の「イエスは生きておられる」という言葉がこの物語の中心に位置するように構成されていて、この言葉がテーマであることが表現されています。

 この物語の前半部では、ふたりの弟子が暗い顔をしながら絶望のうちに故郷への道をたどりつつ、途中で出会った「見知らぬ人」に向かって、イエスの死にまつわる過去を語ります。その中心点は「墓」です。イエスは十字架の死によって「墓」に入れられました。けれども、その「墓」に遺体を見つけられずに婦人たちが戻って来ます。それを聞いた弟子たちはあわてて「墓」に向かいますが見つけることはできませんでした。婦人たちも弟子たちも「墓」の中にイエスを探し求めます。ある意味、ふたりの弟子は「墓」の中からイエスが消えてしまったことに絶望して「空の墓」からの逃亡の旅路にあったと言えます。ふたりにしてみると、死んでしまったイエスと出会える場、その思い出に浸れる場は「墓」という場にしか残されていなかったからです。
 「見知らぬ人」であったイエスが「ああ、物分かりが悪く」「心が鈍く」「信じられない」者たちと言われたのは「イエスは生きておられる」という天使の言葉を信じられずに、いつまでもイエスを「墓」の中に求めて、その場の周りをさまよっている婦人たちと弟子たちに向けてのことばであったと思います。

 そしてイエスはふたりに、イエスと出会える真の場を見せます。
「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった(30節)。」その時ふたりは「イエスだと分かった(31節)」のです。
イエスのされたことは最後の晩さんのときと同じ所作でした。そしてその所作は、イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい(ルカ22:19)」と弟子たちに命じられたことによって、教会が「最後の晩さんの記念」として現代に至るまで行ってきた「ミサ」の中で司祭の手を通して繰り返され続けてきているのです。
 「生きておられるイエス」はもはや「墓」の中にいません。弟子たちが気づかなかった、見えなかったように、目には見えませんが今もいつも、私たちの人生の旅路に付き添って、共に歩んでくださっています。イエスは私たちの「現在」の中に生きておられるのです。ただイエスが「人」として生きられた過去の出来事を想起することは大切です。父なる神はイエスの生涯を通して、ご自分を完全に啓示されたからです。それが福音であり、それを書きとどめたものが福音書なのです。
 それを単に「過去」として読んで想起するだけでなく、現存させてくれるものが秘跡であり、特にミサこそが中心的な秘跡なのです。ただ秘跡によって体験したキリストを人びとの交わりの中で生き、実体験してこそ、真に「復活のキリスト」に出会えることになると思います。ミサもまさに共同体の中で祝われる「コムニオン(交わり)」です。

 私たちはみんな「エマオへの旅人」だと思えます。ふたりは夕暮れに向かって歩いて行きます。私たちも人生の夕暮れである「死」に向かって旅しているようなものです。しかもその旅路は生きていくための様々な労苦や痛みに満ちています。時にうつむいて過去のことをぶつぶつと呟きながらの歩みになります。また先の見えない不安の中に陥ってしまって、道を見失う時もあります。
 でも、どんな時でもイエスがそばにいて、一緒に歩いていてくださるのです。見えないだけです。時には出来事や出会う人びとを通して語りかけてくださいます。
そして何よりも毎週の主日のミサにおいて私たちと共にとどまってくださり、食事を共にしてくださり、司祭の手を通して、パンを裂いて渡してくださいます。
その時、私たちはイエスが共におられることを実感し、心が燃えて、ふたたび元気よく旅立っていく力をいただくのです。
 実は私たちキリスト者にとって人生の旅は「死」という夜に向っての旅路ではありません。キリストが「死」を打ち破ってくださったことによって「復活の朝」に向かう旅路となったのです。復活のキリストという、輝かしく昇る朝日を見つめて歩む旅路なのです。

 今は、大阪教区、また東京教区のネット中継を通してでも、私たちの何よりの旅路の糧であるミサに与るようにしてください。

緊急事態宣言が発令中はミサの中止および教会施設閉鎖を継続いたします

2020年4月24日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

緊急事態宣言が発令中はミサの中止および教会施設閉鎖を継続

♰主の平和

 23日水曜日の夜、前田大司教様から第6次の「新型コロナウイルス感染症にともなう措置」の通達がFAXによって送られて参りました。以下に通達中の重要項目を抜粋して掲載いたします。

1. 緊急事態宣言は5月6日(水)までとされていますが、大阪教区内の府県(大
阪・兵庫・和歌山)においてこれが延長された場合、宣言が発令されている期間中の公開ミサは中止とします。ミサ以外の諸行事や講座などに関しては、できる限り延期または中止するようにしてください。

7.緊急事態宣言が中止された場合には、改めてお知らせいたします。

 上記の通達に従って、緊急事態宣言が発令されている間の週日、主日のミサの中止、また聖堂、信徒会館の施錠、駐車場、遊具の使用禁止による教会の閉鎖を延長いたします。

 主日のミサに与る義務の免除などは従来通りです。通達の全文は数日のうちに大阪教区のホームページ(http//www.osaka.catholic.jp)に掲載されますので、そちらをご覧ください。

 また、カリタスジャパンが新型コロナウイルス感染症緊急募金を開始しました。
 カリタスジャパンのホームページ(http//www.caritas.jp)をご覧ください。

募金受付口座は次のとおりです。
郵便振替:00170-5-95979
加入者名:宗教法人カトリック中央協議会 カリタスジャパン
*記入欄に「新型コロナ緊急募金」と明記してください。

 世界はいまだ新型コロナウイルス感染症の脅威のもとで多くの被害が出ています。感染による被害だけでなく、経済的また人と人の交わりなどに深刻な影響が出ています。教会共同体の交わりもそうです。直接的な交わりはできません。けれども私たちは信仰宣言で唱えているように「聖徒の交わり」を信じています。地上的ではない、死をも超えた霊的な交わりです。

 日々の祈りの中で垂水教会の信徒の交わりを霊的につなぎ続けていきましょう。

4月19日のミサ(神のいつくしみの主日)

4月末日までの週日・主日ミサを中止いたしますので、ご自宅でお祈り下さい。

復活節第2主日A年(神のいつくしみの主日) 2020年4月19日

【第一朗読】
使徒たちの宣教(使徒言行録2・42-47)

 〔信者たちは、〕使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

【第二朗読】
使徒ペトロの手紙(一ペトロ1・3-9)

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

【福音書】
ヨハネによる福音(ヨハネ20・19-31)

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

福音のメッセージ

「あなたがたに平和があるように」

担当司祭:林 和則

 復活節第二主日の福音は毎年、典礼暦A年、B年、C年に関わりなくヨハネによる福音書の第20章19-31節が読まれます。
 余談ですが、私たち司祭が教会を異動する場合には復活の主日から第二主日の間までに引越しを済ませるようにとされています。そのため昨年、垂水教会に異動してきた際にも、私にとって垂水での最初のミサ、最初の説教となったのが、復活節第二主日のミサまた福音についての説教でした。いわば今日で典礼暦上では垂水に来て一年がたったことになります(実際の暦では4月28日でした)。私にとって一周年のミサを皆さんとともにお捧げすることができないことは、さみしい限りですが「いのちを守る」行動のために仕方がないと思います。ともかく一年がたち、改めて垂水のようなすばらしい(お世辞ではありません)教会共同体で担当司祭として働けることを神に感謝したいと思います。

 昨年の説教では福音の前半部分について説教しました。特に忘れないでいただきたいポイントは次の箇所です。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る(23節)」
 この箇所はしばしば、イエスが弟子たちに「裁きの権能」を与えたのだと取られがちです。でも私はそうではないと思います。受難物語における大きなモチーフのひとつは「弟子たちの裏切り」です。ユダだけではありません。イエスの逮捕の時、弟子たち全員がイエスを見捨てて逃げたのです。またペトロは人びとの前でイエスを三度も「知らない」と否定します。さらに弟子たちは自分たちを見逃してもらうために大祭司たちと取引をしたという仮説もあります。
 いずれにしましても弟子たちは「主を裏切った」という強烈な罪悪感また自己嫌悪に陥っていたと思えます。だからこそ「戸に鍵をかけていた(19節)」のです。弟子たちは「心の戸」に鍵をかけ、引きこもっていました。弟子たちにとって絶望的だったのは「イエスが死んでしまった」ということです。もう、謝ることも、つぐないをさせてもらうことも、もちろん赦してもらうことも「不可能」だということで、弟子たちにとって残る人生の日々はこの罪を背負い続けて生きるという牢獄のようなものとしか考えられなかったでしょう。
 そこにイエスが現われ「平和」という「ゆるし」を宣言されたのです。「不可能」と思われていたことを、イエスが復活によって打ち破り、一方的に赦してくださったのです。弟子たちにとって、イエスが復活されたことは自分たちを赦すため、罪から解放するためであったと思えたことでしょう。
 このように考えれば23節のことばの後に次のようにつづければ、その意味がよくわかると思います。
「けれども、あなたがたは「罪が赦されないまま残る」ことがどれだけ苦しいか、その苦しみを十分に味わったはずだ。だから、わたしがあなたがたを赦したように、どんな罪であっても赦しなさい」
 イエスのことばは「裁き」ではなく、「七の七十倍(無限という意味)までも赦しなさい(マタイ18:22)」という「ゆるし」の福音を全世界に伝えなさいという、宣教への派遣だったのです。

 今日は、昨年は触れませんでした後半の福音についても分かち合いたいと思います。後半は前半の復活の日から「八日の後(26節)」とされていますが、現在の日数の数え方では「一週間後」になります。ですから後半の福音こそが復活の主日の一週間後である第二主日にふさわしいと言えます。
 
ここでの主要人物は十二弟子のひとりのトマスです。理由は書かれていませんが、前半のイエスが現われた時に十二弟子の中でトマスひとりだけがその場にいませんでした。トマスは言います。
「あの方の手に釘の後を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない(25節)」
 ここからトマスは聞いただけでは信じない、疑り深い人のように思われるかも知れません。でも私は実はトマスは悔しかったのだと思います。自分ひとりだけがイエスさまから除け者にされたようでさびしくて、すねてしまったのだと思うのです。ですからイエスがトマスの前に現れて、手の釘跡やわき腹に指を手を入れなさいと言われても、そうせずにただイエスの前にくずおれるようにひざまずき、おそらく泣きじゃくりながら「わたしの主、わたしの神よ(28節)」と言いつづけていたのだと思います。トマスはイエスさまにまたお会いすることができた、ただ、それだけでよかったのです。
 けれどもこの後半にはイエスとトマスとのほほえましい心の交流だけではなく、私たちへの大切なメッセージがあります。

 私は3月22日の四旬節第四主日の福音のメッセージ「遣わされた者」の中でヨハネの福音書は過去のイエスの生前の出来事と福音書が書かれた時の初代教会の共同体の現代とが重ね合わせられていると書きました。ここにもそのような重ね合わせが使われています。
 トマスは「ディディモと呼ばれる(24節)」とありますが「ディディモ」はギリシア語で「双子」という意味です。「トマス」というアラマイ語(イエスの時代のユダヤの公用語)も「双子」という意味です。ここにヨハネは「トマスは今、福音を聞いているあなたがたの「双子」のような存在なのだよ」と当時の初代教会の人びとに、そして私たちに語りかけているのだと思います。
 「トマス」はイエスの復活の「現場」に立ち会えなかった人びとの「分身」のような存在だということです。その「現場」から2000年近くも離れている私たちにしてみれば、立ち会えなかったことをもっともなこととして自然に受け入れているでしょう。けれども「現場」からまだ50年程度しか時間的に離れていず、地理的には同じユダヤに住む初代教会の人びとにしてみれば「私も復活の時、イエスさまに出会いたかった」という思いは切実なものであったと思えるのです。そのような思いにたいしての慰めをヨハネは「トマス」にこめたのではないでしょうか。それがもっともよく表れているのが次のことばです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである(29節)」
 この「見ないのに信じる人」こそが初代教会の人びとであり、そして私たちです。イエスはそんな私たちにたいして「幸いである」と仰ってくださっているのです。「見たから信じた人」よりも「見ないのに信じた人」の方がより信仰の眼差しをもってキリストに近づいたと言え、より強い信仰を持っているとイエスは私たちを励ましてくださっています。
 そしてヨハネは今も主の日の礼拝、その中心であった、当時は「パン裂き」と呼ばれていた最後の晩さんの記念においてイエスは現存し、今も「あなたがたに平和があるように」と私たちに言われつづけていると伝えようとしていると思います。
 
現在の教会に生きる私たちもそうです。あの復活の朝の「現場」から時間も場所も遠く離れていても、私たちが主の日に集まってミサを捧げる時に、イエスが私たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と言っておられるのです。
 一日も早く、また、そのように共同体がイエスを真ん中にして、ひとつになって主の復活をお祝いできる、いつもの主の日が来ることを、気を落とさずに絶えず祈り求めていきましょう。

アベイヤ補佐司教様が福岡教区司教に任命されました

2020年4月15日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

アベイヤ補佐司教様が福岡教区司教に任命されました

♰主の平和
 昨夜、前田大司教様より「ヨゼフ・アベイヤ補佐司教の福岡教区司教任命のお知らせ」という表題のFAXが送信されてきました。
 以下にそのお知らせの主要な文面を抜粋して掲載いたします。

「教皇フランシスコは、2020年4月14日ローマ時間正午(日本時間同日19時)、本教区補佐司教のヨゼフ・アベイヤ司教を、福岡教区の司教に任命すると発表されました。

 福岡教区は、2019年4月に前司教の宮原良治司教の引退が受理され、以来福岡教区司祭の杉原寛信師が使徒座管理区長を務めてきました。同教区の教区長として7代目になります。

 着座式の日程が決まりましたら、追ってお知らせいたします。また、アベイヤ司教様が受け持ってくださっていた様々な役割の後任人事についても、決まり次第順次お知らせいたします。」

 アベイヤ司教様は2年間、大阪教区の補佐司教として精力的に働いてくださいました。昨年5月26日の主日には垂水を訪問してくださり、宣教のための力強いメッセージを語ってくださいました。
 アベイヤ司教様のこれまでのお働きに感謝し、また福岡での更なるご活躍をお祈りいたしましょう。

以上

復活ろうそく

垂水教会の信徒の皆様

昨夜の愛徳カルメル会本部修道院聖堂での復活徹夜祭のミサで祝福しました垂水教会の復活ろうそくが復活の日の朝、聖堂内に立ちました。

また、この復活のろうそくのもとで垂水教会の共同体がひとつに集まって、ミサが捧げられる日が来ることを祈り求めましょう。

担当司祭:林 和則

ご復活、おめでとうございます

【2020年4月12日】

復活の主日

【第一朗読】

使徒たちの宣教(使徒言行録10・34a、37-43)

  〔その日、〕ペトロは口を開きこう言った。「あなたがたは【このことを】ご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

【第二朗読】

使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント5・6b-8)

  〔皆さん、〕わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。

【福音書】

ヨハネによる福音(ヨハネ20・1-9)

  週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。

福音のメッセージ

「ご復活、おめでとうございます」

カトリック垂水教会担当司祭:林 和則

♰主の平和

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに(20:1)」
 私たちの主イエス・キリストはまさに今朝、復活されました。今日の復活の主日典礼暦A年のヨハネの福音は今日、私たちの中に実現しました。それは「まだ暗いうちに」、完全に明けきらぬ、まだ世界が暗闇の中に捉われていた時にも関わらず、主は復活されたのです。今のこの世界も未知のウイルスの感染という暗闇に覆われていて、いつ終息するのかもわからない不安の中で私たちはおびえています。けれども、その暗い中にあっても、主の復活はすでに成し遂げられていることを信じて、希望を持ちましょう。

 「墓から石が取りのけてあるのを見た(20:1)」
 この「石」、生者の世界と死者の世界を隔てるこの石は人類の歴史が始まって以来、誰も取りのけることはできませんでした。どんなに泣いても、呼んでも、死者が生者の世界に戻ってくることはありません。その無言の巨大な石は厳然として人類の前に立ちはだかり、人類はその前にひざを屈するしかなかったのです。死によって全ては終わり、その先に道はないことを示していました。
 マグダラのマリアとペトロたちもそのように全てを終わったこととして、あきらめていました。「石が取りのけられてある」のを見、また聞いたのにも関わらず、まだ「墓」にこだわるのです。
 「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません(20:2)」
 マリアはまだ「墓」の中にだけ、イエスをさがし求めています。「墓」に捉われ、イエスが予告されていた「復活」という新しい世界に開かれていくことができません。
 「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った(20:3)」
 ペトロもやはり、「墓」に走って行きます。「墓」の中にイエスをさがしに行くのです。ある意味、それはイエスの「死」という過去に捉われ、未来ではなく過去に向かって走っている姿であるのかも知れません。中に入ったペトロは「亜麻布が置いてあるのを見た(20:6)。」単にイエスの遺体が存在しないということを「見た」だけでした。けれども、先に着きながらも後から入ったもう一人の弟子は違います。
 「見て、信じた(20:8)」
 単に「見た」だけではなく「信じた」のです。何を信じたのか、「復活」を信じたとしか考えようがありません。けれども、そうだとすると「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである(20:9)」という記述に矛盾することになります。
 これについてはこの「もう一人の弟子」が誰であったのかを考えることがカギになります。先に2節ではこの弟子を「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と表現していて、以前はこの弟子はヨハネであるとされていました。けれどもここでは説明を省略いたしますが、現在ではこの弟子はこの聖書を聞き、また読んでいる人が自分をこの「愛された弟子」にあてはめることによって、自分も登場人物のひとりになって、追体験するための「仕かけ」と考えられています。
 ですから、この福音書が書かれた時代にあっては初代教会の人びと、現代にあっては私たち自身が、この「イエスに愛された弟子」であるのです。そうなると、私たちはすでにイエスの復活を知ったうえで福音の物語の中にいます。つまり物語の中にいながらも「枠外」にいて、物事を見ていることになります。ですから、私たちが「墓」に行くということは、ペトロ(福音の物語の枠の中にいます)と違って「イエスの遺体」をさがしに行くのではなく、「イエスの復活」を確認するために行くのです。
 そして私たちは福音記者が証言するその場景を聞かされたことによって「見た」ことになり、そして信じるのです。
 少し複雑になりますが、ヨハネの福音は過去と現在の読者との間を自由に行き来します。それで物語に整合性を持たせるために、ペトロだけでなく「二人は」というように表現していると考えるのです。
 せっかくの復活のお祝いの日に理屈っぽいメッセージになってしまって、すみません。大切なことは私たちが今日のヨハネが福音書に書き残した復活体験を聞いて、「聞く」だけでなく「信じる」ことです。
 イエスは誰も取りのけることのできなかった「死」という「石」を取りのけて、まったく新しい世界を開いてくれた、ということを信じることです。復活の朝、「永遠の命」という終わることのない、無限の可能性が私たちの命に与えられたのです。この世的な価値観のもたらす様々な負の面(失敗、挫折、格差、憎悪など)に束縛されることのない、傷つけられることのない、本当の自由と喜びが無限に広がる命です。それらはすべて、キリストの十字架の奉献によって達成されたのです。

 物理的に集まることはできなくても、体は離れていても心をひとつにして、新しい過越、主イエス・キリストの死と復活を讃美し、感謝しましょう。

復活の主日 復活の聖なる徹夜祭

2020年4月11日

カトリック垂水教会 信徒の皆様

担当司祭:林 和則

復活の主日 復活の聖なる徹夜祭

♰主の平和
 聖木曜日のメッセージの冒頭で「聖なる三日間の典礼」は一年間の典礼暦の頂点と言ってもよいとお伝えしましたが、その三日間の中での頂点が「復活の聖なる徹夜祭」の典礼です。
 気をつけていただきたいのは、「復活の聖なる徹夜祭」は「聖土曜日の典礼」ではありません。カトリック中央協議会が発行している「聖週間の典礼」の儀式書では次のように書かれています。
「聖土曜日に教会は、主の墓のもとにとどまって、その受難と死をしのび、祭壇の飾りを取り除き、ミサもささげない(儀式書238頁より)」
 これを読んで「でも、土曜日の夜に行われているじゃないか」と疑問に感じる方もおられるでしょう。実はこれはユダヤ教の一日の考え方に基づいています。ユダヤ教(つまりイエスもこのような生活のリズムの中で生きておられたのです)では、一日は前日の日没から始まり、当日の日没で終わるのです。そのため、聖土曜日もその日の日没で終わり、その夜から復活の主日が始まるという初代教会の考え方が伝統的に守られてきました。ただし、四つの福音書すべてが語っている通り、「復活」は復活の主日の朝に起こりました。古くから教会はその復活の朝を眠ることなく徹夜して待ち通すという伝統を持っていて、それが復活徹夜祭となっていったのです。
 徹夜祭の開始において照明を落とした暗い聖堂の中で、手にしたろうそくに灯りをともして信徒が司祭の入堂を待つのはルカ12:35―40の「目を覚ましている僕」のたとえのイメージに基づいているといわれています。
「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ(12:38)」
 ですから、会衆は司祭が掲げる「復活のろうそく」に象徴されている「復活されたキリスト」を「ともし火をともして(12:35)」迎えるのです。
もちろん、現在の生活事情もあって、実際に徹夜をするわけではありませんが、大切なことは「目を覚ましている」ことです。それはこの世だけでなく、日々の生活において絶えず「信仰」に目覚めていることです。地上に生きる私たちは日常の生活の中に生きているうちに、目に見える地上的な価値観に流されて、信仰が鈍り、眠り込んでしまいがちです。ですから地上の生活にあっても、目に見えない世界、何よりも復活して今も生きているキリストを見つめる信仰にいつも目覚めていなければなりません。四旬節はいつの間にか眠り込んで惰性に陥っていた信仰の目を覚ます時であったとも言えます。「ともし火」は何よりも私たちの中の「信仰」であり、ろうそくと共にしっかりと復活の主に示しましょう。

 そして徹夜祭における復活のろうそく、その光こそが復活のキリスト、今も私たちの中に生きておられ、光を輝かせているキリストのシンボルで、復活徹夜祭の中心です。その光は聖堂の中だけで輝いているのではありません。聖堂の壁を貫いて、全世界に輝いているのです。それは新しい天地創造であると言えます。
「光あれ(創世記1:3)」
 神がこの世界を創造される際に最初に発したことば、それによって混沌の地に輝いた光、キリストはまさに復活によって、人類の混沌の歴史の中に新たな光、神の愛を輝かせ、世界を新たにされたのです。
 それは今年、未知のウイルスの恐怖におびえ、先の見えない不安の中で暗闇のような状況にある今の世界にこそ、必要なのです。教会はそのような世界に向かって、復活のろうそくを高々と掲げ、「光あれ!」と希望を響かせるのです。
 今年、私は垂水教会の聖堂ではそれをできませんが、今夜、愛徳カルメル会本部の修道院での復活の徹夜祭の典礼において復活のろうそくを掲げます。それは修道院のシスターの方がたのためだけでなく、垂水の地域に生きるすべての人びと(信徒だけでなく)のために掲げるのです(なお修道院のミサは院内のシスター方のためだけの「非公開」のミサとして司教様から許可されています。そのため皆さんの参加はできないことをご了解ください)。皆さんは垂水の地に復活のろうそくが、キリストの光が掲げられたことを喜び、そこに参加はできずとも、垂水の人びとのため、また全世界の人びとのためにお祈りください。また、可能な方は大阪教区もしくは東京教区のネットミサで復活のろうそくを仰ぎ、この世界にキリストの光が満ちあふれますようにと祈りを捧げてください。

 復活の徹夜祭のことばの祭儀には九つの朗読があり、そのうち七つは旧約聖書から、二つは新約聖書(パウロの書簡と福音書)から取られたものです。

「創世記1:1~2:2」「創世記22:1~18」「出エジプト記14:15~15:1a」
「イザヤの預言54:5~14」「イザヤの預言55:1~11」
「バルクの預言3:9~15、32~4:4」「エゼキエルの預言36:16~17a、18~28」
「使徒パウロのローマの教会への手紙6:3~11」
「マタイによる福音28:1~10」

 そこでは創世記の天地の創造から、新約の復活の出来事に至る、神の救いの歴史が俯瞰的に語られています。私たちはそれを通して、神が人類の歴史の始まりから共に歩んでくださって、キリストを通して私たちを救ってくださったという壮大な神の御手のわざを実感し、その中に自分の人生があることの恵みを感謝します。どんな人の人生もちっぽけなものではありません。時空を超えた神の計らいの中に置かれた、神にとっての宝なのです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた(申命記7:6)」
 ぜひ、ご自宅で聖書を開いて、上記の朗読箇所を読まれて、神の救いの歴史を黙想してください。

 このように神の救いの歴史を通して読むのは、ユダヤ教の過越の祭りに源流があります。過越の祭りの夜、家族がひとつに集い、過越のいけにえの子羊を共に食し、その後、父親が子どもたちに救いの歴史を語るのです。
「あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときには、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と(出エジプト記12:26~27)」
 この時、父親は聖書に書かれてある出エジプトの出来事を語り、神がイスラエルの民を救われたことを子々孫々に語り継いでいくのです。
 復活徹夜祭においても、教会は教会の子らに救いの歴史を年ごとに語り継ぎ、感謝して、心に刻み込むようにとしているのです。
 今年は教会に集まれないので、過越の祭りの原形のように、家族の皆さんで朗読箇所を味わい、キリストを通して実現した新しい過越について語り合ってみるのは、いかがでしょうか。その際、小さなお子さんがいれば、お父さんお母さんは絵本を読み聞かせるように(聖書絵本があればそれをお使いください)、語ってあげてください。
 復活徹夜祭は過越の祭りを原形としていて、同じように、「家族の祝い」なのです。まず大きな、教会の家族のお祝いです。ですから、この祝いに教会に集まって共に祝えないことは本当に残念なことです。ぜひ今夜、物理的に離れていても、心は共にあるという思いで、垂水の教会共同体、さらに全世界の教会共同体のためにお祈りください。
 そして小さな、家庭としての家族のお祝いです。教会に集まれない分、今年は家庭での祈りを大切にしてください。家族でネット中継のミサに与る、聖書を朗読するなど、してみてください。

祈りのうちに